東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/08/21

教会開放日



8/21(水) 本日は教会開放日でした(PM1:30~5:30)。

そこでプラバン作りをしました。

 
とてもキレイに出来上がりました!!
 
教会開放日については、イベントページを見てください。
 
※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2019/08/18

ねたむ神とは?


あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。(出エジ34:14) 

ご自分を「ねたみの神」だとおっしゃる神が他にいるでしょうか。ねたむほどに人を深く愛し、よそ見をしないように「わたしだけを見よ」と語りかける神が他にいるでしょうか。

「どの神を拝んでもいいよ」という発想は、一見すると気前良く見えます。何でも自由に許可される事が一見幸せに見えるように・・・。

かし、私たちは無関心、放任主義の相手からは本物の愛を感じられないのではないでしょうか。深く愛しているからこそ、その愛が踏みにじられた時に、深く傷つき悲しむのです。

主は、あなたを深く愛しておられ、興味、関心を持ち続けているので、心が離れていることが悲しくて仕方がないのです。それほどに情熱をもって、親しく関わりたいという神のご性質を現わすために、あえてこの表現が用いられています(擬人法)。

人に伝わる表現を用いて、神がこれをお伝えになることこそ、私たちに対する強い関心の現れではないでしょうか。人の成功をうらやむ「ねたみ」とはかけ離れた、深い愛の情熱を現わす「ねたみ」なのです

神のねたみとは、まさに真実な愛に人を留まらせるための「優しさ」でもあります。
(2019年8月18日 週報掲載)

2019/08/11

キリストに満たされよう



あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロ2:10) 

キリストを信じた時から、私たちのうちにはキリストの御霊が住まわれています

そのキリストのうちには神のご性質が満ちており、キリスト者は神のうちにある豊かなご性質で満たされる資格を与えられていると言えるでしょう。

キリスト者は、愛、寛容、平安、誠実など、神のうちにある豊かな性質を日々新しく備えられていくのです。こうして、私たちは内側から変えられ、キリストご自身のように変えられていきます。

しかし、しばしば私たちのうちには古い自分の顔があり、昔からの罪深い価値観、人間的なこだわり、聖書とはかけ離れた考え方をしている事があるものです。

せっかくキリストの心をいただいたのに、私たち自身が古い性質にこだわり、神に明け渡すことをせずにいるのです。

ですから、このみことばにあるようにキリストの支配と権威に自身をゆだね、新しい神の価値観にイキイキと歩む者とされましょう。

肉の思いによって歩むのでなく、キリストによって歩むのです。この世の教えに流されず、人間的な知恵によらず、徹頭徹尾、主のみことばに根ざして信仰を堅く保とうではありませんか。

(2019年8月11日 週報掲載)

2019/08/04

神ご自身がアナタを休ませる


主は言われた。「わたしの臨在(直訳:顔)がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジ33:14)  


モーセが十戒の板を授かっていた時に、すでに金の子牛を造って堕落していた民。

主はその姿を深く悲しみ、「あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われました。

しかし、モーセは主なる神と親しく語り合い、祈り嘆願し続けました。

主の道を教え、主のみこころにかなうように歩みたいのですと訴え、主がこの民のただ中で導いてくれるよう頼みました。自分たちの安心のために目に見える神が欲しいと言った民の姿と対照的です。

その時の主の答えが「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」でした。

イザヤ書63:11でも、主がともに苦しみ、この民を救い出し、ずっと背負って担われたと語られています。主ご自身がともに苦しみ、どんな困難な時にも見捨てることなく、私たちを背負い担いでくださるのだと励まされます。

見捨てられても仕方がない愚かな者であるのに、主は愛とあわれみによって、あきらめないで何度も救い、その民を休ませてくださるのです。

私たちを造られた主だけが、私たちに本当の休みを与えてくださいます。

神ご自身の臨在が私たちのただ中にいつもあり、その御顔の光が私たちを照らし続けますように!
(2019年8月4日 週報掲載)

2019/07/28

見えるものは一時的、見えないものは・・・


民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(出エジ32:1-14)  

 なぜ人は目に見える身近なまがい物に依存してしまうのでしょうか。
 
 それは「楽な方法」だからです。
 
 この時、イスラエルの民も見えない神により頼むのではなく、見える人間モーセにより頼んでいたのです。ですから、モーセが姿を見せなかったら不安になりました。それで、自分たちを先導する「神々を造ってくれ」と言い始めました。本来、人は「神の栄光のため」に造られたのですが、「自分たちの安心のため」に神を造ろうと言い始めたのです。
あべこべです。
 
神の栄光のために造られた人間が、自分たちの都合に合わせた神を求めた時、神を「神でない造り物」におとしめてしまったのです。ゆえに神がわからなくなりました。
 
万物の創造主、全知全能の偉大な神を見失いました。信仰は、見えなくとも確かにおられる神に信頼し、見えない将来をも神にゆだねて生きるものです。見えるものは一時的です。見えない無限の神、永遠の神を信じましょう。
(2019年7月28日 週報掲載)
 




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