東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書1章9-12節「あなたは何を見ているのか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/02/16

エレミヤ書1章9-12節「あなたは何を見ているのか」

*** 2/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

 フレデリック・ラングブリッジという人の詩にこのようなものがあります。「二人の男が同じ格子越しに外を眺めている。一人は泥を、一人は星を見た。」何を見て生きているのかはとても大切な問題です。同じ環境にあっても、人によって見る景色が異なります。クリスチャンというのは、キリストの御霊によって心の目が開かれた者です。何かを見てもただの物質だと見るのか、そこにある主の美しいデザインを見つめるのか。何もかもが違います。


11節に「あなたは何を見ているのか」との主からエレミヤへの問いかけがあります。ただアーモンドの枝を見ていたエレミヤに、主は別の景色が見えるように彼に語りかけ、その目を開かせようとされました。
最初、彼は自分の弱さを見ていました。最初、彼は人の顔色を見ていました。しかし、主こそが、そのすべてを見抜く眼差しで、みことばが少しも漏れることなく実現するよう見守ってくださっていることを告げられたのです。主ご自身が、幸いな神のみこころがなるように、絶えず見つめ、見守っておられるのです。

 

1.伸ばされた御手を見よう!  


第一に主が伸ばされた御手を見ましょう。若くして預言者とされたエレミヤでした。その際に主は具体的に9節のように関わり、励まして下さいました。

9節 そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。 

 主はことばだけでなく、エレミヤが分かる方法、見える方法を用いました。ご自分の御手を伸ばし、彼の口に触れられたのです。そして言われました。見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」と。
 皆さんはこの出来事をどのようにご覧になるでしょうか。神様は全知全能ですから、エレミヤにことばを授けるだけなら、「御手を伸ばして触れる」という行為は不要ですよね。触れなくてもことばを授けることは可能です。では、なぜ、わざわざ手を伸ばして触れたのでしょう。それはエレミヤのためではないでしょうか。エレミヤを強め励ますために、御手で触れるという行為を神様はあえてなさったのです。

 実に、イエス様も御手を伸ばして触れられたことがあります。例えばマタイ82-3節です。開いてみましょう。ツァラアトという難病で隔離生活を送ってきた人を癒す際にどうしたでしょうか。お心一つできよくできるはずなのに、わざわざ「手を伸ばして」彼にさわったのです。イエス様は彼の肉体を癒しただけではありませんでした。長年の隔離のゆえに、誰からも触れてもらえなかった彼は孤独でした。主イエス様があえて手をの伸ばして触れたのは、彼のその孤独な心であったのではないでしょうか。主の愛の御手で、その心、そのたましいに触れたのです。

エレミヤ書に戻ります。エレミヤの場合は病ではないですが、恐れと不安の中にいました。ことばで励ますのはもちろんですが、主は御手を伸ばして彼の口にあえて触れてくださったのです。この出来事は、エレミヤにとって忘れられないものとなったでしょう。神様は、私たちにもそうしてくださるのです。聖書のことばだけではありません。生きておられる主は、いつも私たちに優しく寄り添っておられます。兄弟姉妹の交わりや日々の出来事の中で、ご自身の臨在に触れさせ、励ましてくださるのです。あなたにも伸ばされている御手があります。 その御手をあなたは見ているでしょうか。 


2.神の摂理(配剤)を見よう! 

 その上で主は、エレミヤを遣わす目的を説き明かしました。将来のビジョンを共有してくださったのです。

10 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、 滅ぼし、壊し、 建て、また植えるために。」 

 諸国の民と王国の上に任命するという大いなる責任が語られました。その目的は何でしょうか。「建て、また植えるために」エレミヤを任命したと語られています。確かにそれだけならいいですね!「建て直し、植え直すために、任命したんだよ」とだけ言われたなら、それは良いでしょう。希望があり、モチベーションも上がりますよね。

 しかし、その前に何が語られていますか。「引き抜き、引き倒し、 滅ぼし、壊し」とあるのです。それはあまりにも重い4つのワードです。どれも否定的で明らかに破壊的な内容です。

 しかし、そこにこそ人には出来ない、神様の豊かな摂理がありました。昨日の合同青年会で「摂理」を理解する際、神様の「ご配剤」と理解することを教えられたと語られました(水草牧師の著書から教えられた)。

 配剤というのは、医者が患者の体質や症状に合わせて、薬を配合することです。この場合で言えば、イスラエルの民のために、「一度倒れさせる」という薬を主が処方されたということです。その倒れる経験、大いに砕かれる経験こそが、驕り高ぶった神の民に最も必要な薬だったからです。

実際、聖書では、豊かに用いられた人物たちは、一度は倒れることを経験しています。兄を騙したヤコブは、命を狙われる苦しみや自分も騙される経験を通して、自分が犯した過ちの意味を学び、謙虚にされていきました。家臣の命とその妻を奪うという大罪を犯したダビデ王は、耐えられないほどの罪の責めを感じ続け、非常に苦しみました。しかし、彼は心から悔い改めによって、神に立ち返る幸いを深く味わいました。ゆえに、さらに主に用いられ、彼の詩篇は私たちに深い慰めをもたらすものとなりました。彼がドン底を経験し、罪に泣いたからです。自分こそイエス様の一番弟子だと思い込んでいたペテロは、三度もイエス様を否定した自分に愕然とし、大声で泣き自信を失いました。しかし、彼の素晴らしい働きはここから始まったと言えます。砕かれ、立ち直ってからは他の兄弟姉妹を励ます牧会者となり、その命を主のためにささげました。

倒れなければ見えない景色があります。倒れて初めて見える恵みがあります。倒れたそのすぐ横に主がおられることに気づくのです。私と一緒に倒れ、ともに痛み涙してくださる主がそこにもおられる。そして私の肩を抱いて立ち上がらせてくださるお方です。

その景色を見た人。そして、そこに差し伸べられた御手のぬくもりを知った人は変えられていきます私たちが打ちのめされ、倒れている時、それは主があなたを建て直し、植え直すために必要なご配剤なのかも知れません。

 

3.主の見守りがあることを見よう!  

 この後、主は二度エレミヤに尋ねます。「あなたは何を見ているのか」と。そのうちの一つが11節です。その問いかけから、主はご自分の見ている景色へとエレミヤを引き上げてくださるのです。

11  主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」 

 この時、エレミヤはただ「アーモンドの枝」を見ていました。主はこのように応じられました。

12  すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」 一見するとこれが何のやり取りなのか、よくわかりません。しかし、神様はこの何気ないやり取りの中で、エレミヤに大切なものを見させようとなさっていたのです。

 週報に書いたのですが、ここは語根が同じことば同士の「ことば遊び(洒落)」があります。脚注にもありますが、「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」と言います。そして12節の「見張る・見守る」はヘブル語で「ショケデ」と言います。音がそっくりです。エレミヤが「シャケデ(アーモンド)」を見ていた時、神様は「あなたが見ている通りショケデする」、つまり私は「見守る」と言われたのです。

 それは、語られたみことばの確かな実現のために、神様ご自身が常に見張っておられるという真理でした。さらに、アーモンドは、暗く寒い冬を経て、春に真っ先につぼみを付ける植物でした。そこから、みことばが速やかに実現するように神様が見張っているという主のメッセージを主はエレミヤに伝えたのです。私たちは、自分たちの将来について不安で、必死に見守ろうとします。しかし、その必要はないのです。主がみことばがなるように、最善がなるように見守っておられるのだからです!!

本当に励まされます。目の前に道がないと思えることがあります。荒野に見えたり、砂漠に見えたりするのです。進めないのではないかと恐れます。しかし、主がみことばから示されたならば、道なきところに道が造られるのです。荒野に道が造られ、砂漠にさえ川を造られる方です。主が絶えず見張り、見守っておられるからです主はエレミヤにこれからしようとするビジョン、景色を見せてくださいました。そこには確かに過酷な現実もありました。一度は砕かれるのです。しかし、その先まで主は見せてくださった。そこから建て直され、植え直されるのです。

アーモンドの枝に象徴されるように、冬の後には、春の息吹を主は既に備えておられるのです。自分の弱さだけを見つめてはいけません。苦しみだけを見つめてはいけません。そこに伸ばされた主の御手。与えられた主のみことば。そのみことばが速やかに実現する景色を見つめましょう。主は眠ることなく、まどろむこともなく、いつもみことばがこの地に確かになるように、絶えず見守り続けておられるのです。この主があなたの傍にいつでもおられるのです。

 最後に、昨日メッセージをされた伊藤太郎先生のお証しを分かち合わせていただきます。彼が献身を示され、そのために必要な費用を稼ごうと自動車工場で働くことになった時のことです。全く日の当たらない閉じられた暗い工場。経験したことのない辟易するような異空間でした。騒々しい音がひたすら続き、同じ作業をずっと繰り返すのです。朝も夜も。

 先生は仕事を終え、「続けられるだろうか」との不安の中、カフェに行って聖書を開きました。「神様お語り下さい」と心から祈って読むと、みことばが本当に心に染みたのです。聖霊が働かれ、主の臨在に深い感動を覚えたのです。すると、同じ工場なのにもはや暗くない。そこが明るかったのです。このような暗い日の当たらない異空間のような場にも、主はいてくださる。ともにおられる。主はなんと謙遜なお方だろうと、先生は改めて主を知ったのです。

 私にも似た経験があるのでよく分かります。夜中に聖書をむさぼるように読みました。「主よ、お語り下さい」と祈りながら。そうして与えられたみことばが私を内側から変えてくれました。深い感動に包まれました。主が私自身を求め、私との交わりを喜んで下さっていることが理屈ではなく、心とたましいで分かり、自然と涙しました。そのまま朝を迎えて見えた景色は、少しも晴れやかではありませんでした。厚い雲で覆われた真っ暗な空でした。どんよりして、今にも大雨が降りそうな空です。普段なら、「なんて暗くて陰鬱な朝だ」と思うところでしょう。しかし、私には異なる景色に見えたのです。なぜか、その空を見て深い感動に包まれました。主の愛と主の偉大さを感じました。神様はこれらをすべて御手に治めている偉大なお方だ!と。私たちの内側が取り扱われる時、同じものを見ても、そこに異なる景色が見え始めます。暗いはずなのに、暗くないのです。主がそこにおられることを見るなら、闇さえ少しも暗くないのです。

 「あなたは何を見ているのか」と、主はあなたに優しく問いかけています。主の伸ばされた御手がそこにあることを知って下さい。倒れたそのすぐ横に、その闇のような世界に、主が寄り添ってともにおられることを知ってください。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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