東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記3章1-11節「良い信頼関係を持つ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/05/06

Ⅱサムエル記3章1-11節「良い信頼関係を持つ」

*** 5/6(水)祈祷会説教概略 ***

2-5節では、ダビデ王がヘブロンに滞在していた7年半の間に生まれた子どもたちのことが記されています。6人の男の子たちの名前が記されていますが、なんとそれぞれ母親が違うことがわかります。子孫を残すことが非常に重要だった当時の習慣においては、側室や妾がいることは珍しいことではありませんでした。しかし、こうしたダビデの性に対する奔放さゆえに、後に多くの悲劇が起こっている事は見落とせない事実です。事実、2節に出てくる長男アムノンは、3節に出て来る三男アブサロムに殺されるという大事件が後に起こります。1人の男性と1人の女性がお互いを大切にすることこそ、神様のみこころであり、そこに与えられた子どもたちにとっても一番の幸せであると教えられます。


 6節では、サウル家とダビデ家の戦いが続く中で、サウルの将軍であったアブネルがその勢力を増していたということが語られています。事実上の実権を握っていたアブネルは、もはや王と同等かそれ以上の地位にあったと言えるかも知れません。その象徴的な出来事として7節のことがあります。

7節 サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」 

 イシュ・ボシェテの父サウル王。その王の側室と関係を持つということは、アブネルが王と同等の地位にあることを誇示する行為だと思われても仕方がない事でした。それでイシュ・ボシェテは危機感を感じたのです。彼を強く責めました。

 ただし、これが事実だったのかどうか。ウワサやデマだったのか?その点がはっきりしません。しかしながら、ここからはっきり分かることは、お互いの間に「尊敬」や「信頼」がないということです。最初はあったけど失われたのか?それとも最初からなかったのか?  イシュ・ボシェテから責められてアブネルはどう反応したのでしょうか?

8節 アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。 

 アブネルは激怒して言いました。「私がユダの犬のかしらだとでも言うのか」と。ユダというのはダビデ王の部族のことです。つまり、アブネルはサウル王家のために精一杯仕えているのに、私が「ダビデ王の手先」だとでも言うのかと怒ったのです。
 アブネルは野心家であったのでしょうけれど、それでもサウル王家のためにという忠誠心もあったことでしょう。しかし、主君に信頼されない臣下は、もう何をしても無駄だと諦めてしまっても仕方ありませんよね。このような不信感によって、サウル王家は内部から崩壊していきます。

 アブネルは9-10節のところで、もはや自分はダビデ王に王位を譲ると言い始めます。
9 主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。10 それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」 自分の忠誠心を疑われたと感じたのでしょう。プライドが傷つけられ怒りにかられたアブネルは「主がダビデに誓われたとおりのこと」に自分も協力すると言い出しました。つまり、神様が誓われた通りにダビデが王位に就くことを自分は全面協力すると誓いを立てて言い放ったのです。

 初めから神様に従っているのならば、アブネルも神様の祝福の中に守られたのにと思います。自分の都合や感情に合わせて、急に「神様のみこころに従おう」と言い出す人の身勝手な姿です。

 ただ、私たちもそういう面が少なからずありますよね。ありがちなのは、自分の罪や問題に関しては聖書の「せ」の字も出さないにも関わらず、他人を裁くときには「神様の教えはこうだ!」と急に聖書に立ち返ることです。あるいは順風満帆な時には神様に心を向けず、苦しくなると途端に神様に祈り始める人もいます。私も該当する一人だなと思わされます。私たちは自分の都合次第で、神様を召使いのように呼び出すということを慎まなければなりませんね。神様にここに来させて利用するような姿勢ではなく、神様のところに私たちが出向いて行って、神様の良いご計画のために自分を差し出すという基本姿勢をお互いに忘れないようにしたいものです。

 それにしても神様のなさることは本当に不思議です。この時ダビデは何もしてません。それなのに、この二人が勝手に内輪もめをしてお互いに疑心暗鬼になり、結果としてダビデが王位に就くことが後押しされていくわけです。これを見る時に、人は小さなぁと感じます。どんなに人間の間で高い地位に立とうとも、神様のなさることに抗うことが誰にもできません。人と神との間に圧倒的な差を感じますよね・・・。罪人同士の愚かな「内輪もめ」さえも、神様はご自身のご計画のために用いることがおできになるのです。
 
 そして、ここでもう一つ思わされることがあります。それは、イシュ・ボシェテとアブネルの主従関係は「かわいそうな主従関係」だということです。信頼関係がありません。お互いのために自分を犠牲にしようという愛や思いやりもありません。ただ同じ利害のためだけに都合よく協力していた関係のように見えるのです。

11節によれば、「イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。」とあります。

 不健全ですよね。相手を思うならば、恐れを超えて互いに意見を語り合う必要があります。恐れのゆえに黙してしまうのは、正しいことでしょうか。沈黙するにも、私たちは愛のゆえに沈黙すべきなのであって、自己保身のためであるべきではないですね。責められた側のアブネルも、逆ギレするのではなく、自分の忠誠心は変わらないのだと主張すれば良かったはずです。

 イシュ・ボシェテが大切な部分では黙ってしまう故にアブネルは彼を信頼できず、暴走してしまったと言えるでしょう。アブネルを恐れ過ぎるがゆえに、イシュ・ボシェテは王としての権威を示すこともできませんでした。

家臣に信頼されない主君は不幸ですし、「どこまでもついて行きたい」と思える主君を持てない臣下もまた可哀そうです。

 私たちには最高の主君である神様がおられること。なんと嬉しいありがたいことでしょうか。いつでも親しく語りかけ、私たちを愛するゆえに十字架の死にまでも従われた方。そして、この方から決して裏切られることのない、見捨てられる不安がない関係です。これが土台にある人の強さは想像に難くないですよね?アブネルもイシュ・ボシェテもお互いにいつ裏切られるのか、捨てられるのか根底には「不安」「恐れ」があったのです。
 逆に言うと、まず神様との良い信頼関係を持てる人は、「安心」と「健全な恐れ」を持ていますので、すべての人間関係の豊かな土台を持てることになりますよね。 

 ご一緒にみことばに聴いて参りました。罪人の勝手な振る舞い、良い信頼関係がないゆえに自己崩壊に向かう姿に教えられました。ともすると私たちも同じような過ちに陥ります。ですから、まずは主なる神様との良い信頼関係を土台として持たせていただきましょう。一つでいいのです。一つ、見捨てられることのない安心な関係がそこにあるならば、私たちは安心して積極的に人と関わることができるようになるからです。

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