東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【2月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/02/01

毎日の聖書【2月】

2025年

1日 マタイ14章
 23節 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。 主イエスには常に多くの人々との関りがあった。弟子たちを教え、育てる必要があったし、病や悪霊の問題で苦しむ人々がいた。あまりにも多くの人をケアする必要があったのだ。そのように忙しすぎる場合、私たちの多くのは「だから祈ることができない」と考えてしまう。やることがあまりにも多いので「静まれない」と考える。だが、主イエスはいつでも私たちの信仰の模範だ。あまりにも多くの人が求めて来るからこそ、一人になることを意識的に大切にした。あえて山に登って人々から離れ、父なる神の前に静まり、祈っておられたのだ。「祈るために」とあるように、祈りを大切なもの、必要不可欠なものとして優先しているのだ。夕方になってもなお、祈りの必要の分だけそこに留まった。この姿に倣いたい。忙しいからこそ祈ろう!みことばに聴こう!

2日 マタイ14章
 主イエスは一人で祈っておられたので、弟子たちだけで向こう岸へ舟で移動していた。ただ、向かい風に悩まされ思うように進まずにいた(24)。夜明けが近づいたころ、なんと主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに来た(25)。それで弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしくて叫んでいた(26)。常識を超えた出来事が目の前に起こる時、人はもろく弱い者である。主イエスでさえ、幽霊に見えてしまうのだから! だが、イエスは話しかけられた「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。私たちはどのような事態に遭っても、この声を聞き分ける者でありたい。理解しがたい現実、受け入れがたい状況があり、動揺しおびえてしまうこともある。だが、主はその時にもあなたに語りかけておられる。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。この声をいつでも聞こう。主がおられる。恐れずに歩もう!

3日 マタイ14章
 湖の上を歩いて来たのがイエスだと知って、ペテロはチャレンジした。水の上を歩いて来るよう命じてくれとイエスに頼むのだった(28)。イエスはそれに応え「来なさい」と言われた。そこでペテロは水の上を歩き始めた。果敢に挑戦するところはペテロの良さであろう。失敗が多く見えるのも、彼がより多く挑戦した証拠である。誰も彼を笑うべきではない。むしろ、私たちも失敗を恐れず挑戦する者でありたいと思わされる。
 さて、その後どうなったのか。30節で「強風を見て怖くなり」それで沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫んだとある。イエスは彼を助け「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。ペテロが沈みそうになった理由は、強風を見たからであった。それはイエスから目を離したからであると言い換えられる。それでも「主よ、助けてください」とイエスに求める姿勢は立派である。目を離したことは不信仰だが、信仰の弱い私たちはだからこそイエスを求め続ける必要があることも教えられる。

4日 マタイ14章
 湖の強風に悩まされた弟子たちであったが、イエスが舟に乗り込むとその風はすっかりやんだ(32)。イエスの圧倒的な権威を示している。それで弟子たちは言った。「まことに、あなたは神の子です」と。そうしてイエスを礼拝したのであった(33)。その力と権威は、舟がたどり着いた先のゲネサレでも示される。人々がみな病人を連れて来て、イエスに頼んだ。「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください」と。そのようにした者たちは、みな癒されたことがわかる(36)。この信仰は、イエスの郷里の人々とはまるで異なっていた。彼らは大工の息子がそんなことできるのかと疑い、尊敬をしなかった。だが、この地の人々は「せめて、衣の房にでも」と、イエス本人どころか、着ているものに端っこに触れさえすれば癒されると信じたのだ。「まことに、あなたは神の子です」と信じて礼拝し続けよう。その力を侮ることなく、その権威を尊んで歩んでいこう!

5日 マタイ15章
 パリサイ人らは、イエスの弟子たちが長老たちの言い伝えを破っていると言って批判した。その中身は「パンを食べるとき、手を洗っていません」という指摘だった。実に、これらは神の教えではなく、昔の人々の道徳的、宗教的教えであった。3節で、主イエスは「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか」と。神の教えを離れ、変えてしまい、自分たちの勝手な教えにしていたのである。これは、神を第一にすることなく、自分たちの「プライド」や「こだわり」を第一とし、結果として神の戒めを破ることになってしまっていたということだ。私たちも、神が教えている本質から離れ、自分たちのこだわりや満足、あるいは自己顕示のために、誰かをさばいていることはないだろうか?それはまるで、自分を神にするかのようである。教会を人間の教えでいっぱいにすることなく、ただ主の教えで満たされる幸いな場にしていこう!

6日 マタイ15章
 6節で、主イエスのパリサイ人、律法学者らへの指摘は鋭く、「あなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました」と語られている。神の教え、神のみことばよりも、自分たちの教えがまさっていく現実は少なくない。人間的な戒律主義、教会の伝統と風潮、クリスチャンホーム特有の過剰な厳しさ。あるいは、クリスチャン特有の「甘さ、甘え」というものによっても、神のことばを無にすることもあるかも知れない。
 8節では、これらのことを主イエスは預言者イザヤのことばを引用し、「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」と言われた。それはむしろ、神の権威を利用して、自分たちの都合のいいようにしているということだ。しばしば人は、神のみことばや権威を利用して、自分の立場を高め、政治利用することさえある。自分の主張を正当化するために、神の権威を利用することは、あってはならない。私たちは、神の教えをそのまま尊んでいきたいものだ

7日 マタイ15章
 良い働きをしている時に、それに対して腹を立てて攻撃してくる人はいつでも起こる。弟子たちはそれを気にしていた。12節で、彼らはパリサイ人たちがイエスのことばを聞いて腹を立てたこと伝え、それを主イエスに「ご存知ですか」と伝えている。少し余計なお世話な気もするが、弟子たちとしては他人事ではなかったのだろう。主イエスはこれに対して、何をおっしゃったのだろう。まず、天の父が植えなかった木は、根こそぎにされると言われた。また、彼らを指して「盲人」と呼び、その盲人のことばを信じて従う者も一緒に穴に落ちると教えられた。だから、「放っておきなさい」と言われるのだ。父なる神によって生まれたのでない者、すなわち真実を見ようとせず、それを批判する霊的な盲人。彼らのことは放っておくようにと言われたのだ。その問題を正しくさばかれるのは主ご自身であるからだ。あなたが神のみこころに立っていて、それを攻撃されるなら、放っておけばいい。胸を張って、堂々と正しい良いことを続ければいいのだ。

8日 マタイ15章
 11節で、口に入る物は人を汚さず、口から出る物が人を汚すとイエスは語っておられた。ペテロはその意味をイエスに説明を求めた。口から出るものとは、心から出るゆえ、人を汚すと言われる(18)。つまり、悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりなど、罪深く悪い思いや考えは心から出て来るからである(19)。だが、食べ物には悪意がないので、人を汚さないということだ。手を洗わないで食べることが、霊的な汚れを生むと律法学者らは考えたが、人をさばいて陥れようとする彼らの考えこそが、人を傷つけ、汚すのであった。私たちも問われている。その心から出るものにこそ、注意を払わないといけない。その心、その考えこそ、主にあって取り扱われ、聖められる必要がある。

9日 マタイ15章
 主イエスがツロ、シドン地方に行かれると(21)、カナンの人の女がイエスに叫び求めて来た。娘が悪霊につかれて苦しんでいたのだ(22)。しかし、イエスは答えなかった。沈黙である。見かねた弟子たちが、あの女を去らせてくださいとイエスに懇願したが、イエスは応じられなかった。さらに25節で、この女性はさらにイエスに助けを求めた。だが、イエスは、子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやることは良くない事だと言われた(26)。ユダヤ人に優先的に宣教する必要があったからである。だが、このカナンの人の女性は食い下がった。イエスのことばに「そのとおりです」と応じつつも、ただ、小犬でも食卓から落ちるパン屑にはあずかると言って求めたのだ。イエスは彼女のこの信仰を見て「あなたの信仰は立派です」と褒められた。そして、願うとおりになるように宣言し、娘は癒されたのだ。イエスが喜ばれるのは「求め」である。律法を逐一守ることよりも、キリストに信頼し、熱心にキリストに求める信仰である。

10日 マタイ15章
 32~39節では、「四千人の給食」についての記事がある。14章にあった「五千人の給食」と、内容がほぼ同じだ。しかし、決定的かつ重要な違いがある!!なんと、五千人の記事はユダヤ人の話であり、この四千人は異邦人の話なのだ。その違いは、弟子たちの態度に現れている。五千人の給食では、弟子たちの方から群集の食べ物の心配の話が出て来る。しかも、その日の夕方のうちに!ところが、15章32節を見ると、三日も経過しているのに、弟子からは提案が出ていないのである。そこで、主イエスの方から話をしているのだ。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」と。主イエスは、「かわいそうに」とあわれみの心を示された。弟子たちは、ユダヤ人の群集のためには、一日目の夕方には食事の心配をした。だが、異邦人の場合には全く違うのだ。三日も経ったのに、何も言わなかった。人間には好き嫌いがある。気に入る存在には手厚くするだろう。だが、主イエスに好みはない。異邦人にたいしても「かわいそうに」とのあわれみの心で寄り添ってくださる。私たちの隣人とは誰なのだろうか?主から問われている。

11日 マタイ16章
 1節で、パリサイ人、サドカイ人らがイエスを試そうと近づき、「しるし」を求めている。イエスはこの要求に対して、あなたがたは空模様を見分けられるのに、神の時については見分けられないのかと問いかけます(2-3)。そして、悪い時代ほどしるしを求めると言われた。これは、イエスが救い主である証拠を見せよという訴えである。また、1節の「求める」ということばは、やや強いことばで「要求する」という意味がある。私たちも問われる。言葉や態度は丁寧さを装っても、その内実において自分の思い通りのことを相手に強く要求しているということがあるのではないか。特にパリサイ人らは、自分たちが納得でき、自分たちが信じやすい証拠を求めていたし、それ以上にイエスを「試そう」(1)としていたのである。悪い動機で求めるしるしなど、主が応じられるはずがない。私たちはどのような動機で、しかも何を主に求めているだろうか。

12日 マタイ16章
 弟子たちはパンを持ってくるのを忘れたことに気が付いた(5)。その時、イエスは「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と言われた(6)。このタイミングだったので、弟子たちは、パンを持って来なかったことを叱られたのではないかと勘繰り、議論した(7)。その様子を見た主イエスは、「信仰の薄い者たち」と一喝し、議論している弟子たちをたしなめた。そして、ご自身が言われたのは実際のパンの話ではないと説明された(11)。12節にあるように、それは彼らの教え」に気をつけよということだった。福音書を読むと、このように弟子たちが真意を理解できず、物質的、世的なことで論争している姿が記録されている霊的な鈍さ、無関心さに思わず笑ってしまう。しかし、私たちも御霊によらなければ同様である。御霊によって敏感にしていただき、主イエスの意図を深いところで受けとめ、的を射た歩みをしていきたい!

13日 マタイ16章
 イエスは何者だと思うのか?ある人はバプテスマのヨハネの復活した姿だと言い、ある人々はエリヤだ、エレミヤだ、預言者だと言う人々がいた(13-14)。その上で主イエスは弟子たちに問われた。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」(15)。これに対してシモン・ペテロは答えた。「あなたは生ける神の子キリストです」と(16)。この応答は非常に重要で、すばらしいものであった。イエスもこの告白をしたことについて、「あなたは幸いです」とおっしゃった(17)。ただし、この告白は人間も血肉によるものではなく、天におられる父が明らかにしてくださったのだと言われた。私たちの信仰告白は、人の知恵と力によらない。神が啓示し、教えてくださるものである。主の御霊の助けのうちに、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白するのである。

14日 マタイ16章
 主イエスは、弟子ペテロの告白を喜ばれた。そして18節で言われた。「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と。それは、ペテロの信仰告白、すなわち「あなたは生ける神の子キリストです」という16節の告白の上に、キリストの教会を建てるという意味である。イエスを神の子キリストであると明確に告白する信仰こそ、すべての教会の土台である。私たちはこの信仰を大切にしたい!そして、イエスはその上に「わたしの教会」を建てると言われた。牧師の教会でも、信徒の教会でもない。キリストの教会である。ゆえに誰も私物化をしてはならないし、教会はキリストが満ちている場、キリストが主任牧師で、キリストの姿が現れる場でなければならない。そして、このキリストの教会は、地上のものでありながら、「よみの門」もそれには勝てないのである(18)。なんとすばらしい力を教会に与えておられるのだろうか!

15日 マタイ16章
 神が教会に与えておられる特権は本当にすぐれている。イエスは教会に対してこう言われている。19節「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」と。この地上において、各地域で歩んでいるキリストの教会に、主はこのような特別な権限を与えてくださった。それは「天の御国の鍵」である。それは地上でなされたことが、天に直結する鍵、地上と天をつなぐ鍵である。つまり、キリストの教会がその御名のもとでなした行為は、地上だけの出来事では終わらないのだ。それはまさに、天に宝を積む行為天における報いをいただける働きとなっていくのだ。主は、天で行われるのと同じように、地でもみわざが行われることを祈り求めよと、弟子たちに教えておられた。だから、私たちはこのキリストのからだなる教会を愛し、教会が世界に満ちるように宣教していくものである!

16日 マタイ16章
 ペテロが主イエスから厳しく叱られる場面だ。すばらしい告白をしたばかりであったが、人間的な価値観にまだまだ生きていたことがわかる場面でもある。それは、イエスが宗教指導者たちから苦しみを受け、殺され、三日目によみがえるという十字架の使命を語った時であった(21)。それを聞いたペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と、主イエスをいさめ始めたのだ。これに対するイエスのことばはとても鋭いものであった。「下がれ、サタン」と始まり、イエスをつまずかせる誘惑的な発言であることを指摘されたのだ。その本質的な問題は、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということであった。この人間的な発想が、思い通りになったら深刻すぎる。十字架はなくなり、すべての人の罪は赦されず、救いはなくなってしまうのだから。人の目に正しいと思うことと、神の前に正しいこととは、しばしば異なる。神のご計画の前に、私たちはへりくだって、自分の正しさという剣を鞘に納めなければならない

17日 マタイ16章
 イエスの弟子としてついて行きたい者は、それぞれに「自分の十字架を負って来るように」とイエスは言われた(24)。その際には「自分を捨て」とのことばもあった。しかし、自分を捨てるとはどういうことだろうか。それは、「自分を心の王座に座らせるのをやめること」だ。自分の欲にしがみつくこと、自分の思い通りに生きるのをやめることだ。その代わりに、主イエスに心の王座を明け渡すのである。すると、どうなるのか。「主イエスの真の弟子」となるので、イエスからアナタに与えられた十字架を負って歩むことになる!でも、その十字架はイエスの十字架ではない。それは私たちには負えない。アナタのために神が用意された十字架を引き受けること。それが自分の十字架を負うことだ。アナタにしか負えない、アナタだから負える十字架を主はご存じだ。そして、それを負ってイエスについて行く時、自分を捨てて従ったはずなのに、そこに一番輝く自分を発見することになる!!

18日 マタイ17章
 1節にあるように、主イエスは、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登られた。その山でイエスの姿は変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった(2)。神としての栄光であった。それに加え、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合った(3)。ペテロは何かをしなければ!と考え、イエス、モーセ、エリヤの3名分の幕屋を作ろうと考えたが(4)、光輝く雲のうちに、父なる神の声が聞こえる(5)と、彼らは非常に恐れ何もできなくなったのだ(6)。人は偉大な神のために何かができるほど強くもなく、力もないのだ。だが、彼らに主イエスは「起きなさい。恐れることはない。」と語られた(7)。本来、主イエスは栄光に輝く恐れるべきまことの神。何もできなくなるほど恐ろしい力ある方。だが、この方は自ら近づき「恐れることはない」と語りかけてくださる。太陽のごとくに輝き直視できないほどのお方が、私たちの仲介者となり、恐れなくて良いと招いてくださる。この恵みに感謝し、神の恵みの座に近づこう!

19日 マタイ17章9-13節
 イエスの光輝く姿を3人の弟子たちが見た後、イエスは彼らに「だれにも話してはいけません」と命じられた。ただし、主イエスが死からよみがえるまではという期間限定でのことだった。それまでは、「救い主」についての様々な誤解を避けることが目的であった。あくまでも人となって、人間の代表として十字架にかかるのであるから、光り輝く栄光に満ちたお姿が妨げになる可能性があった。また、救い主の前にはエリヤが来るはずだと、弟子たちはイエスにたずねている(10)。しかしエリヤは既に来ていたが、人々が敬意を払わず、ひどいめに遭わせたことを主は指摘された(11-12)。バプテスマのヨハネのことであった(13)。結局、エリヤであろうと、救い主であろうと、そのお方を受け入れる姿勢、まっすぐな信仰がなければ、意味がないのである。彼らはヨハネもイエスをも認めず、好き勝手なことをしたのだ。私たちの素直な心、まっすぐな信仰が問われている。

20日 マタイ17章14-21節
 別の人がイエスのもとに来てひざまずいて頼んだ(14)。この人の息子が「てんかん」で苦しんでいて、弟子たちに癒しを願ったが、治すことができなかった(15-16)。そこで、イエスはご自分のところに連れて来るよう伝えた(17)。イエスがお叱りになると、悪霊が出て行き、この子はすぐに癒された(18)。19節、それで弟子たちは、イエスのもとに「そっと(ひそかに)」来て尋ねた。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と。なぜ、弟子たちにはできなかったのだろうか。それは、彼らが自分で」それをしようとしたからであり、主キリストがなしてくださるという理解が失われていたからである。主イエスは、彼らに「信仰が薄い」からだと率直に答えたが、それこそ、神に信頼するのではなく、自分でしようとしたからである。「からし種」ほどの信仰であっても、神は圧倒的な力があるのだから、みわざがなされていくのだ!

21日 マタイ17章22-23節
 ガリラヤに集まっている時、主イエスはご自身の死と復活について言及された。これまでも既におっしゃったことだが、繰り返し言われていたのだろう。人々の手に渡され、彼らに殺されること、しかし、三日目によみがえることを弟子たちに語られたのだ。これこそが、キリストが人となって来られた目的であった。これこそが、神の救いのご計画であった。だが・・・弟子たちは「たいへん悲しんだ」(23)。それは、主イエスへの情から来る悲しみであろう。それも理解できる。しかし、これがなされなければ、人の罪は残ったままである。そうであるなら、この死と復活については信仰をもって受け入れるべきであった。弟子たちが「たいへん悲しんだ」背後には、やはり不信仰から来る無理解があったのではないだろうか。弟子であるなら、それを受け止め、主と一緒になって十字架への苦しみを担う姿勢であっても良かった。人の道ではなく、神の道を大切にしていきたい。

22日 マタイ17章24-27節
 「神殿税」の収税人たちは、ペテロに尋ねた。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」と。ペテロは訴えられるのを恐れたのか、すぐに「納めます」と答えた。その後、イエスからは地上の王たちは自分の子どもからは税を集めないように、神の子たちもその義務はないことを教えられている(25-26)。主イエスは「神の子」であるから、父なる神に税金を払うのはおかしな話であった。むしろ、主イエスは宮よりも偉大な者であった(マタ12:6)。神を礼拝する神殿に、礼拝されるべきお方が税を納めるとはおかしなことである。さらにイエスは「子たちにはその義務がない」とおっしゃった。複数形である。イエスだけでなく、イエスの兄弟姉妹とされた者たちにもその義務はないと言われたのだ。だが、「あの人たちをつまずかせないために」(27)、納めるよう勧められた。義務がなくてさえ、主イエスは愛のゆえに、つまずかせないがために従われた。私たちも自由や権利があるけれども、つまずかせないという愛の動機で歩みたい

23日 マタイ18章1-5節
 ある時、弟子たちはイエスに尋ねた。「天の御国では、いったい誰が一番偉いのですか。」と(1)。すると、主イエスは子どもを皆の「真ん中」に立たせた(2)。イエスは、子どもが御国で一番偉いとは言わなかった。だが、子どものようにならなければ、天の御国には入れないと言われた(3)。その中心的な理由は、「自分を低くすること」であった。子どもには「腕力」も「権力」も「財力」もない。主イエスは、4節で、自分を低くする者が、天の御国で一番偉いと言われている。それは、神の力によって高くされる者が真に高いということである。神によって富む者が、真に富む者なのである。そして、主イエスこそ、ご自分を最も低くされた方である。ゆえに、力なき子どもを主に名のゆえに受け入れる者は、イエス・キリストを受け入れる者であると言われる(5)。自己卑下ではなく、謙遜に歩むことを学びたい。神の恵みのゆえに今の私があるのだと、いつでも受け止めて歩もう!

24日 マタイ18章6-7節
 キリストを信じる、子どものような小さな存在をつまずかせる者について、主イエスは厳しいおことばを語られた。そのような者は、「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに静められるほうがよいのです。」と(6)。とても過激な内容である。この厳しさゆえに、私たちもこのことを真剣に受け止める必要を覚える。気をつけていても、つまずきが起こるのは避けられないとも主は言われたが、それでもつまずきをもたらす者は「わざわい」であると言われている(7)。前節までの流れを考慮すると、少しも配慮なく、愛なく、自分の正義を押し付け、上からさばくような者である。「謙遜」を身につける必要はここからもわかる。「謙遜」は劣等感や自己卑下ではないのだから、生まれ持っての性質ではない。神の愛と恵みを深く味わい、御霊によって変えられて始めて生まれるものだ。つまずかせる者はわざわいであるのだから、私たちはつまずきではなく、人を立ち上がらせる道に歩もう。

25日 マタイ18章8-9節
 8節では、「あなたの手足があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい」と語られている。その理由は、両手両足が揃っていても、滅びてしまい永遠の火に投げ込まれるよりはずっとマシであるからだ。同様に、9節では、「あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」と語られる。理由は同じで、目が無事でも、そのせいで永遠のゲヘナの火に投げ込まれるよりは、はるかに良いからである。ここで主イエスが伝えたいことを正しく理解しておきたい。それは「手足や目を捨てよ」ということではない。手足や目を失ってでも、絶対に燃えるゲヘナの火の中に投げ込まれないようにせよ!ということだ。一般に「地獄」と言われる永遠の火は、それほどに恐ろしく、決して行くべきではないと伝えたいのだ。だから、主イエスを信じて天に名前を記していただこう。自らの罪深さを認め、神の救いを受け入れ、死後に備えて安心しよう!手足も目も、神のしもべとして良きことのために用いよう!!

26日 マタイ18章12-14節
 一匹の羊が迷い出たのなら、九十九匹を山に残して迷子の一匹を捜しに出かけないだろうかと問いかける(12)。そして、もしその一匹を見つけたなら、迷わなかった九十九匹以上にこの一匹を喜ぶものだと主イエスは語りかけた(13)。これらはルカの福音書にも登場する百匹の羊の話で、ここでは文脈的には身近な弟子たちに対して語りかけているのであろう。14節にあるように、「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」と。神は人を数の塊や団体で見ているのではない。どんなに小さな者であろうと、一人ひとりをご覧になる。社会で目を留められないような小さな一人も、神の目には大切で、決して失われてはいけない一人なのだ。それを主の弟子たちもよくよく知らなければならない。滅びてよい一人など存在しないのだ。私たちもまたイエスとともに、迷子の一人を捜しに出かけ、その救いを大いに喜ぶ者となろう!!

27日 マタイ18章15-17節
 ある兄弟があなたに罪を犯したとき、どのように関わるべきであろうか。主イエスによれば、「二人だけのところで指摘」するよう教えられている(15)。不要に恥をかかせないためであり、真摯に語り合うためである。今はSNS等で人をさらし者にする傾向が強い。一瞬で人生を終わらせるようなことも起こる。書くのは易いが、非常に重い罪だ。ここでは、相手を潰す目的ではなく、それを聞き入れるなら「あなたは自分の兄弟を得た」ことになると教えられており、むしろ和解し友となる道を教えている。ただ、これでも聞き入れない場合は、二人か三人の証言で客観的に立証するとあるように、他の人の助けを借りていく。(ここまでで2段階の手続き)。それでもなお強情で、認めないならば教会を通して指導してもらうのである(これで3段階目)。それでさえ応じないならば、同胞として扱わず厳しい対応をしていくというのである。罰することや潰すことが目的ではない悔い改めに導き、ともに歩むためにどうしたら良いかを主イエスは教えておられるのだ。

28日 マタイ18章18-20節
 20節 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。 キリスト者の交わりは、世界に誇るべきすばらしきものである。なぜ、そう言えるのかと言えば、二人で語り合うそのただ中に、主ご自身がおられるからだ。二人であろうと、三人であろうと、主の弟子が愛し合うその交わりの中心にキリストがおられ、その愛によって赦し合い、助け合う交わりを与えてくださる。そして、キリストを中心に置く交わりは、神に祝福され、その祈りは聞かれていく。二人が心を一つにして祈るなら、神がかなえてくださると語られている通りである(19)。我々は、互いの間にイエスの愛を現わしていくよう召されている。その愛の交わりの中で、神のみこころを求めて祈る時、主が応えてくださるのだ!一人で祈ることも必要だ。だが、愛する兄姉ともに祈る強さ、豊かさをぜひもっと知って体験していこう!!
 

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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