東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 3章12~39節「感情を誰のしもべにするか?」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/05/13

Ⅱサムエル記 3章12~39節「感情を誰のしもべにするか?」

*** 5/13(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記312-39節感情を誰のしもべにするのか?

 イエス様を信じたばかりの頃に、安定したクリスチャンライフについて学びをしていただきました。それは感情によって自分を引っ張っていく生活は安定しないということ。ジェットコースターのように上がり下がりする日々。感情は客車を引っ張ってくれる機関車にすべきではないのです。客車を引く機関車は「神の真実」であり、それを信じる信仰がその後に続き、最後に感情が「神のしもべ」として着いてくる。それが安定したクリスチャン生活の秘訣だと学びました。もちろん、学んでも失敗ばかりですが、感情に流されて動いてしまった結果として思い出されるのは、大失敗の記憶ばかりです。主が下さった「感情」を誰のしもべとするべきでしょうか?神のしもべとしましょう。


 先週は、神様との信頼関係、また人との信頼関係の大切さを教えられました。この当時のイスラエルでは、サウル一族とダビデ一族の間に対立が生じていましたが、サウル王の息子イシュ・ボシェテと彼に仕えていたアブネルとの関係が破綻してしまった場面でした。将軍アブネルは、イシュ・ボシェテから信頼されていないと気づき、怒りと悲しみに囚われて、対立していたダビデを王に着けると言い出しました。私も子どもの頃に、「信じてくれないなら、もういいよ」といじけたことが何度もあったなと思い出します。

 人間って、疑われてあれこれ注意されても、前向きに受け止めることが難しいんですよね。それよりも、信頼されて、信じてもらってあなたならできるよ!あなたを信じるよ!と言ってもらった方がずっとやる気が出ます。そして、その信頼が純粋であればあるほど、それに応えようとするものです。

 さて、完全に信頼を失ったと考えたアブネルは、12節にあるように早速行動に移します。

12節 アブネルはダビデのところに使者を遣わして言った。「この国はだれのものでしょうか。私と契約を結んでください。ご覧ください。私は全イスラエルをあなたに移すのに協力します。」 

 主君を裏切ってこちらに寝返ろうとしている者を信頼できるはずがないと考えたことでしょう。ダビデは一つの条件を出しているのです。13節です。

13節 ダビデは言った。「よろしい。あなたと契約を結ぼう。しかし、条件が一つある。それは、あなたが私に会いに来るときは、まずサウルの娘ミカルを連れて来ること、そうでなければ私に会えないということだ。」 

 条件は、サウル王の娘ミカルをダビデの元に連れて来ることでした。かつてダビデは自分の戦果として、サウル王の娘ミカルを結婚相手として受けたという経緯がありました。しかし、サウルがダビデを憎んだために二人の間は引き裂かれ、ミカルは別の人の奥さんになっていたのです。

 しかし、今回ダビデはそのミカルを私に返せという条件を出しました。この条件に応えることは、アブネルが本気であることを示すことになりました。なぜなら、ミカルを妻とする事は、サウル王家のプリンセスと結婚するわけなのです。ユダの王ダビデとそれ以外のイスラエル部族のプリセンスのミカルとが結婚する。これで統一王朝が生まれるという王道ストーリーですね。

 14節でダビデはイシュ・ボシェテに正式に使者を遣わして、ミカルを返してくれと伝えました。続く15節で、彼らが言われる通りにミカルを現在の夫から取り返しています。可哀そうなのはミカルとその夫です。16節はとても印象的です。

16節 彼女の夫は泣きながら彼女の後を追ってバフリムまで来たが、アブネルが「行け。帰れ」と言ったので、彼は帰った。 

 無理やり妻ミカルを取られたので、泣きながら彼女を追いかけて来たと言うのです。ミカルの気持ちは記されていないのでわかりませんが、少なくともこの夫パルティエルは、ミカルをとても愛していたのでしょう。

 こうして考えると、イスラエルという国に王を立てようと言い出した民の身勝手さによって、こうした不幸な現実が引き起こされていることに気づきます。人間の王など立てずに神様を王としていれば良かったのですが、目に見える王の支配によって安心したいと考えた結果がこれです。

 人が人を支配するという世界。それは良い王であれば確かに安心につながるかも知れませんが、人はみな罪人であって、権力を持つとそれを正しく行使できる人がどれだけいるのだろうかと思いますよね。そして、ミカルやその夫のように、政治のために振り回され、傷つけられることが少なからずあるのは悲しい事です
 
 さて、このようにして着々とダビデがイスラエル全体の王になる準備が整えられていきます。17節以降を読んでいくと、サウルの将軍だったアブネルは、この後もイスラエルの長老たちに根回しをし、ダビデをイスラエル全体の王とすることで一致しようと働きかけています。動機は褒められたものではありませんでしたが、彼の行動力はすさまじく、彼がこれだけ働きかけなかったら、まだまだ血が流されていたことでしょう。

 ダビデは彼のこれらの行動力に感謝と敬意を現し、20節でアブネルと部下のために祝宴を催しました。続く21節の最後では、ダビデがアブネルを送り出し、アブネルも安心して出て行ったとあります。ダビデの器の大きさを感じます。かつては自分に仇をなした相手です。けれども、アブネルのダビデに対する忠実な行動を見て、これまでのことは水に流し、彼を受け入れ、正式に盟約を結んで統一王朝にしていこうとしたわけです。

 ダビデは、復讐心に支配されず、あるいは過去に支配されず、今何をすることが主の前に良いことなのかを神様に祈り求めながら歩んでいました。感情ではなく主にゆだねる決意です。非常に教えられる姿です

 先ほどダビデの妻ミカルが登場しましたが、確かにミカルも犠牲者でした。けれども、ダビデを赦して関係を修復しようという姿勢があまり見られません。6章ではダビデを蔑んだこと、そして二人の間には子どもがなかったことが記されています。二人の関係が破綻したままであったことが伺えます。ミカルに神のみことばに立って「赦す」という姿勢があるならば、また違ったのではないかとも思わされます。

 さて、これですべてが上手くいくかのように見えました。しかし、アブネルが来ていたことを知ったダビデの家来ヨアブが彼の暗殺してしまいます。

27節 アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。 

 以前アブネルは、自分を殺そうと執拗に追って来るアサエルを止む無く殺したという経緯がありました。それでもヨアブはひたすら「自分の弟のカタキ」として恨みに囚われ、アブネルを暗殺してしまうのです。この個人的感情に流された行為が「平和な契約」を壊し、争いの犠牲者を増やし続けてしまうこと。そこに彼の考えは至っていないのです。浅はかなのですが、私たちがついついやってしまう「しくじり」だなと思わされます。

 この後、ダビデはアブネルを丁重に葬りました。このことで民は王様がこんな汚い暗殺、だまし討ちをしたのではないと知って安心します。さらに、ダビデはヨアブたちを自分の手でさばくことを控え、神様が彼らの悪い行為に報いられるようにとゆだねました。そのことが39節にあります。彼らを止められなかった自分の無力さと向き合い、主の手にゆだねています。

ヨアブの感情的な行為は民を不安にさせ、平和を壊す行為でありました。しかし、ダビデの冷静で主にゆだねた対応は、民に安心と平和をもたらすものでありました。

 私たちも問われます。過去に囚われ、赦しのない怒りの感情で行動してしまう時、自分もまた周囲の多くの人をも悲しみに巻き込んでしますのです。このヨアブのように。

 感情も主がくだった大切なもの。主がくださった良いものだからこそ、罪の道具、悪魔のしもべにしてはならないのです。ダビデも感情の人でした。詩篇を味わえばわかります。それゆえに失敗もしました。でも、感情は神様の恵みと愛に感動するためにあります。

 復讐心、妬み、怒り、自己嫌悪・・・それらの感情を私たちの主とせず、キリストを私の主として、与えられている感情を主のしもべとして仕えさせていただきましょう。

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