2019/10/27
信じるなら、主の栄光を見る!
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト記40:34)
イスラエルの民は、神のご命令の通りに幕屋を建設しました。
自分たちの好むようにではなく、いい加減にでもなく、主がモーセに命じられた通りの材料で、語られた通りの構造に造りました。
そして、いよいよ完成したとき、このみことばにあるように「主の栄光」が幕屋に満ちたのです。
主の栄光がその場に満ち溢れたので、モーセさえその天幕に入ることができないほどでした。人間の栄光のためではなく、ただ主のおことば通りに聞き従い、主の栄光を求めてなした時に、このように主の栄光で幕屋が満ちたのです。
どんなに立派な幕屋を建てようとも、そこに神の臨在がなく、神の栄光が現れないものならば、何の意味もありません。
人の求める栄光はむなしくすぐに消え去ります。
「自分の栄光」ほどむなしく消え去るものはありません。
ソロモンは圧倒的な財力、比肩する者なき知恵があり、あらゆる快楽や事業に取り組みました。
しかし、贅沢の限りを尽くし自分の栄光を現わしたどり着いた結論は「神を離れては何をしてもむなしい」というものでした。
日本でも豊臣秀吉は、自分の栄光をひたすらに追い求め、農民から天下人にまで立身出世した人です。金銀財宝を得て、多くの家臣を得ました。しかし、彼の最後もまたむなしさに満ちていました。
自分の人生は朝露のように現れてはすぐに消えるむなしいものだった。まるで夢を見ていたようにはかない人生であったと、さみしさに満ちた歌を残して世を去りました。
しかし、神の栄光は人に幸福をもたらし約束の地へと導いてくれます。
そして、それは消え去ることのない永遠の輝きです。
イエス・キリストも言われました「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハ11:40)。
私たちは主イエスを信じて生きるならば、主の栄光を見させていただけます。みことばの通りに歩むときに、神の栄光が幕屋満ちたように、私たちもみことばに忠実に歩んで生きましょう。
私たちの歩みが主の栄光を現すものとなるよう切に願います。
あなたはどんな栄光を求め、どのような方法でその栄光へたどりつこうとしていますか。
2019/10/20
真理と自由
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)
イエスを信じたユダヤ人たちに、主イエスはこれを語られました。
信仰というものが、決して一時的なものや表面的なものでないことがこの事からわかります。
神の真実の啓示者であるキリストのことばにとどまり、従い続ける人こそ名実ともに、キリストの弟子であり、その人こそ真理を知る者とされていくのです。
「真理を知る」とは、キリストを知ることであり、同時にそれは父なる神を知ることです。
真実な神を知識だけでなく人格的に知る者となり、その人こそあらゆる束縛、支配から解放され自由とされるのです。
それが神がくださる「救い」であり、キリスト者はこの真理をお伝えし、人々を真の自由へと導くために召された主の弟子です。
しかし、私たちの生活がみことばとかけ離れているならば、人々が私たちを見て真理に気づくことは難しいでしょう。
「真理」は、みことばと行いの一致を意味することばだからです。ですから、みことばと行いが完全に一致しておられるキリストから目を離さずに歩んでまいりましょう。
そして、真理を知るということは、自分の本当の姿を知ることでもあります。
聖書という鏡を通して、私たちは自分の本当の姿と直面します。キリストを知るほどに、自分の汚れ、罪深さ、心の闇にも気づかされていきます。愛のない者、飢え渇いている者であると知ります。
しかし、これこそ、私たちが自由にされていくために必要なことです。
「裸の王様」が不幸なのは、自分が裸であるという真実を知らなかったからです。
多くの人が教えてくれませんでした。
でも、王様自身が、そうさせていたとも言えます。
私たちは謙虚になって、自分の罪を素直に認め、そこから解放してくださるキリストに留まり続ける者となりましょう。
そして、この真理を知らず、自分が闇の中にいることも気づかないでいる人々にこの真理を分かち合い、本当の意味であらゆる束縛から解放され、自由になっていただければと願うのです。
2019/10/18
人間関係のイライラや痛みからの解放
人間関係でイライラしてしまう。
ちょっとした事で衝突し、思い通りにならず頭に来てしまう。
他の人を批判的に見てしまい、さばいてしまう。
そのようなことで悩む人は少なくありません。
こうしたことが原因で自分の心もストレスを抱えて疲れてしまいますよね。
では、どうしたらこれら人間関係のストレスから少しでも楽になるのでしょうか?
3つのことをお伝えしたいと思います。どうか少しでも楽になれますように!
1. 自分の罪深さと向き合うこと
実は、自分の罪深さや愚かさと向き合うことによって、人に対してイライラすることから解放されていくのです。
「すごく意外な答え」のように思われるかも知れません。
しかし、以前お話を伺ったある牧師(心理学専門の方でもある)はこうおっしゃっています。
「他人をさばき、批判することは、自分の問題を受け止めることから逃げている現実である」
聖書もこう言っています。
ヤコブ 4:12 律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
さばくのは神の仕事であって、あなたも自分自身の罪深さや問題をさばかれる立場の人間だよ。
さばいているあなた自身は、いったい何者ですか?と問われています。
実に、自分の罪の問題と向き合えば、自分は誰かを偉そうにさばけるほど正しくない者だ!と気づきます。
自分を神のようにして上から目線でさばき、イライラしていることがなんと自分に甘く高慢なことかと気づかされるのです。
子どもたちが自分の部屋や机の上を散らかしっぱなし・・・ということはよくあります。そこで私たちは注意をするわけですが・・・
でも、ふと自分の子ども時代を思い返すと、綺麗だったとは言い難いことを思い出したりするものです。
いや、今でも書類を山積みにさせたままになっている・・・という方もいらっしゃるでしょう。
もちろん、それでも片づけよ、綺麗にせよと注意すべきですが・・・ただ、自分もそういうところがあるよなぁと心のどこかに思っていることで、そこまでイライラせずに、半ば「仕方ないなぁ」という落ち着いた心で指導することができるものです。
自分のイライラ、ストレス解消のためではなく、相手の将来を考えて指導することができます。
自分の愛の無さ、自己中心性、怠惰な姿、そうした罪深い姿に気づくと、他人を偉そうにさばくことができなくいなるのです。
キリスト者の交わりが他の人の悪口を言い合うものでないのは、まさにこのことによるのです。
赦された罪人に過ぎない自分をよく知っているからです。
自分の愚かさに涙し、自分の愛のなさに愕然とし、傷つき悩みながら歩んでいる人は、他の人の愚かさや愛のなさに対しても寛大にされていきます。結果イライラからも解放されていきます。
本当の成熟した大人とは、自分は「もう完璧だ」と思い込む人ではなく「自分はまだまだ未熟だ」と受け止めている人なのです。
逆に言えば、自分の課題と向き合わない人ほど、他人に批判的になり関係がうまくいかなくなるのです。
そうは言うものの、ひどく傷つけられることもありますよね?自分も人を傷つけることがあるけれど、あそこまでではない!それぐらい傷ついてしまうこともある。特に不当に傷つけられることもあるものです。その場合、我慢しないで傷ついた心に必要な手当てをしてあげましょう。2番目のことは「心の手当」です。
2. 心の手当
心がイライラしたり、傷つき疲れたりすることは誰にでもあります。でも、それを悪いことだと考えて、傷つかない完全無欠の心になりたいと願うならば、そうなれない現実の中でかえって疲れ果てます。
むしろ、自分の心が傷つきやすい事は良いことであるとまず受け止めたいのです。
なぜでしょうか?
心が傷つかない人は、他の人の痛みがわからない人です。まるで血の通わないロボット。その人は他の人に同情できず、痛みに寄り添うすべを知らず、励ますこともできません。そんな人とは一緒にいたくないでしょう。
むしろ、傷つく心であることは、他の人を慰め励ますことができる特権だと思うことです。そうすると、傷つくことを極端に恐れる必要がなく、むしろそれによって自分が成長できるチャンスだ!と前を向けます。これだけでも、少し傷が浅くなります。
さらに、心の手当ては神様が教えてくれる方法で!イエス様はこう言われています。
マタイ5:14 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
その意味するところは、神様と共に、神様の御心に沿って悲しむ者は「神様からの慰め」を受けられるから、幸いだと言うのです。
自分の方法で慰めようとすると失敗します。
例えば、倍返しだ!と復讐するならば、自分の心も憎しみに囚われ、また相手からのさらなる報復を受けるので、ストレスは4倍に膨れ上がるでしょう。
あるいは、「やけ食い」、「買いまくり」、「車で高速道路を走る」。
例えば、倍返しだ!と復讐するならば、自分の心も憎しみに囚われ、また相手からのさらなる報復を受けるので、ストレスは4倍に膨れ上がるでしょう。
あるいは、「やけ食い」、「買いまくり」、「車で高速道路を走る」。
これらは健康にも悪かったり、家計にも悪かったり、危険であったりしますね。
さらに、そんな自暴自棄のような方法で傷を癒そうとする自分がイヤになります。
挙句の果てに、それでは回復しない現実に気づきます。いい事ありませんね。
最善の方法は、自分で癒すのをやめ、神様に癒してもらうことです。
傷や悲しみ、ストレスを神様に祈りによって全部知ってもらいましょう。ことばにして語るのです。祈りつつ神様から聖書を通して励ましのことばをいただくのです。
そして、神様をよく知る人に癒し慰めてもらうことです。
また、自分の罪深さを受け止めている人に、お話しし分かち合うことです。
その人は自分にもそういう弱さがあることを知っているので、あなたを責めたり、そんなことで悩むなと批判したりしません。その痛みを理解し、一緒に神様に祈ってくれるでしょう。
傷や悲しみ、ストレスを神様に祈りによって全部知ってもらいましょう。ことばにして語るのです。祈りつつ神様から聖書を通して励ましのことばをいただくのです。
そして、神様をよく知る人に癒し慰めてもらうことです。
また、自分の罪深さを受け止めている人に、お話しし分かち合うことです。
その人は自分にもそういう弱さがあることを知っているので、あなたを責めたり、そんなことで悩むなと批判したりしません。その痛みを理解し、一緒に神様に祈ってくれるでしょう。
3. 隣人に寄り添う
心が手当され、癒されて来たら、他の人の痛みに寄り添うことにも意識を向けてみましょう。
そうするとことで、傷が完全に癒される助けになると同時に、その傷をあなたが受けた意味までも知る機会が生まれます。
時々、私たちは既に治っている傷を再び確認し、その傷を思い出そうとします。せっかく相手に対して寛大になり、自分の心も慰められたのに、また逆戻りして傷を自分で思い出し、自分をあわれもうとします。自己憐憫こそは、このイライラとストレスをもう一度自分に取り戻してしまう罪深い姿です。
そうするとことで、傷が完全に癒される助けになると同時に、その傷をあなたが受けた意味までも知る機会が生まれます。
時々、私たちは既に治っている傷を再び確認し、その傷を思い出そうとします。せっかく相手に対して寛大になり、自分の心も慰められたのに、また逆戻りして傷を自分で思い出し、自分をあわれもうとします。自己憐憫こそは、このイライラとストレスをもう一度自分に取り戻してしまう罪深い姿です。
あわれみ心は自分に対して向けるべきものではなく、他の人に向けるべき心です。自分をかわいそうだと思い込むことは、自分の闇に閉じこもり、他の人をシャットアウトしていきます。
その闇から出る必要があります。預言者エリヤという人が聖書に出てきます。彼は自分の命を王妃が狙っていることを知り、怖くなり逃げます。そして洞穴に隠れ、自分はもうダメだ、このまま命を取って欲しいとさえ願います。自己憐憫です。そこはまさに闇の中。大切な使命も忘れ、自分を守ることに必死である。
しかし、神様はほら穴から出よと導かれます。さらにあなたには仲間があり、なすべきことがあるのだと示されました。
自分の傷ではなく、今度は他の人の傷に寄り添う使命を与えられていきます。
そこに本当の意味での痛みからの解放があるのです。
ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)そこに本当の意味での痛みからの解放があるのです。
※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。
2019/10/15
無料聖書アプリのご紹介!スゴくいい!
一般財団法人 日本G&M文化財団から、すごい聖書アプリが出ました。
□ 聴くドラマ聖書 です。
新改訳聖書2017年版を、豪華俳優・キャストによって臨場感あふれるドラマ仕立てで聴くことができます。
大和田伸也さん、加藤雅也さん、鶴見辰吾さん、奥田瑛二さん、藤田朋子さん、南沢奈央さん、斉藤慶子さん、つるの剛士さんなど、150名以上の豪華キャストで製作されています。
実際ダウンロードして聴いてみましたが、重厚でありながら聴きやすく、聖書に馴染みのない方にも入りやすいと感じました。
ぜひホームページを覗いてみて、スマホにダウンロードしてみてください。
これで無料です!すごい!
ぜひ、リンクから紹介ページに行ってみてください。
目が不自由な方、高齢の方、字を読むのが苦手な方にもオススメです。
2019/10/13
失望せず、あきらめず!祈ろう!
まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。(ルカ18:7)
たいていの場合、私たちはあきらめるのが早すぎます。そしてすぐに失望します。
「失望」は悪魔が大好きなことばではないでしょうか。
神に祈っても無駄。
神はあなたに心を留めない。
彼はそんな声を私たちに吹き込んでくるのです。
しかし、主イエスは失望せずに祈り求めることを教えてくださいました。
たとえ人でなしの裁判官でさえ、しつこく必死に訴えてくる人にやむなく応じるものであるとのたとえ話を主は語られました。
しかも、その訴えた人は当時の社会的弱者である「やもめ」でした。
多くの場合、軽んじられがちなやもめでさえ、しつこく必死に訴え続ければ、人でなしの裁判官も動かされることがあるのです。
そうであれば、愛と真実に満ちた神が、ご自身が御子キリストを与えた人間のために、すべてを働かせて助けてくださらないはずがありません。
ですから私たちは、決して失望せず、あきらめず、期待をして神に祈り求める者となりましょう。
主に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。
失望しない!あきらめない!と心に決め、今日も祈りましょう!
(2019年10月13日 週報掲載)
2019/10/09
教会開放日の恵み
今日は教会開放日。
新会堂で新しく始めました。
今日も子どもたち、青年たちが集まりにぎやかです。
小学生が5人、中学生4人、大学生2人、そして大人の方々も!
まだこれからも来そうです!
ある子たちは卓球、ある子たちはボードゲーム、ある子たちは歌を!
そのように教会が用いられていることは、
なんと嬉しいことでしょうか。
イエス様は、わたしのもとに来なさいと
多くの人を招きました。
疲れている者も、重荷を負っている者も、
子どもたちも、取税人、遊女なども招かれました。
教会は、イエス様を求める人みんなに開かれている場所です。
これらの写真も、来ている中学生の子が撮ってくれました!
お花を持って来て下さった方、
活けてくださった方にも感謝♪
いやされます。
2019/10/06
あり余るほどに
モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(出エジ36:5)
神を礼拝し、神のお心を知るための会見の天幕作りがなされていました。その時、神は召した者をご自身の霊で満たし、知恵を授け、他の人に教える思いも与えてくださいました。やり通す「志」でさえも主が与えてくださったのです。
自分の情熱ではなく、主の霊がくださる熱心によって、私たちは心燃やされていくのです。
そのような者たちが材料を献品し作業をしていった結果、驚くべき事が起こりました。
このみことばにあるように必要な材料が足りないということはなく、なんとか満たされたというのでもなく、「あり余るほど」与えられたということです。
彼らは自分にある物を献げ、自分に与えられている技能を献げただけです。
しかし神の霊に満たされ心からした時、あり余るほど十分であったことがわかります。
多くの場合「足りない」と嘆く私たちではないでしょうか。しかし、物が足りない、人手が足りないのではありません。「主の御霊に満たされる人」が足りないということではないでしょうか。
神の人として自分を献げるときに、神の祝福によってあり余るほど十分与えられるのです。
(2019年10月6日 週報掲載)
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