パウロは何をそんなにも強く悲しみ、心を痛めていたのでしょうか。3節にこうあります。
ところが、これほどの恩恵を受けながら、イスラエル人たちは不信仰な歩みに陥っていました。御子イエス様を拒み、受け入れなかったのです。それでパウロは非常に胸を痛めていました。彼らは最もイエス様を信じやすい土壌を持っていました。ずっと預言を聞いてきたのです。神ご自身の臨在に触れ、祈られて育てられてきたはず。父祖たちから伝え聞いてきた神の偉大さも知っているはず。しかし、頑なでした。
パウロもかつて、そちら側の人間でした。彼自身、クリスチャンを迫害してきました。そして、強く後悔しているのです。自分は正しいと思って、かえって神様を深く悲しませてきたのです。だからこそ、同じように歩んでしまっている同胞たちを、その滅びの穴から救い出したいのです。むなしい歪んだ正義感から解放したいのです。神のまことの救いを得て欲しいと願っているのです。そこにパウロの愛があります。
彼の愛の深さは、先ほどの3節に改めて目を向けるとより伝わってきますよね。この同胞のイスラエル人たちのためならば、「自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよい」とさえ語るのです。これは衝撃的な発言だと思います。神であるキリストから引き離されることが、どれほど恐ろしく、悲惨なことであるか。それを誰よりもよく知っていたパウロでしょう。ここまで言うほどに、パウロはイスラエルの仲間たちを大事に思い、愛し、救われて欲しいと願っていたのです。
現代の教会においても、子どもの頃から教会に来ていて、祈られてきた人の中でも、イエス様を信じなかったり、教会から離れたりしている人々が多くいます。皆さんも、そういう方のために胸を痛めて祈っておられることと思います。
以前に紹介したことがありますが、小説家・三浦綾子さんの救いのために、犠牲的な愛をもって関わった人がいました。前川さんという方でした。重い肺の病で自暴自棄になっていた綾子さんに、前川さんは繰り返し愛をもってイエス様を伝えました。肺の病でありながら、自分の前で平然とタバコを吸う綾子さんを見て、前川さんは深く悲しみました。胸を痛めていたのです。それである時彼は、彼女の前で自分を責めました。石で自分の足を打った程でした。「なぜ、そんなことを?」と尋ねられた彼は、この箇所のパウロのように、正直な気持ちで答えました。綾子さんのために、それはもう激しく熱心に祈ったこと。綾子さんが生きるためなら、自分のいのちもいらないと思うほどであること。それでも信仰の薄い自分には、綾子さんを救う力がなくて悔しいこと。そして、そんな不甲斐ない自分を罰するために、石で打っているのだと話しました。その姿、その話を聞きながら、綾子さんはいつの間にか泣いていたと言います。前川さんが自分のことではなく、ただ綾子さんを心配して、本気で純粋な愛で救いを願っていた姿に触れたのでしょう。
実に、頑なだった綾子さんも、イエス様を信じていき、小説や様々なエッセイを通して非常に多くの人に福音を伝えていくようになりました。もちろん、人の救いというものは、神のみわざ、神のご計画です。人の力によりません。この後もパウロがそれを語っています。しかし神様のご命令は、隣人を愛することです。隣人を愛していながら、その救いを切に願わないことなどありえません。そして、主はそのように歩む者を軽んじられないと私は信じています。ただ、私にはできないとの思いがすぐに頭をよぎります。
私自身、いつも問われます。このような真剣な姿勢で、ひとりの人の救いのために労苦することがあるだろうか。未だに伝道をする時に恐れることもあります。悲しいことに、しばしば気力なく、「今日はやめとこう」と思う瞬間さえあります。伝道には愛が必要だからです。気力も犠牲も必要だからです。