*** 2/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
子どもの頃、親が自分を厳しく叱る時、自分のことを嫌っているのではないかと思ったことがあるでしょうか。その奥にある本当の思いに気づけないことが、しばしばあります。しかし、後になってからでも、あれは愛からのものだったと知るなら、なんと幸いでしょうか。
しかし、聖書が示すのは、この預言者の涙こそ、神の涙であるということです。神は無関心ではありません。神は冷酷でもありません。罪に対してさばきを宣告されるときでさえ、神の心は傷ついているのです。
深く傷つくほどに愛してくださるその神のご愛を、今日も教えられて参りましょう。
1.神を捨て、人間的なものに拠り頼んだ結果
神様は預言者エレミヤに、近い将来起こる出来事を示されました。それは、罪を悔い改めなかった民に、さばきが迫っているという現実でした。14節で民はこう言います。「集まって、城壁のある町々に行き、そこで滅んでしまおう。」敵が迫る中、彼らは防衛設備の整った堅固な要塞に逃げ込もうとします。これは一見、賢明な判断に見えますね。
では、問題はどこにあるのでしょうか。それは、彼らが神に立ち返ろうとせず、人間の防衛手段にのみ望みを置いたことです。どんなに堅固な城壁でも、神様に逆らったままでは救いになりません。だから彼らは言うのです。「主が私たちに毒の水を飲ませられる」と。
どれほど強い城でも、水を絶たれれば内側から崩れてしまいます。同じように、神様との関係が断たれるなら、人は内側から崩れていくのです。15節では、さらにこうあります。「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしを待ち望んでも、見よ、恐怖しかない」と。彼らは「大丈夫だ」「問題ない」という偽りの声を信じていました。偽預言者たちが語る、受け入れやすい、耳触りのよいメッセージでした。悔い改めなくてもよい。神は選びの民をさばかない。問題ないと。聞くに易しいメッセージです。
易しく穏やかに・・・しかし、滅びへと誘うメッセージでした。
そこに待っていたのは、「平安」でも「幸い」でもなく「恐怖」だけでした。真理を退け、都合のよい言葉を選び取るとき、人は偽りの安寧を貪りながら、実は滅びに近づいているのです。ですから、偽りで導く指導者たちが悪いのは当然ですが、真理を知ろうとせず、都合の良いものだけを聞き入れる姿勢にも課題があるのではないでしょうか。私たちの時代にも同様の課題があることでしょう。第Ⅱテモテ4章3-4節 にこうあります。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
私たちの時代も同様でしょう。聞くメッセージを選り好みしていないでしょうか。聞きやすいメッセージだけを求め、受け入れにくいものは聞かない・・・そういうことがあるように思います。そして、受け入れにくいものこそ、実は私たちに必要なものであるということも言えるのではないでしょうか。
エレミヤ8章に戻ります。続く16-17節にこうあります。
16節 「ダンから馬の鼻息が聞こえる。その荒馬のいななきの声に、全地は震える。彼らは来て、地と、それに満ちているものを、町とその住民を食らう。17節 見よ。わたしがまじないの効かないコブラや、まむしをあなたがたの中に送り、あなたがたをかませるからだ。 ──主のことば。」
北のダンから、敵の軍馬の音が聞こえるとあります。それはカルデヤ、すなわちバビロン軍の到来です。彼らは「まじないの効かないコブラ」にたとえられます。どんな呪術も、どんな同盟も、どんな外国の助けも、神のさばきを止めることはできません。エジプトに頼っても、政治的な力に頼っても、人間の知恵に頼っても、神様との関係が壊れたままでは救いにならないのです。ですから、主である神様は私たちに、ご自身の心をすべて伝える預言者を遣わし、語りかけ続けているのです。そこには悲しみが表現されています。
2.預言者の涙は神の涙
この幻を示される中で、預言者エレミヤは深い悲しみに沈み、その心は弱り果てます。
18節 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。
預言者エレミヤは、民を愛し、その末路を胸が張り裂けるような思いで見つめていました。それは、神の悲しみそのものでした。「涙の預言者」と言われるエレミヤは、自分の心をすり減らすようにして、この民の救いのために仕えたのです。そして、この預言者の涙は、神の涙そのものであると言えます。この罪深い人間を前にして、神様の悲しみは癒やしようがないほど深いのです。その心は弱り果てるほどです。エレミヤを通して語られる警告も、涙の訴えも、神様ご自身の愛だと言えます。
19節 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。 シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」
イスラエルの民の叫ぶ声が聞こえると言うのです。「なぜ、シオンの王であるはずの主はおられないのか。なぜ、神は沈黙しておられるのか」と彼らは嘆き叫びます。目の前で主が「わたしはここにいる」と言われているのに。この民は盲目なのです。ただ、盲目になったのは何故でしょうか。19節後半で原因が見えてきます。「自分たちが刻んだ像」「異国の空しいもの」によって神の怒りを引き起こしたのでした。つまり偶像ですよね。
彼らは自分たちに分かりやすいようにと、無限の神を有限の動物や人の形に変えて偶像としてしまったのです。その結果、かえって永遠不変の神様が分からなくなり、離れてしまったのです。神がいないのではありません。しかし、自分たちの罪がその目に覆いをかけてしまいました。結果、20節にあるように、刈入れ時が来ても救いの収穫がなく、枯れていくのです。そして、この悲惨な現実の結果を知るエレミヤは、22-23節で深い悲しみの中にあることが繰り返されます。そうして、神様の悲しみを自分のものとしています。
21節 娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。
22節 乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。
よく観察すると、19節、21節、22節と3度、同じ表現が繰り返されているのです。何でしょうか?「娘である私の民」という表現です!エレミヤの口から繰り返されていますよね。この民を自分の娘のように可愛がり、愛するエレミヤです。実はこれこそは、神様ご自身の視点です。神様はイスラエルの民をしばしば「娘シオン」と呼ばれます。神様は愛を込めて造られたこの民を、ご自分の愛する娘のように愛しておられるのです。そして、21節ではこの娘の傷のために「私は傷ついた」と告白されています。自分の愛する娘が傷ついたら、親も一緒に傷つくように、主はこの娘イスラエルが、いのちの道を外れてボロボロになっていく姿を本当に傷つきながら見つめ、立ち返れと訴えるのです。
3.神の涙の意味を知ろう
しかしながら、この民イスラエルは、強情に拒みます。なぜにこんなに悔い改められないのでしょうか。そこには、傷つきながら待ち続ける親の愛が分からない愚かさがあるのではないでしょうか。実に、愛のうちに待ち続ける側、赦す側には本当に大きな犠牲があるのです。しかし、それを受ける側が全然わかっていないことがあります。その愛と赦しの犠牲が分からないので、それを平然と踏みつけてしまうのです。
ここで、協議会総会の講師がお分かち下さった証しを紹介します。先生が中学生の頃、悪い事を散々した時代があったそうです。万引きや喧嘩、様々な悪事をしたそうです。そして学校に知られ、紙を渡されて悪事を全部書かされました。お母様が呼び出され、なんと息子が書いたものを母親が全部朗読させられたそうです。何度も頭を下げる母親の姿が今でも目に焼き付いていると言います。さらに怖くて強い牧師である父が家で待っていました。怒られるのを少しでも回避しようと反省文を書いたものの、父親は何も言わず殴り、叩いたそうです。何度もされるのでだんだん腹が立って来ました。そこで父親突き飛ばして逃げようと思った時、父親の目に涙があることに気づいたのです。今までに一度も見たことがなかった父の涙でした。その時初めてわかったのです。父は憎くて叩いているのではない。罪と真剣に向き合わせようとして泣きながら自分を殴っているのだ。父の涙を見て父の愛に気づいたのです。そして、自分の罪が、どんなに愛する人を傷つけていたのか、それが初めて分かったというのです。
21節をもう一度お読みします「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた」。これは主の思いそのものです。私たちの罪が神様を悲しませ、傷つけてきました。そして、この罪ゆえイエス様が十字架で苦しむ必要がありました。この先生のお母様が、愛するわが子の罪状書きを教師の前で読まされた時、どれほど胸が痛み悲しかったでしょうか。牧師であるお父様が、愛する息子を涙ながらに打っている時に、どれほど胸が張り裂ける思いだったでしょうか。 神様はご自身のひとり子を、あなたの代わりに十字架につけて、あなたの代わりに罰するほどに、あなたを愛しておられます。あなたの罪を赦し救うためです。滅びないためです。それを信じるだけで得られるのです。しかし、信じるだけで得られるのは、神様の側で多大な犠牲と痛みと悲しみを忍耐し続けてくださったゆえなのです。主は私たちのために傷ついてくださったのです。傷つきながら、あなたの帰りを待っておられます。
