ヨハネ15章18-23節「他の人ではなく、あなたが!」
色々な部分で不自由や不便を感じながらの生活ではないかと思います。早く共に集まれる幸いな日々を主に祈り求めたいものです。
そのような生活の中で、様々な「違い」が生じています。
ある学生はオンラインでの授業がある。ある学生は一切そういうものがない。
ある人は在宅ワーク、ある人は普通に現場で働かざるを得ない。
ある自治体は様々な優遇措置がある、ある自治体はほとんど何もない。
こういった状況の中で「あっちはいいなぁ!」「あの人はなんで?」と比較してしまい、優劣をつけやすい状況が生まれているように思います。
「あの人はいいなぁ」「あの人たちはダメだなぁ」と見ているとき、私たちは一体どこを見ているのでしょうか?
すべての背後には愛と正義に満ちた主なる神さまがおられます。一部分だけを見て比べ合うことに力を注ぐのではなく、「私は今日どのようにイエス様と共に歩むのか」とそこに心を向けて歩みたいものです。
本日は、与えられたみことばを通して、よそ見してしまうのではなく、主イエス様に目を注いでついて行くことをともに教えられて参りましょう。
1. 新たな宣教の使命
本日のみことばですが、死からよみがえられたイエス様と弟子ペテロの対話の場面です。先週の続きの場面になっています。イエス様は、挫折したペテロがもう一度立ち上がって、宣教の使命に献身していけるように、これからの道を示されました。
18-19節前半
18節 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19節 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。
これはやがて彼が自由を奪われ、やがて殉教することを示すおことばでした。
19節にあるように、彼は最後、迫害の中でその生涯を終えます。伝承によれば、ローマ皇帝ネロの迫害の中で、「逆さ十字架」にて生涯を閉じたと伝えられています。
「逆さ」というのは実は彼が望んだことで、イエス様と同じでは恐れ多いということがあったとされます。伝承ですので、真偽は分かりませんが、復活後のイエス様と出会って変えられ、命がけで宣教していった事は確かであると言えます。それは、もはや自分自身のためではなく、「キリストのために生きてキリストのために死ぬ」ということでした。
人は必ず死を迎えますから、自分が信じるコトのために悔いなく感謝して死を迎えるとするならば、それは尊い人生だと言えるのではないでしょうか。そしてペテロを初め、多くの弟子たちが逃げることなく命をかけて宣教してくれたことのゆえに、今や世界中にキリスト信仰が広がっていることを感謝したいですよね。
イエス様はペテロにこれらのことを伝えた後、19節の最後でこう語られました。
こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
今度こそ、どこまでもイエス様について行くということです。同伴者となってくださる主イエス様と親しく歩み、主よ、今日はどこに行きましょうか?明日はどうしましょうかと共に歩むことです。
2.よそ見してしまったペテロ
さぁ、もうペテロは何も迷わず!イエス様、あなたについて行きます!となったのでしょうか? いいえ。 ペテロにはどうしても気になることがありました。彼の弱さがまだここにあることが分かります。20節で彼はこんな風に反応しているのです。
20節 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21節 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
どうして振り向いちゃうかな?とツッコミたくなります。
せっかくイエス様と良い再会をし、「さぁ、あなたはわたしに従いなさい」という所で、「はい、今度こそついて行かせてください」と言えば良かったものを。
残念ながら彼は振り向いて別の人を見てしまったのです。彼が向いた先は、同じように主イエス様にお仕えしている弟子ヨハネでした。
ヨハネは、ここで自分自身のことを指して「イエスが愛された弟子」と表現し、最後の晩餐の時にはイエスのすぐ隣で胸元に寄りかかっていたことも語っています。
最後の晩餐の時、ペテロは末席に座っており、ヨハネは給仕係としてイエス様の右隣に座っていました。このヨハネもまたイエス様の愛弟子の一人で、リーダー的存在だった一人です。
ペテロはもしかしたら、ヨハネに対して劣等感を持っていたのかも知れませんね。
先週少しお話したのですが、私たちには比べてしまいやすい立場の人というのがどうしてもいます。立場や年代や環境が似ている人とは比べがちですね。ペテロとヨハネはどちらもイエス様の内弟子であり、いつも一緒に行動していた二人でありました。お互いに、いつも気になり意識してしまう存在だったようです。
少しその様子がわかる個所を同じヨハネの福音書から味わってみましょう。
20:3-4です。これはイエス様が復活したというニュースがあり、二人が墓に向かって走った場面です。
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子(ヨハネだと考えられる)は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
この福音書の著者がヨハネですので、自分の名前をあえて出さずに「もう一人の弟子」と記しています。今日のみことばでも「主が愛された弟子」という表現でした。
この時、著者ヨハネはペテロより自分の方が足が速かったので先に墓に着いたと語っているわけです。
「足が速いので先に着いた」これはわざわざ書かなくても良いんじゃないかと思ってしまいますが、お互いに意識していたという事をさりげなく表現しているのかも知れません。
ですから、ペテロは他の人のことはもうクリアしたとしても・・・このヨハネのことは最後まで意識してしまった。友でありライバルのような存在だったのかも知れませんね。私たちにも、そのように意識してしまう人の存在があるかも知れません。
大事なことを話しているのに他の人の方を気にしてしまうペテロに、イエス様はどのように語られたのでしょうか?
22節 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
これが主の答えです。
イエス様は当然、すべての弟子を愛しています。そして当然、弟子だけでなく、すべての罪人を愛しているからこそ十字架におかかりになりました。ですから、イエス様がヨハネの長生きを願うとしても、それは当然であり、またペテロが気にすべきことではありませんでした。
それでもペテロは、自分はやがて逮捕され殉教するという話を聞いて、じゃあ、あのヨハネ、彼はどのような半生をこれから送るんだ?と気になったのでしょう。
でもイエス様は、「他の人のことは関係ない。そこじゃないんだよ。他の人がどうこうではなく、わたしの前にいるあなたがわたしに従うこと。これがわたしの願いです」とおっしゃったのです。
実はこの22節における強調点を文法的に分析すると「あなたは」ということばに強調点があります。後ろを振り向いて、あの人はどうなのですか?とヨハネばかりを見てしまったペテロに、イエス様はご自分の方を向けさせ、他の人ではなく「あなたが!」わたしについて来なさいと言われたのです。
3. 私たちの応答
私たちはすぐに優劣を競ってしまいます。本当に愚かだと分かっていても、比較してしまい劣等感に陥り、あるは優越感に陥ります。あるいは比較によってさばき合うことが生まれます。
なぜか自分ばかりが大変な試練に見舞われているように感じます。
なぜ私ばかり?あの人はなぜ「のほほん」と生きているの?
私の方が罪深く未熟だからですか?だから試練が多いのですか?
あの人はどうなのですか?あの人も罪人ではないのですか?と。
しかし、それぞれに与えられている賜物が違います。役割が違います。用いられ方が違います。
イエス様から与えられた「召し」は人それぞれだと言えます。
もちろんすべての人が、神の良い働きの一部を担うことに違いはありません。けれども、その中で果たす役割はそれぞれ違っていていいし、優劣をつけるものではないのです。
ペテロは宣教者として最前線で歩み続け、最後の彼の大切な役割はキリストのために死ぬことでありました。彼の生涯は波乱万丈で大きなインパクトを残したことでしょう。多くのキリスト者を励まし心を燃えさせる生涯だったことでしょう。
しかしヨハネの使命は、長生きして、そのゆえに彼が見て来たもの、聴いてきたもの、その手で触れてきたものを整理して記録に残すことにありました。ペテロほどの波乱万丈な生涯ではなかったかも知れません。しかし、彼の残した福音書や手紙はキリストの姿をイキイキと描き、またその愛の深さを教えられるものでした。
他の人がどうであるかではなく、イエス様は「あなたは、わたしについて来なさい」と言われるのです。よそ見をして、あの人はどうなのか?あそこはどうなのか?そこにあなたの心が分かれてしまうのならば、なんともったいないことでしょうか。
主イエス様は今日、他の人ではなく、あなたを招いておられます。