東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第Ⅱサムエル記2章8節~3章1節「神に従うのか、自分の心に従うのか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/04/29

第Ⅱサムエル記2章8節~3章1節「神に従うのか、自分の心に従うのか」

*** 4/29(水)祈祷会説教概略 ***

自粛要請が続いており、今年のG.W.は皆さんあまりお出かけもできず、少し残念ですね。

けれども、普段はできないようなことが出来る機会でもあります。みことばに親しみ、賛美の動画を味わったり、静まって祈る時間を大切にしてはどうでしょうか。

教育関係者はこの機会に9月の入学・開始という提案も出ていますね。簡単ではないですが、世界基準が9月ということや、入試の時期がインフルエンザ等が流行る時期であることを考えると、可能性はありなのかなと思います。今回のようなコロナ騒動が起こる可能性が高いのはやはり冬の季節でしょう。

今日も祈りと賛美とみことばの時間をともに持ちましょう。


昨日、教会に一人の男の子が来まして、とにかく退屈だということでした。午前10時頃に来て・・・じゃあお昼までということで、1人で多目的室で遊んでもらおうとしました。

でも、1人でつまらないものですから、密集を避けたいのですが、すぐ牧師室に入りびたりに来ました(笑)。 

自分のすべきことが遅れる・・・私の頭はすぐそういう効率を考えます。

でも、ちょうどLINEメッセージ配信でも、このような小さな子を愛することが主のみこころであると自分で書いたばかりでした。

マスクしながらの対応ですが、色々とお話ができました。

なんと彼は以前にプレゼントした聖書漫画冊子をよく読んでくれていて、イエス様の十字架の話もすることができました。

不思議な神様の導きを感じます。蒔いてきた種は無駄になっておらず、少しずつ地面の中で成長しているのだと励まされました。やがてその芽が地面から出てくる日が楽しみでなりません。


 さて、本日のみことばはⅡサムエル記2章になります。

イスラエルの最初の王サウルが戦死し、いよいよあのダビデが王になっていくプロセスです。しかし、ダビデはまだユダの部族の中で王として認められたに過ぎず、イスラエル全体の王ではありませんでした。 

特にサウルの将軍アブネルは、サウルの死後、その子イシュ・ボシェテを次の王として擁立して、権力を握ろうとしました。8-9節にこう記されています。

8 一方、サウルの軍の長であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテを連れてマハナイムに行き、9 彼をギルアデ、アッシュル人、およびイズレエル、そしてエフライムとベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。

ここでわかる通り、アブネルの企みによって完全にダビデと対立の構図が作られてしまいました。これにより王権を巡る内乱に発展していきます。

この対立構造の背後にあるものは、神のみこころに従うのか、自分の心に従うのかという対立関係でもあります。

本来イスラエルの王は神様ご自身でした。それゆえ長い間王という存在はなく、預言者が神様のお心を人々に示して導くというスタイルでした。

しかし、イスラエルの人々は他の国のように王が欲しい!と求め、神様がその弱さに寄り添ってくださるかたちになったのです。

しかしそれは、自分たちの不安を自分たちの方法で払拭したいという態度です。

神様の願いよりも、自分の心の赴くままです。

そして今度は、神様がイスラエルの王として選びんだダビデを受け入れないという動きが当たり前に起こったのです。ダビデは神様によって選ばれ、油注がれた人物であることは誰もが知っている事実でした。それなのにその決定に従わなかったのです。

それは結局はダビデに従わないのではなく、ダビデを選んだ主の導きに従わないという事でした。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。

 人は当然ながら、自分なりの人生の道を思い巡らします。こうであって欲しい、こういう人生がいいと。しかし、願う通りに幸せに歩めているでしょうか?

むしろ「こんなはずではなかった」ということの連続ではないでしょうか。少なくとも私はそうです。なぜ、思い通りにならないのでしょうか?

私たち誰もが欠けだらけの未熟な者だからです。罪の性質があるからです。先が見えない、すぐに迷子になり大けがをしてしまうような者です。

ですから「自分の思い通りに生きたい」としがみついている限り、私たちはずっと不安定な毎日を送ることになります。自分がアテにならないからです。

 しかし、神に従う人はどうでしょうか?

 実のところダビデは、時に神様の前に罪を犯し失敗をしながらも、そのたびに主の前にへりくだって、悔い改めて神様と親しく歩みました。

彼は主が立てた王サウルをいつも尊んで仕えてきました。

ダビデは感情的に言ったらサウルを好きとは到底言えなかったでしょう(サウルはダビデに嫉妬し、彼の命を執拗に狙いました)。むしろ憎らしく思うことさえあったはずです。

それでもダビデがサウルを尊重したのは、ただ一点、彼が主によって油注がれた人であったからです。

アブネルとは対照的ですよね(アブネルは主が選んだダビデに対抗して、自分を王のようにしようと画策した)。

しかし、だからこそこのような反対勢力があろうとも、最終的にダビデは王位を確立していくのです。

それはダビデの政治力やカリスマ性のゆえではありません。

ただ、神様がその道を確かなものにされたからです(ダビデが主に従ったゆえ)。

 神様のみこころの前での謙遜さ。

これがアブネルやそれに従う民において欠けていたのではないでしょうか。

この対立によって不要な戦争が起こります。そこで命を失う人が起こります。権力を持つ者が神を恐れない行動に出る時、周囲の人々もまた巻き込まれていくのです。非常に残念なことです。

だからこそリーダーとして立つ者はなおのこと、神を恐れることが大切だと教えられます。自分の罪深い人格、未熟な人格がどれだけ人を傷つけてしまうことでしょうか。自分自身がアテにならないのです。 


 こうして、14節以下のところではアブネル軍側とダビデの将軍ヨアブ軍の決闘の様子が語られていきます。

14節 アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出し、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「よし、そうしよう。」 15節 ベニヤミンの側、すなわちサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。 

この闘技、いわゆる決闘のようなものと思いますが、お互いに剣で刺し合ったことが記されています。どちらも若い有能な戦士がケガをし、あるいは命を失ったことでしょう。決めた人たちは戦わず、若い者が犠牲になっています。いつでも犠牲になるのは下っ端・・・リーダーの責任の重さをを感じますね。

 この闘技の後、アブネルは離脱しますが、それをダビデ軍、ヨアブの兄弟アサエルが追いかけます。アブネルを打とうとして追うのですが、彼は返り討ちに遭い絶命してしまうのです。

 この出来事は、兄弟ヨアブの復讐心を生み、アブネルは後に暗殺され、ヨアブとその家族も復讐に囚われ罪を犯した結果を自分たちの身に負うことになります。

結局神様のみこころから離れて、人が争う時には何も良いものが生まれません。

「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)との主イエス様のおことばにある通りです。  



そして3章1節にはこうあります。

サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。 

長く戦いが続いた。それは傷つく者が多く出たということに他なりません。神様が立てたという一点で一致すれば、この無駄な犠牲は起こらなかったことでしょう。そして、人が神に反抗し抵抗して、事態は変わったのでしょうか?

 ここにあるように、神様のご計画通りに進んでいます。主が次の王として定めたダビデ側はますます強く、そしてアブネルに従っているサウル家はますます衰えていきました。


神様について行くのか、一時の欲に引っ張られ人について行くのか。

その違いが明確になっています。 

ただ、私たちはそれほど器用に生きることはできません。

頭では正しいと分かっていることができないのが私たちです。
パウロはローマ書7章で、自分の罪の性質をそのように説明しています。


ダビデも何度も失敗しています。

王になる時も、このような争いを通らざるを得ませんでしたし、王になってからも自分が蒔いた種によって、息子たちが互いに争います(多くの妻を持ち多くの子を得、権力闘争の原因を作り、彼の優柔不断で息子を正しく叱れない弱さが、争いを激化させます)。


それでも彼はその試練を通して、主と共に歩むことを学び続けました。

結局私たちもそこに立つしかないのでだと気づきます。

詩篇51:12 あなたの救いの喜びを私に戻し 仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。 

この詩篇51篇は、後にダビデが自分の兵士の妻を寝取り、その兵士を戦死させて奪うという大きな罪を犯し、その過ちを示された時のものです。

この51篇は9節までのところでなんと12回もダビデが自分の「罪、咎、悪」について言及しています。

それだけ彼は自分の罪深さを意識させられ、後悔し苦しんだのです。ある意味誰よりも自分の罪深さと向き合った人と言えるのではないでしょうか。


でも、その分神様に必死にすがり祈り求め、そしてこの12節のように主に求めています。

私たちも自分の道を思い巡らす歩みをやめて、主にこう祈りたいものです。

「あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください」と。



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