3節 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
造られたこの世界で人と過ごすため、神様はその手を止めました。それゆえ人も、七日目に向かって働き、歩み、七日目にはその手を止めて神様に報告し、感謝、慰められ、労っていただき、力をいただいた上で新しい週に向かうのです。
この七日目は、他の六日間とは明らかに区別されています。この3節では、この日を祝福し、聖なるものとされたとあるからです。六日間の創造のみわざは、もちろん素晴らしかった。でも、それらの日々を「祝福した」とも、「聖とされた」とも言われていません。
しかし、この七日目を神様は祝福し、聖なる日とされたのです。また、「聖なるもの」とするというのは、俗なるものと区別するという意味があります。「聖別」ということばが聖書にありますが、それは、聖なるものとして、他と区別することです。
神様の前に静まる時間は、他のどの時間からも区別されるのです。神様は疲労のために安息を備えたのではありません。造られた人との交わりに集中し、その豊かさを味わい満足する栄えある日でした。ご自分の造られた世界、そこで歩む人を見て、とても良いと満足なさったのです。私たちもそれに倣うように召されています。
主のもとでの安息は確かに疲労回復のためでもあります。でも、それだけではなく、神のみわざの豊かさを味わい満足する時です。充足する時、満たされる時でもあるのです。
主ご自身と、そのすばらしいみわざを見つめる時、感動し、喜び、安らぎます。心満たされ、力が与えられていくのです。ですから、手を止めるのです。ですから、働きを止めるのです。スマホ片手に人の話を聞く若者のようではなく、仕事しながら食事をするビジネスマン(私も?)のようではなく。慌ただしく何かをしながらではなく、すべての手を止め、心のすべてを神様に注ぎます。これが主の安息の意義深い過ごし方です。
そして、新約の時代に生きる私たちは、ある意味では日曜だけではなく、毎日が主にある安息の日々として歩むことができる者とされました。なぜなら、安息日の主イエス・キリストが、いつも御霊にあってともにおられるからです。もちろん、日曜の聖日は、仕事も家事も休み、主と過ごす日としたいのです。けれども、日曜だけでなく、日々の歩みにおいても、主にある安息を過ごせるとしたらこんなに幸いなことはありません。事実、罪が入る前のアダムとエバは、日々の夕暮れ時、そよ風の吹く頃には仕事を終え、神との語らい、交わりの時間を持っていたであろうことが創世記から推測できます。キリストにあって、罪の束縛から解放された私たち、御霊を受けた私たちは、いつでも主との親しい交わりの中に、安らぎ憩うことができる者とされているのです。仕事の最中にも、一瞬手を止め、考えるのをやめ、神様に心を注いで祈り、この安息を味わえるのです。
休暇に様々なレジャーをぜひ楽しむ時間を持っていただきたいと思います。でも、神様から離れて楽しむのではなく、神様とともに楽しんでいただきたいと思います。
神様の造られたこの世界を味わい楽しみ、神様をあがめます。神様の造られた食べ物の深み、香り、味わいを楽しみ、主をあがめるのです。休むことさえも、私たちの我流では休めないからです。休み下手ですから。神様に休ませていただくのです。
出エジプト記33章14節
主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
イエス様がおっしゃったこのみことばは、有名ですね。
マタイ11章28節
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。