東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書19章37-44節「主イエスが見ておられる景色」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/05/10

ルカの福音書19章37-44節「主イエスが見ておられる景色」

*** 5/10(日) 礼拝説教概略 ***

ルカの福音書1937-44節「主イエスが見ておられる景色


 
人は同じものを見ていても、見えている景色が異なります

 高校時代、美術の時間に校外に油絵の写生に行きました。私は何人かの友人たちと同じ公園、同じような場所を描きました。しかし、友人たちと比べると構図とか、どこにフォーカスしているかとか、同じ景色を描いていてもそれぞれ違いました。

 私たちは同じ季節、同じ時間に同じ場所にいても、見えているものがまるで違うと気づきます。そして見えているものの違いは、そのまま人生観の違いでもあると思います。

 だからこそ、主イエス様が見ておられた景色はどのようなものだったのだろうかと気になります。叫ぶ人の本当の求めが見えなければ、ふさわしい助けが出来ません。悩む人の問題の本質が見えなければ、適切な助言ができません。

 真理の道を見抜いていなければ、人に分かち合うこともできません。弟子たちが見ていた景色とイエス様が見ていた景色。だいぶ違うのかなと思うのです。私たちは今、どうなのでしょうか?何を見ているのでしょうか。イエス様が見ておられた景色を少しでも見られる者になれたら、イエス様の心で物事を感じられたら、もう少し私たちは弟子としてお役に立てるのかなと思います。ともに主の語り掛けに聞いて参りましょう。

37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」 

 オリーブ山の下りにさしかかり、エルサレムが見え始める頃、大勢の弟子たちが賛美を始めました。エルサレムが近づき気分が高揚したということがあるでしょう。そして、ここにあるように多くの癒しや奇跡を目撃してきた事が思い出されたのでしょう。

 すぐ直前では盲人が見えるようになって一緒について来たし、村にて「主がご入用なのです」と一言伝えたら、ロバを譲ってもらえました。「イエス様すごすぎます!」と言う感動があったのでしょう。

 ただ、この時エルサレムへの巡礼に向かう一群の中にはパリサイ人たちもいました。彼らは弟子たちがイエス様をほめて、神様を賛美しているのを良く思いませんでした。それで弟子を叱るようにイエス様に言いますが、イエス様の答えはこうでした。

40 イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」 

 彼らが黙れば石が叫ぶ。名言ですね。

私たちの心に起こった感動。そこから生まれる賛美、あふれる感謝。それらは誰にも止めることができません。

真の喜びはコロナには止めることができません。

私たちの賛美したいという思いは、誰にもかき消すことはできません。

止めれば石が叫び出す。真実とはそういうものですよね。

 それが本物ならば誰にも止めることも消すこともできない。私たちはキリストの土台の上にしっかり立って、表面的ではない本物の喜び・感動を持つ者となりたいですよね。

それほどイエス・キリストというお方は圧倒的に良いお方なのです。

ですから、イエス様とともに歩みながら私たちのうちに喜びや感動がないのならば、イエス様に魅力が足りないのではなく、私たちがあまりにもイエス様を知らなすぎるということなのではないでしょうか。今日少しでも知りたいと願います。


 著者ルカは、このすぐ後のイエス様の姿を丁寧に描写しています。

41節 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
 
 エルサレムを見て涙したイエス様。他の福音書では見られない描写です。イエス様たちがおられたオリーブ山の斜面からは、エルサレムの町の広がりが一望できました。

 多くの巡礼者たちにとって、オリーブ山の山頂を過ぎて下りに差し掛かった時に一つの感動の瞬間だったのだろうと思うのです。

 イスラエル聖地旅行に行かれたことがある方は、イメージができるでしょうか。私もたまに聖地旅行をインターネット上、グーグル検索でするのですが、やはり本物の聖地旅行をしたいものです。

 現代、この場所には「主が嘆かれた教会」というものがありまして、建物の形が「涙ツボ」になっているそうなのです。

 本来であれば、ほとんどの人が感動を覚えつつ喜んで眺めるその景色。しかし、この時主イエス様の目にはそうは見えませんでした。イエス様はこの都を見て涙を流されました。ボロボロだったからではないのです。閑散としていたからではないのです。

 むしろ、大勢の人で賑わい、活気があったことでしょう。繁栄していたことでしょう。一見華やかで楽しげな風景。けれど、イエス様にはそのもっと奥に真実が見えていました。その奥にある霊的な飢餓状態、罪深い滅びへと向かうあわれな姿が見えていたのです。

 信仰とは名ばかりの形式化した宗教活動(私たちもただの習慣になってはいませんか?)。あるいは暴利を貪る強盗の巣となり果てた神の宮(神も人も愛さず、自分の利益を求める姿)。自分の名声や地位のことばかり考える宗教指導者たち。真理よりも自分たちの生活の安定を求め、それ次第で手の平を返す群衆。 

 エルサレムの「サレム」は「神の平和(平安)」。「神の平和」との名を持つ神の都で生活していながら、肝心の神様との心の通う交わりがない。イエス様が見ていのはそのような真の姿でした。その見せかけの繁栄の先にある「あわれな滅びの姿」を見て悲しく涙されたのです。

 そして「泣く」と訳されたことばは「涙して泣く」あるいは「嘆く」、また「嗚咽する」とも訳せることばです。涙がほろりではなく、嗚咽するように激しく嘆き泣かれたということだと思うのです。

 42節に、イエス様の悲痛な叫びがあります。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。 

 平和に向かう道をもしあなたが知っていたのなら・・・なぜ知ろうとしないのか、なぜ求めないのか。ここではエルサレムを擬人化して「おまえ(orあなた)と呼ばれました。それはまるで大切な友に呼びかけるような言い方です。「愛する者よ、どうして!」と大切に思うからこその嘆き。悲しみがより一層伝わってきます。

それはもちろん「エルサレムという都」の外見、街並みではなく、エルサレムに象徴される人々のことを指しています。つまり「神の民」と呼ばれたユダヤ人たちのことです。

 長い歴史の中で何度も何度も主はエルサレムの人々に手を差し伸べてきました。親鳥がひなをその翼のもとに集めるように、主は彼らを愛し招かれました。しかしそれに応じない人間の自己中心、おごり高ぶりがありました。知る事が出来るのに、知ろうとしなかった。信じられるはずなのに、信じなかった。祝福も幸せも目の前に用意されたのに、それを拒んで刹那的な快楽に走ってしまいました。これほど悲痛なことはありません。

 ご存じのように世界中で「医療崩壊」という問題がニュースになりました。「助けられるはずの命が助けられない」という叫びです。助けられるのに助けられないという事ほど悲しい事はないですよね?まさにイエス様が見ている景色とは、目の前に助けられる人々がいる、助ける道もここに明確にある!それなのに助けられないという嘆きです。
 
馬を水飲み場に導くことはできても、水を無理やり飲ませることはできないと言います。
手を差し伸べているのに、それを自ら拒んで滅びに向かう悲しい現実。だから涙を流しながら嘆きのことばを語られたのです。私たちはこのイエス様の愛の涙をしっかりと受け取りたいのです。 

43-44節で、主はエルサレムの滅びる姿を語っています。実際、この40年ほど後にエルサレムはローマ帝国と争い、都は廃墟となります。そして、44節の最後に「神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」とのことばが胸に刺さります。

 私たちも、この世の事で心が塞ぎ、しばしば神様と心の通う交わりを持たないでいるのではないでしょうか。名誉のこと、趣味のこと、暮らしのこと、あるいは罪のことで心が塞ぎ、主が目の前におられるのにその訪れがまるでないかのように生きてはいないでしょうか。

 あなたは神を知っていますか?イエス・キリストを知っていますか?と問われて、「はい、よく知っています」と答えられるでしょうか。知識としての話ではありません。個人的に人格的に知り合っているかという事です。心が通じ合っているかということです。

 少し前にラグビーが流行りましたね。ラグビーはチームを家族だと例えるそうです。パスは後ろにしか出せませんから、仲間がここに走りこんでくれるとかお互いに心が通じ合ってないと強くなれないそうです。こう走れば、ここに出してくれる。そういう心の通じ合い、信頼があって成り立つスポーツだそうですね。

 私たちもイエス様と同じチームメイトになりたいのです。形ばかり同じチームに属しているではなく、心を通わせながら同じ景色を見て歩みたいのです。イエス様と同じチームで神の良い働きのために一緒にスクラムを組んで歩みたい。そのようにして、一歩でも二歩でも、主イエス様が見ているものが少しでも見えるようになれたら、私たちはイエス様のお手伝いがもっとできるのではないでしょうか。


 今日神様はあなたに語られています。
 イエス・キリストが「あなたの主」となっていますか。「あなたの王」となっていますか。主イエス様のお心を理解して、イエス様の喜びを私の喜び、イエス様の悲しみは私の悲しみとしているでしょうか。
 イエス様は上手くいっているように見える外側など見ていません。あなたの魂の叫びを聞かれています。あなたの心が泣いているのを見ておられます。あなたの心と魂に本当の安らぎがあるか?主は心配しておられます。
 イエス様の涙にあるあなたへの愛を受け取ってください。
 そしてイエス様と心の通う交わりを持ってください。祈り求めるなら主は聖霊によって助け、イエス様の心を私たちに教えてくださいます。

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