まず12節で、パウロは自分の身に起こったことが、かえって「福音を前進させた」と言っています。この世の人々の発想では、捕らえられて牢屋に入れられ、裁判を受けているなんてことは、マイナスの出来事でしょう。普通は落ち込むことです。ところが、パウロは落ち込むのではなく、今尚、主にあって喜んでいるのです。投獄という事件さえ、神の良いご計画の中にあり、福音が前進しているからだと言うのです。具体的に、牢屋に入れられたことは、福音の前進とどんな関係があったのでしょうか。13-14節にこうあります。
13節 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14節 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。
第一に、パウロの投獄の理由が、キリスト信仰のゆえ、キリストを宣教するゆえであることが、親衛隊や関係者の皆に明らかになったと言います。この親衛隊とはどういう人々でしょうか。このことばは、元々がローマ皇帝の親衛隊の兵舎を意味することばでした。パウロはローマ皇帝の裁きを待つ身でしたから、皇帝直属の親衛隊かそれに類する警備兵のことでしょう。普通ならば、伝道したくてもできないような立場の人々なのです。もし、彼らが主イエスを知って変えられたらどうでしょうか?とても大きな意味がありますね。
第二に、14節では、パウロの投獄のニュースによって、多くのクリスチャンたちが確信をもって、恐れず大胆に伝道するようになったと語られています。パウロがたとえ牢に入れられ、ひどい目に遭わされても尚、一歩も揺るがず出会うすべての人に証ししている姿を知って、キリスト者たちの多くはかえって励まされたのです。かえって人々の熱い祈りを生み、その信仰が強められているのです。本物の信仰は、何もない平和な時よりも、大ピンチの時にこそより強い光を放つものではないでしょうか。とても深い悲しみ、苦しみの中に置かれて、なお感謝している姿に励まされることは少なくありません。
さらに、他にもパウロの投獄という出来事によって福音が前進している姿を見ることができるのだと彼は言うのです。まず15-17節を味わいましょう。
15節 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。16節 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、17節 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
パウロに対する敵対心、ライバル心を持つ者たちが勢いづいて、強い勢いで自分たちの勢力を拡大しようと宣教していると言います。ある人たちは、パウロに対するねたみや競争心で、キリストを伝えていたようなのです。自分たちなりの共同体組織を築き、パウロとその弟子たちのグループに対抗意識を燃やしいていたのでしょう。よりも大きなグループを作ることにすべてをかけていたのでしょう。動機としては明らかに歪んでいますよね。
現代で言えば、教団同士、あるいは教会同士がその成長度合いや規模の大きさを競い合うかのようです。非常に人間的なものです。そうやって、パウロが導いてきた教会や共同体より大きい組織を作り、マウントを取りたかったのでしょう。パウロを打ち負かしたかったのでしょう。こうして、17節にあるように、ただでさえ牢屋に入れられているパウロを、さらに苦しめる目的の人々でした。もう私たちからすると、そんな動機の人がいるだけで、嫌な思いになりますよね。批判したくなります。多分読者たちも、このことで怒りを覚え、心乱され、気になって仕方なかったのではないでしょうか。これがむしろ問題なのです。そういう良くない同期の人々や意見の違う人々がいることが問題ではない。そういう存在を気にしすぎて、そこでお互いに争うことに力が注がれることが問題なのです。
ですからパウロは、そういう人々の存在を受け入れる道を示しました。パウロはどんなかたちであれ、福音が前進していることを喜んでいると告白し、その道を示したのです。
18節 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。
「見せかけ」の伝道とはどういうことでしょう。愛の動機が伴っていないことでしょう。まさに「見栄え」で競い合う姿です。数字で評価する考え方でしょう。人が多いことが良いことのように思いこむものです。しばしば若い子たちが、インスタ等で映える写真を投降し、人々の評価数を比べ合うことがあります。それに近い感じでしょうか。それによって自分たちの存在価値を高めようとするのです。
しばしば、宣教の働きを妨げるのは、教会外からの圧力ではなく、こうした中での内部のねたみや争いかも知れませんね。ピリピの教会内にもあったのだろうと、推測できます。弟子たちの間でも、誰が一番偉いのかをいつも競い合っていました。マウントの取り合いです。また。ある場合には、自分があまりできていないことで、熱心に奉仕している人にねたみや批判的な思いを抱くこともあるのが人間です。
「あの人はすごいね~。それに比べて私は・・・」と、ほめていると同時に、比較し、自己卑下し、ともに喜べない。そんな弱さが私たちはあります。パウロは、そういう方法で苦しめられようとしていたのです。ところが、パウロには通じなかった。なぜでしょう。彼はより大きな神の愛の波の中に身を置いていたからです。小さな小波があちこちにあろうと、大きな波が来たら、全部その中に呑み込まれていきますよね。彼は18節最初に、「それが何だというのでしょう」とう言います。一切気にしないと言うのです。見せかけでも、真実でも、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのだ。喜ぼう!と言います。
主は私たちに語っておられます。パウロは何もできない不自由な牢にあり、その間にも、彼を苦しめようという動機で宣教する者たちがいた。しかし、パウロは主にあって、それらの働きさえ、大きな愛の波で呑み込み歓迎しました。むしろ、自分が牢屋に入れられていることさえ、主は用いておられる。かえって福音を前進させているのだ!とパウロは喜んでさえいました。パウロの視点は小さくありません。自分だけを見ていないのです。私たちの視点、小さすぎませんか。神様とその愛のご計画を小さくしていませんか。
あらゆる状況さえ益とし、みわざをなさる神がおられる。私たちも、小さな小波に翻弄されず。より大きな主の愛の波の中で、大いに喜んで前進していきましょう。
