東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ9章1-5節「痛むほどの愛」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/07/26

ローマ9章1-5節「痛むほどの愛」

*** 7/24(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちの教会は、「キリストの愛に根ざして宣教する教会」との理念を持っています。宣教が自分たちの利益のためでない。「あなたが救われてくれれば、私は安心できるから」という自己満足や安心のためでもない。いつでも、キリストの愛によってその人の幸いを心から願って、宣教する教会ということです。実際、宣教が打算的だと思われたら残念です。「勧誘のためにやさしくしている」と思われたら残念です。救いのための手段として愛するのではなく、愛しているから救いを願い、犠牲を払って伝えるのです

そのような愛による宣教を大切にしていきたいのですよね。

なぜなら、聖書がそれを教えているからです。パウロはここで、キリストを信じようとしないユダヤ人に対して怒りやさばく思いでは向き合っていません。彼が書いたこの手紙には、ローマに住む人々への愛、同胞イスラエル人たちへの愛に満ちています。直前の8章では、聖霊のとりなしやキリストの愛によって、私たちはそこから引き離されることなく、圧倒的な勝利を得ていることが語られていました。そして、この9章では、パウロは少し改まって、厳粛な雰囲気で語り始めます。そこには同胞への深い愛ゆえの「痛み」がありました。愛することには犠牲や痛みが伴います。私たちも見せかけだけの愛とならず、神から受けた愛を実行していきましょう。

12節をご覧下さい。1私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、2私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。 パウロはここで、正真正銘、偽りなき正直な思いを伝えると言います。パウロの強い思いがあふれています。ここで彼が語ったことは何でしょうか。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」ということでした。

パウロは何をそんなにも強く悲しみ、心を痛めていたのでしょうか。3節にこうあります。

3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。 

 ここにあるように、パウロは自分の兄弟、同胞たちのことを心にかけていました。彼らの救いを心から願っていました。彼らのためなら、どんな悲惨さえも受け入れるほどの愛です。その同胞とは、彼と同じイスラエル人たちでした。4節に語られていますよね。 

4彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。

 神の約束を受けたイスラエルの仲間たちです。彼らはどの民族よりも先に神の啓示を受けました。神の恵みの約束をいただいた民なのです。ここにあるように、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものでした。それどころか、5節にはこのように語られています。

5節 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。 

 旧約の偉大な信仰者たちのほとんどもイスラエル人です!さらには、全世界の救い主であるキリストまでも、その血筋、肉によればこのユダヤ人(イスラエル人)として生まれたわけです。もはや、救われるために必要な一切を、イスラエル人たちは与えられていたということです。とても光栄なことで、選ばれた民でした。世界全体の救いの先駆けとして召されたのです。

 

ところが、これほどの恩恵を受けながら、イスラエル人たちは不信仰な歩みに陥っていました。御子イエス様を拒み、受け入れなかったのです。それでパウロは非常に胸を痛めていました。彼らは最もイエス様を信じやすい土壌を持っていました。ずっと預言を聞いてきたのです。神ご自身の臨在に触れ、祈られて育てられてきたはず。父祖たちから伝え聞いてきた神の偉大さも知っているはず。しかし、頑なでした。

パウロもかつて、そちら側の人間でした。彼自身、クリスチャンを迫害してきました。そして、強く後悔しているのです。自分は正しいと思って、かえって神様を深く悲しませてきたのです。だからこそ、同じように歩んでしまっている同胞たちを、その滅びの穴から救い出したいのです。むなしい歪んだ正義感から解放したいのです。神のまことの救いを得て欲しいと願っているのです。そこにパウロの愛があります。

彼の愛の深さは、先ほどの3節に改めて目を向けるとより伝わってきますよね。この同胞のイスラエル人たちのためならば、「自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよい」とさえ語るのです。これは衝撃的な発言だと思います。神であるキリストから引き離されることが、どれほど恐ろしく、悲惨なことであるか。それを誰よりもよく知っていたパウロでしょう。ここまで言うほどに、パウロはイスラエルの仲間たちを大事に思い、愛し、救われて欲しいと願っていたのです。

現代の教会においても、子どもの頃から教会に来ていて、祈られてきた人の中でも、イエス様を信じなかったり、教会から離れたりしている人々が多くいます。皆さんも、そういう方のために胸を痛めて祈っておられることと思います。

 

以前に紹介したことがありますが、小説家・三浦綾子さんの救いのために、犠牲的な愛をもって関わった人がいました。前川さんという方でした。重い肺の病で自暴自棄になっていた綾子さんに、前川さんは繰り返し愛をもってイエス様を伝えました。肺の病でありながら、自分の前で平然とタバコを吸う綾子さんを見て、前川さんは深く悲しみました。胸を痛めていたのです。それである時彼は、彼女の前で自分を責めました。石で自分の足を打った程でした。「なぜ、そんなことを?」と尋ねられた彼は、この箇所のパウロのように、正直な気持ちで答えました。綾子さんのために、それはもう激しく熱心に祈ったこと。綾子さんが生きるためなら、自分のいのちもいらないと思うほどであること。それでも信仰の薄い自分には、綾子さんを救う力がなくて悔しいこと。そして、そんな不甲斐ない自分を罰するために、石で打っているのだと話しました。その姿、その話を聞きながら、綾子さんはいつの間にか泣いていたと言います。前川さんが自分のことではなく、ただ綾子さんを心配して、本気で純粋な愛で救いを願っていた姿に触れたのでしょう。

実に、頑なだった綾子さんも、イエス様を信じていき、小説や様々なエッセイを通して非常に多くの人に福音を伝えていくようになりました。もちろん、人の救いというものは、神のみわざ、神のご計画です。人の力によりません。この後もパウロがそれを語っています。しかし神様のご命令は、隣人を愛することです。隣人を愛していながら、その救いを切に願わないことなどありえません。そして、主はそのように歩む者を軽んじられないと私は信じています。ただ、私にはできないとの思いがすぐに頭をよぎります。

 私自身、いつも問われます。このような真剣な姿勢で、ひとりの人の救いのために労苦することがあるだろうか。未だに伝道をする時に恐れることもあります。悲しいことに、しばしば気力なく、「今日はやめとこう」と思う瞬間さえあります。伝道には愛が必要だからです。気力も犠牲も必要だからです。

 それでも、パウロのような思いで人々の救いを願う者でありたいと思います。私たちの救いのためには、イエス様のいのちの犠牲が伴ったのです。父なる神もひとり子の傷ついた姿を見つめ、激しい痛みを通られました。自分が死ぬより、我が子の死は苦しいでしょう。そして、その痛むほどの愛があるからこそ、人が救われた時の喜びも大きいのです。 


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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