東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇27篇4節「ただ一つの願い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/02/07

詩篇27篇4節「ただ一つの願い」

*** 2/5(水)祈祷会 説教概略 *** 

 協議会総会のために、この者の奉仕のためにお祈りくださり、ありがとうございました。主の御手に導かれ守られ、平安のうちに総会を終えることができました。今日は、その中で語られ教えられたことをお分かちしたいと思います。



 それは、議長としてご奉仕させていただく中で教えられた恵み、また、ゲストによる基調講演を通していただいた恵みもありました。
 ゲストはドナルド・ヤングという米国カルバリーチャペルの先生です。アジア、アフリカでも働きをされ、特に祈りのミニストリーを提唱して来られた先生です。
 そのメッセージを通して、私たちにとって最も大切なこと・・・ひたすらに主を求めて、主とともにあることを教えられました。

 講演の説教箇所で、中心的な箇所として詩篇274節が開かれました。

一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。

私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。

主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

 

 私たちは毎日、多くのなすべきことがあるように思います。そして、正直、誰もが忙しい日々を送っています。そしてまた、忙しい自分をそんなに嫌いではない。いや、もしかしたら、忙しいほどに自分は用いられている、有用な人材であると思えて安心しているのかも知れない。手帳に何もないよりは、多く予定が入っている方が、自分は活躍していると思われるかもしれない。

 しかし、神様は私たちの忙しさ自体にはまるで関心がないというのです。私がどれだけ忙しくし奉仕しているか、そのことで私を評価しようとしていないのです。いや、むしろ、その忙しさゆえに、神様からお心が離れてしまっていることには、深い嘆きを覚えておられるでしょう。「神様のために」という大義名分は誰でも言えるのですが、神様を離れては神様が喜ばれることは何もできないことを知る必要があります。

 神様が持っておられる関心は何でしょうか。神様は私たちに何を求めているのでしょうか。主の切なる願いは、私たちが神様を求めることです。神ご自身を、心からの飢え渇きをもって求めることです。

 神様の奇跡ではなく、神様のくださる何かではなく、神様ご自身を求めることです。
 もし、私たちが「あなたの財産やあなたの能力には興味がありますが、あなた自身には興味がありません」などと言われたら、非常に悲しいのです。そこに愛の交わりはないのです。ですから、主が持っておられる「何か」ではなく、主ご自身を切に求めることを、神様は一番望まれ喜んでおられるのです。すべては主を求めることから始まります。
 
 また、主とともにしなければすべての働きはむなしいのです。主によらなければ何の良き実りも生まれないのです。

 私自身は総会で議長のご奉仕をさせていただきましたが、その中で2回ほどみことばを読ませていただきました。それらのみことばを少しでも覚えて、皆で討議していきたいと願ったからです。

一つ目はコロサイ3:23 
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。 

もう一つは、ミカ書68節 
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 

 どちらもこの会議もまた、主を求めてするものであるということ。主とともになすものであるということを、少しでも皆で覚えたかったからです。 私たちは議論そのものに集中し、あるいは自分の訴えを通すことに終始すると、どこに向かって、何のためにしているかを見失うことがあります。

少なくとも私にはそういう弱さがあります。ですので、私自身、滞りなく議事を進めることに終始しないように。むしろ、皆でしっかりと議案の趣旨や内容を理解し、それを通して神様のみわざがどのようになされていくのか。討議を通しても主の臨在に触れることができるよう願いました。不十分な自分であったことを既に恥じてもいますが。

 先ほどお読みした詩篇274節に目を留めます。この詩篇を告白したダビデ。彼は王様です。多くの物を所有していました。財産も地位も名誉も力もある。しかし、その彼は「ただ一つのこと」を願いました。ヤング先生のお話で印象的だったのは、これは「優先順位の話ではない」と言われたことです。ダビデは多くの願いがある中で、一番にこれを願ったのではないということ。ただ一つのことです。他はいらないと言う意味です。これだけあれば十分。これだけでいいということ。

 それが、永遠に主の家に住み、主を思う日々を送り続けること。主ご自身であり、主との親密な交わり。主の臨在の中に生きること。これだけを願ったというのです。そして、これこそが神様ご自身も願っておられることなのです。

願った」とのことばは、手に入れるまで諦めない。何があっても求めるということであると語られました。あきらめずに生涯求め続けるもの。それが主の臨在であると。ダビデはもちろん、ご存じのように不完全な罪人でした。多くの失敗、多くの罪を犯した人です。でも、彼はどんなに失敗しようと、どんなに罪を犯そうと、ただ主を求め続けました。悔い改めて立ち返り、主を追い求め続けました。これ以上にすばらしいものはないのです。

 ダビデはこの節の後半で、「いのちの日の限り 主の家に住むこと」を願ったのだと言います。それは主の家にいて、自分の家のように心地よく感じること。これこそが我が家であると安心することです。ゆったりと家のお風呂に浸かるように(笑)主と一緒につながっていることを真のやすらぎとして覚えるのです。すべてを持っているはずの王ダビデが、他のものではない。ただ一つ、これを願い求めたのです。そして、本当にひとりひとりがこれを大切に、ただ一つの願いとしてこれだけを求め続けるなら、必ず与えられます。こうして祈ったことは必ず応えられ、私たちは受け取ることができるのです。

 

 ヤング先生は、関連してもう一つ印象的なお話をされました。木の枝を用意され、しつこいぐらいに、「枝は枝に過ぎない」と話されました。それは先生ご自身が衝撃を受けたメッセージだったようです。博士号を持つような著名な先生が、ひたすら「あなたがた枝だ」と長時間に繰り返し言われたと。枝を見せながら、これは何か?枝です。枝であって、枝に過ぎない。枝は枝です。木の幹ではなく枝である。どれほど有能でも、優秀でも、枝は枝に過ぎない。それだけである。ただの枝なのだというお話でした。

 しかし、もしかして、自分を「木」だと思っていることはないか。自分だけで実を結べると思ってしまっていることはないか? あなたはただの枝である。何年たっても、どこにようと、どんなに忙しくしようと枝です。枝は枝で、枝は枝に過ぎないと。どんなに偉い人も枝である。どこまで行っても枝であると語られました。

 枝だけでは決して実りません。木から折れて離れている枝は実りません。それはもう薪にされてしまう。しかし、ぶどうの木にくっついている限り主がいくらでも実りをくださる。だが、あくまでもぶどうの木はあなたではない。そこに「とどまる」ならば、主がこれまで行けなかったところに行かせてくださる。今まで見られなかった景色を主が見せてくださるのです。人のではなく、神の実りがそこに実るからです。この主の麗しさに目を注ぎたい。この主との交わりを、ただ一つの願いとして求めましょう。

ヨハネ15:4-5 4節 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 

5  わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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