子どもたちのうちにあるものを豊かに生かし、伸ばし、豊かにすること。
2019/09/10
2019/09/08
神をあがめる人生を歩もう
そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。(ルカの福音書17:15-16)
ツァラアトという難病をイエスに癒してもらった人々は10人。しかし、そのことで神をあがめ、ほめたたえながら戻って来てイエスに感謝した人は1人だけでした。
しばしば信仰というものを、願いを叶えてもらうための手段にしてしまってはいないでしょうか。
助けてもらいたい時には、今までにないほど必死に祈ります。
しかし、祈りが応えられるとごく短く感謝を済ませ、あっという間に忘れてしまうのです。
何のために癒してくださったのでしょうか。何のために助けてくださったのでしょうか。
私たちがその出来事を通して神のすばらしさを体験し、そのみわざの豊かさを人々に語り告げ、神の栄光を現すためではないでしょうか。
今まで以上に神に信頼し、神をあがめる人生を送るためではないでしょうか。皮肉にもこの時、神をあがめながら感謝しに帰って来たのは、選民ユダヤ人ではなく、彼らが嫌うサマリア人です。
神の前に喜ばれることは、生まれを誇ることではありません。
いただいた神の恵みに心から感謝し、神をあがめて生きていくことです。
(2019年9月8日 週報掲載)
2019/09/01
輝く日々 神とともに
それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(出エジプト記34:29)
現代の世界情勢を見る時、闇が日に日に深まっていると感じます。しかし、神の光の中を歩むよう招かれているキリスト者ですら、希望を見失い暗い表情でギリギリ生きているという人が少なくないように思えます。悪魔はそれを見てほくそ笑んでいることでしょう。
私たちは闇の中で色を失い、闇と同一化してはなりません。世の光として召されたキリスト者こそ、神の御顔の輝きを世に現すひとりひとりでなければなりません。
けれどもそれは、人の血肉の努力によるものではなく、キリストの御霊によることです。
モーセが神の前に時間をささげ、40日40夜ともに過ごしたゆえに、その顔が神の栄光の輝きを帯びていたのです。
私たちもまた神の御顔の輝きを求め、御霊によって主と親しく歩ませていただきましょう!
神との時間をどれだけ大切に過ごしているか。
それが私たちの輝きそのものであると知りましょう。闇に長く身をおけば闇に染まりますが、神の御顔の光の中を歩めば、あなたにその輝きが与えられていくのです。
「主から豊かに受け、人に豊かに与えていく」
これこそ、キリスト者の信仰生活の神髄ではないでしょうか?
(2019年9月1日 週報掲載)
2019/08/25
主により頼む時、つまずきから守られる
同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)
私たちがつまずいたり、つまずかせたりしてしまう原因は、神により頼まず自身の力を頼る高慢が挙げられます。私たちは自分が思っているよりも弱く、罪の罠におちいりやすいものなのです。
それらは「自身の祈りの巧みさ」や「自身の信仰の強さ」によって勝利できるものではなく、主の助けを求め、主より知恵と力をいただき、主の御霊の導きによって勝利すべきものなのです。
そうであれば、私たちが主のことばに従い、豊かな実りを見た時にも、自分の祈りや信仰を自慢するのではなく、上記のみことばのように『私は取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と告白すれば良いことです。
逆に、いつでもこの告白が自分のものとなっているならば、多くの誘惑から守られるのではないでしょうか。人のした悪に対して穏やかな赦しの心で接することができるのではないでしょうか。
このように「徹底して主のしもべとして歩むこと」こそ、つまずきから守られる道です。慢心せず、主の恵み豊かな力を存分にいただきながら歩むことができるからです。
(2019年8月25日 週報掲載)
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