*** 11/23(水)礼拝説教概略 ***
先週は2つの研修があり、普段とは異なる忙しさがありましたが、非常に恵み豊かな1週間でした。前半の研修は主催者側として、後半の研修は参加者側としての参加でした。後半の研修は、20名ほどの献身者の集まりでした。その交わりに励まされ、とても有意義な時を持たせていただきました。
その際に、山崎パンの飯島社長のお話を伺う機会がありました。
山崎パンはその社長がクリスチャンであることで有名ですが、かつて主力工場である武蔵野工場(東久留米の工場)が火災に遭い、生産設備が全焼したのです。実は当時の社長夫妻と息子さん(現社長)の3人が洗礼を受けてから、わずか11日目のことでした。洗礼を受けたのに「なぜ?」と神様を攻撃してもおかしくないはずです。しかしその時、当時の社長は「この火災は自分本位に仕事を進めてきたことへの神の戒めだ」と考え、「これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈ったのです。神の前にへりくだり悔い改める謙遜から、この会社はいのちの道を歩むようになったのです。
その精神を現社長さんも引継ぎ、社員教育には聖書を中心に据えて、皆さんで学んでおられる。自分の利益ばかりを追求する歩みから、神の愛と正義にかなう「いのちの道」へと方向転換すること。それが悔い改めてキリスト者として歩むということです。神様はすべての人が、自分本位の歩みから、神と人を愛する歩みへと導かれることを願い、今日も待っておられます。その救い道に自分もまた私たちの大切な方々も導かれるように歩んで参りましょう。
1.主は忍耐深く待っておられる
私たちの人生は平坦ではありません。様々な出来事があります。時に、「なぜこんなことが起こるのか?」と思うことがあります。山崎パンの火災のように。でもそれは、立ち止まって自分の歩みを振り返る時でもあると言えるのではないでしょうか。私たちは弱い。ですから順調な時は思い上がります。それで主は、しばしば試練を通して、高慢な私たちが神のもとにへりくだり、立ち返るよう語りかけるのです。そのまま滅んで欲しくないからです。そのために、今もまだこの世界は終わりを迎えず、存続しているのです。9節です。
9節 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
「遅れている」というのは、「怠けていて、やる気がなくて遅い」という場合に使うことばです。ある人たちは、キリストが再び来られる終わりの日を遅らせている理由を、神様が無力で、無関心であるゆえに遅いと主張したようです。しかし、事実は明らかに異なっていました。神様は無力でもやる気がないわけでもありません。私たちの髪の毛の数までご存知なほど、人に深い関心を持つ全能の神です。深く愛しておられるのです。
むしろ、人への愛が深いがゆえに、関心があるがゆえに、さっさと世界を終わりにはしないのです。待っておられる。神様だから、終わらせるのは簡単です。人のわがままによって壊れたこの世界、そこにはびこる人の罪・悪だけを見れば、早くに終わらせたいぐらいでしょう。しかし、神様はあくまでも人を愛しておられるのです。ご自分のたったひとりの子を与えたほどに。だから、神様は悲しい世界の現実に胸を痛めながら、立ち返るのを忍耐して待っておられるのです。
15節には、このようなことばがありますよね。
15節 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
主がまだ滅ぼさない。忍耐しておられる。それは私たちにとって救いなのです。その間に多くの人にこの知らせを届けることができるからです。その間に、人々がイエス様を信じるチャンスがあるからです。それは、イエスの一番弟子として歩んだこの手紙の著者、ペテロもよく知っていたはずです。彼はイエス様のおことばを覚えていたはずだからです。マタイ24:14にイエス様のことばがあります。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」 造られたすべての者に福音が伝えられ、それから終わりが来ると教えられています。遅いのではない。主は待っておられる。一人も滅びないで救われて欲しいと願う神様です。私たちの愚かさ、私たちの罪深さに忍耐して、胸を痛めながら付き合ってくださっている。ですから、今の忍耐は「救いの時」なのです。
2.終わりの日が来る前に
この救いの時に、備えをするようにと促されています。やがて必ず、終わりは来るからです。
10節 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
ここにある「主の日」とは、9節の「約束したこと」と同じです。10節後半を読んでもわかるように、それは主が約束している「終わりの日」、「最後の審判」です。それはまるで「盗人」のように訪れる。怪盗キッドやルパンは別として、普通の泥棒は親切に予告をしません。日時を教えて、「防犯をしっかりして下さいね」とは言いませんよね。だから、いつ来てもいいように備えておくことが大事なわけです。同じように、終わりの日は分からない。だから、明日来てもいいように備えておきなさい!というわけです。あなたは終わりの日への備えがあるでしょうか。
そして、10節最後に「地と地にある働きはなくなってしまいます」とあります。「なくなる」と訳されているところは、実は直訳すると「見つけられる」とか「露わにされる」との意味です。文脈上「消え去り」、「崩れ去り」の後に続くので「なくなる」という訳を採用したでしょう。しかし、ことばの持つ本来の意味の「見つけられる」の方が、聖書全体の文脈からより相応しいと私は思います。終わりの時に、この地にある見える物、被造物は確かに崩れ去り、消え去ります。しかし、聖書全体の文脈では、私たちが地上でなした様々な働きについて、神様によって「明るみに出される」「見つけ出される」と理解できるからです。
人には見えなかった良い働きも悪い働きも、主は露わにされ、相応しい報いを与えてくださる。それが終わりの日です。そうであれば、私たちの労苦が無駄ではないと分かります。慰められます。誰にも評価されなかったあのことも、主は知っておられ、ちゃんと相応しい時に明らかにしてくださるのです。しかし、一方で、隠れたところにある私たちの悪や悪意についても、露わにされる時です。それはかえって「恐ろしい」ことでしょう。ですから、他人事では、済ませられないのではないでしょうか。11節でもこのように語られています。
11節 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
聖書を知る時、聖なる敬虔な生き方とはかけ離れた自分を発見します。皆さんはどうでしょう。社会の第一線で歩んできたある男性が、自分の死を悟った際に怖くなりました。それでクリスチャンでもないのに「牧師さんを呼んでくれ」と言いました。家族は驚き、言いました。「お父さん、何を言っているの。あなたはすごく立派に歩んできたじゃない。人様から後ろ指刺されるような人生を歩んでないでしょう?なんで牧師さんなの?」と。ところが、彼は言うのです。「それは俺の表の顔だ。裏では人に言えないような悪いこともしてきたんだ。汚い醜い人間なんだ」と。自分のこれまでの歩みを振り返った時、すべてをご存知の神の前には、立てないと思ったのです。これまでの歩みのすべてが、全知全能の造り主によって明るみに出されることへの、率直な不安と恐れの吐露ではないでしょうか。この方は牧師を通して、「これまでのすべての罪を赦してください」と神に祈りました。そして、キリストの十字架による罪の赦しを受け取ったのです。
聖なる敬虔な生き方など、自分の力では決してできない!それを正直に認めたのです。実に、これこそが終わりの日への「最高の備え」なのではないでしょうか。自分を正しいとするのではなく、自分は少しも聖なる者ではないと認めて、涙をもって神に求めることです。実はその人こそ、神の聖さにあずかる者とされるのです。主の日への備えです。ただキリストを信じて、キリストともに歩み続けることです。「弱い私を導いてください」といつもイエス様の手につかまっていることです。主はそこに平安を与えてくださいます。
3.応答として
この地上の被造物はやがて朽ちていきます。どんなに嫌だとわめいても、私たちは死を迎えます。形あるものは必ず滅びるのです。しかし、聖書は今の世が朽ちて終わりではなく、神の国が来ると約束しています。新しい天と新しい地が来ると言うのです。いつそれが来るのか、人には分かりません。8節にあるように、永遠を生きる神にとっては、千年さえ1日のようもの。神様の感覚ではイエス様の十字架はつい2日前。私たち人間の尺度では測れないのです。ですから、私たちに遅いと思えることも、神には少しも遅くなく、最善の時に最善をなさるのです。だから私たちは、神様に生かされているこの日々に、神と出会う備えをしておきたいのです。主は待っておられるのです。まだ終わりにしないのは、無関心で忘れているから遅いのではない。むしろ、私たちを愛して忍耐深く待っておられるのです。
神様は今日も、私たちに親しく語っておられます。
既にイエス様を信じている者は、地上に生きるすべての人が新天新地、すなわち神の国に入れるように「神の協力者」として歩みたいのです。隣人を愛し、キリストの救いを知らせ、愛と平和に満ちた神の国がこの世界に来ることを祈り求める者となることです。12節にこうあります。12節 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
罪に満ちて愛の冷めたこの世界です。そこに、私たちは神の国が来ることを期待して、待ち望む者となりたいのです。私たちは来週からクリスマスの待降節、アドベントを迎えます。
引用元聖書
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