主は言われた。「わたしの臨在(直訳:顔)がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジ33:14)
モーセが十戒の板を授かっていた時に、すでに金の子牛を造って堕落していた民。
主はその姿を深く悲しみ、「あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われました。
しかし、モーセは主なる神と親しく語り合い、祈り嘆願し続けました。
主の道を教え、主のみこころにかなうように歩みたいのですと訴え、主がこの民のただ中で導いてくれるよう頼みました。
自分たちの安心のために目に見える神が欲しいと言った民の姿と対照的です。
その時の主の答えが
「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」でした。
イザヤ書63:11でも、主がともに苦しみ、この民を救い出し、ずっと背負って担われたと語られています。
主ご自身がともに苦しみ、どんな困難な時にも見捨てることなく、私たちを背負い担いでくださるのだと励まされます。
見捨てられても仕方がない愚かな者であるのに、主は愛とあわれみによって、あきらめないで何度も救い、その民を休ませてくださるのです。
私たちを造られた主だけが、私たちに本当の休みを与えてくださいます。
神ご自身の臨在が私たちのただ中にいつもあり、その御顔の光が私たちを照らし続けますように!
(2019年8月4日 週報掲載)