*** 8/31(日)主日礼拝 説教概略 ***
現在、祈祷会でエステル記から講解説教をしていますが、実に興味深い書だと感じています。なんと言っても、聖書なのに神様の名前が一切出て来ないのです。それにも関わらず、クリスチャンが味わうならば、あらゆるところに神の御手を確かに発見できるのです。まるで、隠されている宝を発見するかのような楽しさです。
でも実は、私たちの毎日の生活も同様なのです。
本当はあらゆる瞬間に、神様のみわざ、奇跡が起こっているからです。ですから、私たちのこの目が、この耳が、もっと主の恵みを感じ取れるようになれば、なんと幸いでしょうか。よりイキイキと歩む者となれるでしょう。日々、神様のあらゆるみわざに囲まれて生きているのです。それは、聖書を一人で読む時も、毎週の礼拝で説教を聴く時も同じです。
実に、説教の語り手だけでなく、聞き手が育てられていることは、非常に重要です。語り手がみことばの恵みを豊かに語る者となり、一方で聴き手も素直な心と恵みへの飢え渇きをもってみことばを聴くならば、お互いに豊かにされるからです。ですので、ぜひ、「恵まれる力」を養い、皆でより「恵まれやすい器」となれるよう祈り求めてましょう。良い聴き手となれば、仮に私が貧しい説教をしてしまった時でも、とにかくみことばさえ語られていれば、存分に恵まれるからです。
皆さんがそうなったらイキイキした信仰生活が送れると、私は確信しています。イエス様は、今日、私たちが恵まれやすい器となるよう教えておられるのです。
1.4種類の地と1種類の種
前半の2-9節で、イエス様は「種まき」のたとえ話をされました。この「種」とは聖書のみことばのことです。そして、ここでは種を蒔く場所として4つの土地が登場します。その4種類の土地とは、ここにいる私たちそれぞれのことです。皆さんはどの地でしょう。4節では「道端」、5節では「土の薄い岩地」、7節では「茨の生えた地」とあります。そして最後の8節では「良い地」です。それぞれの地に種が蒔かれるのです。ですが、種が落ちた場所によって、その後の発育状況が全く違うのです。
先に結論を申し上げると、8節にありますように、みことばの種が落ちた場所が「良い地」であるならば、豊かに「育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍」になるというのです。つまりイエス様は私たちに、「良い地」になって欲しいとおっしゃるのです。そうすれば多くの豊かな実りを生む者となれるからです。それは本当に幸せなことです。祝福された、実り多き人生を歩んで欲しいと、造り主なる神はあなたに願っておられるのです。
では、ここで皆さんにクイズです。土地は4種類ありましたが、「種」は何種類でしょうか。こっちにキュウリ、こっちはカボチャの種を蒔いたのでしょうか。あるいは乾燥に強い種とか、茨を突き破る種だとか、そういう違いがあったのでしょうか。いえ、ここではそういう種の違いを語ってはいないのです。
少し先になりますが14節にこうあります。
14節 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
聖書のみことばという「同じ種」を指していました。ところが、同じ神のみことばが蒔かれても、蒔かれた土地の状態によって成長に大きな差が出る。つまり、それを受け入れる私たち一人ひとりによって、異なる結果が生まれてくることが分かるのです。そして、それは能力の違いではありません。私たちの心の姿勢が問われているのです。
良い説教はとても大事ですが、どんなに良い説教がなされようとも、みことばを聴く側の土地が悪ければ、みことばの実りが生まれていかないということなのです。逆に言うならば、仮に、たどたどしい説教であっても、みことばさえまっすぐに語られているならば、十分に恵まれることができるのです。なぜなら、この種とは、上手で感動的な説教を指していないからです。種は「みことば」そのものを指しているからです。
ヘブル4章12節に「神のみことばは生きていて、力がある」と語られています。みことばそのものに「いのちの力」があるので、私たちのうちにしっかり受け入れられると、豊かに実を結ぶのです。
2.3つの良くない地とは
少し具体的に味わいましょう。15節以降に説き明かしがあります。
第一に「道端」とはどういう場所でしょうか。それは、畑の側道、あぜ道です。人や動物が踏み固めた場所。ですから固~くなっていて、種が入らない。当たり前ですね。私たちの心が、求める思いを持たないなら、みことばの種はやがて取り去られます。のざらしですから、サタンという名の鳥が来て種自体を持ち去ってしまうのです。もったいない。
第二は「土が薄い岩地」でした。16-17節によると、すぐに喜んで受け入れるが、根が育たないので長続きしないのです。「いいお話だったな~」とその時は思う。でも、根を張らないのでそれを土台にして生きていけない。私も若い頃は、教会を一歩出たら、「ご飯何食べようかな~」「何して遊ぼうかな~」と考え、説教はどこかに飛んで行く者でした(笑)。みことばが留まらず、血となり肉とならない。せっかく聞いたのにいのちの力があふれて来ないのです。だから、困難が訪れると、根なし草で弱く倒れてしまう。もったいない。
第三は、茨の生えた土地でした。18-19節 18節 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、19節 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。 せっかく、みことばが私たちのうちで根を張って生長しようとしている。しかし、「この世の思い煩い」、「富の惑わし」、「いろいろな欲望」をより大切にしてしまい、生長を塞いでしまうのです。やはり、もったいない。
3.良い地とは
では、「良い地」とはどのような地でしょうか。20節にこうあります。
20節 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
みことばを聞いて受け入れる人が良い地だと分かります。確かにその通りです。ただ、もう少し具体的に知りたいですよね。実はそのために、良くない3つの土地が説き明かされており、それによって良い地をより正しく知ることができるのです。
第一に、道端のような固い心にならないことです。つまり柔らかい素直な心で、受け入れる姿勢を持つことだと教えられます。
第二に、土の薄い岩地のような「根なし草」にならないことです。「根なし草」にならないとは、みことばを心に握りしめて、みことばによって生きて行くことです。語られた事を他の人に分かち合い、実行し、苦しい時にはみことばを思い出し励まされて生きるのです。そうして私たちの血となり、肉となっていくことで、しっかり根を張ります。記憶には、短期記憶と長期記憶というものがあります。一夜漬けで覚えたものは、一瞬で忘れてしまい、残りません。しかし、覚えたことを繰り返したり、誰かに教えたり、実践して身につけると、その記憶が体の奥まで浸透し、長く残るのです。みことばも同じです。ヤコブ書1章22節にこうあります。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」とありますね。頭だけでみことばを受けとめず、心にそこに信じて生きる。すると根を張ることになり、試練の嵐の時にも簡単には飛ばされないのです!!
第三に、茨まみれの地のように、この世の様々な惑わしに流されず、神のことばを第一にすることです。私たちは弱いので、誘惑、惑わしにすぐ流され、みことばから離れがちです。そのためにまず、「茨」の正体を知ることが大切です。その茨が、私たちを本当に幸せにするものなのかを、神様に教えていただくのです。19節によると、「この世の思い煩い」、「富の惑わし」、「いろいろな欲望」がありました。この世には様々な魅力的に見えるものがあります。地位や名声、富、異性にモテること、刺激的なこと。これらは私たちの心を惹きつける誘惑となるでしょう。しかし、問題は、それらが私たちを本当に幸せにするのかという点です。魅力的に見えても、その奥に恐ろしいトゲがあるのではないでしょうか。まさに「茨」にはトゲがあるのです。一時的な快楽で私たちを釣り上げ、そうして永遠の滅びに向かわせる死のトゲです。以前にも紹介しましたが、富と地位、女性をもほしいままにした豊臣秀吉の辞世の句はむなしさでいっぱいでした。「露と落ち、露と消えにし、わが身かな。難波のことも夢のまた夢」。朝に現れた露が夕方には消えてしまうごとく。夢のようにはかない、何も残らない人生だったと言います。しかし、みことばに生きるなら、それは永遠につながる幸いな道です。私たちには、神様からの永遠の恵みがあります。「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とあります(イザ40:8)。いつまでも残るのです。むなしい茨に気を取られず、いのちのみことばをしっかり握って、いつまでも残る実りを30倍、60倍、100倍と生む者とならせていただきませんか。
みことばの良い聴き手になりましょう。恵まれやすい器となりましょう。
我が家の4人の子どもたちがまだ小中学生だった頃。夏休みには地方の小さな教会で何度か礼拝をささげました。ただ、少しばかり説教が子どもたちには難しかったのです。それで子どもたちも「どうせ分からない」と思い、礼拝に後ろ向きでした。
そこで、「説教者のせいにばかりしてはいけない。みことばさえ語られていれば、恵まれることはできる」と偉そうに私は伝えました(笑)。
なぜなら、自分で聖書を読んで教えられるのが、ディボーションなのですから。そして、礼拝前に子どもたちに提案をしました。
「今日の礼拝で、我が家は『恵まれ大会』を開催しよう!誰が一番みことばから恵まれたかを礼拝後に分かち合おう!」と。結果、子どもたちもそれぞれにノートを取り、よく教えられていました。それを聞いて嬉しくなり、私が一番恵まれたので優勝!というオチです。
また、私自身、毎週説教をしていますから、今日は思うように語れなかったという時があります。祈って祈って語るのですが、語った後に、それ以上に祈らされるのです。
「どうか、足りない説教でしたが、皆さんが恵まれ、強められますように」と。
しかし、そういう時にも、「非常に恵まれ教えられました」とおっしゃる方がいらっしゃいました。それによってある事に気づきました。その人自身がみことばを熱心に求め、自身のうちにしっかりと受け入れる姿勢を持っていたということです。渇いた谷川のわずかな水場を求めて、鹿が慕いあえぐように、必死にいのちのみことばを求めて教会に来られていたのです。まさに良い地でしょう。
もちろん、説教者は自身を磨き続けなければなりません。でも、それは聴き手も同じです。そして、両者が良い語り手、良い聴き手になるならどうでしょう。相乗効果で恵みはまさに100倍の実りを生むでしょう。主は今日、あなたに語っておられます。「わたしはあなたにいのちのみことばを与える。多くの実りを与えるみことばの種だ。だから良い地になって、多くの実を結びなさい。」と。恵まれやすい器とならせていただきましょう。
引用元聖書
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