*** 4/26(日)礼拝メッセージ概略 ***
イースター礼拝から早くも2週間が経ちました。死から復活したイエス様は40日間弟子たちとともに過ごされ、弟子たちを励まし、特に宣教の使命を与えられました。
その中でもイエス様を三度も否定してしまったペテロにとって、復活された主との出会いは無くてはならない、非常に大切なものでした。
そして、その中で与えられたイエス様からの問いかけがありました。
「あなたはわたしを愛していますか」という問いです。これは私たちにとっても、いや、すべての人にとって大切なイエス様からの問いだと思います。
ところで、このことばは、私たち自身はどのような時に用いるでしょうか?
「私を愛してる?」「僕を愛してる?」使ったことはあるでしょうか。恥ずかしくて言えない方もいらっしゃるでしょう。
そして、もし用いるなら、おそらく自分への愛を確かめたい時に使うのではないでしょうか。相手の気持ちを自分が知りたい時、相手の愛が本当にあるのかどうかを自分が確めたい時に使いますよね。もっと言うならば「愛してる」と言って欲しくて「自分のために」使うのだろうと思います。
ところが、イエス様はそうではありませんでした。
ご自分のためにこの問いをなさったのではありませんでした。
では何のために??
それは「愛されるため」ではなく「愛するゆえ」に用いたことばでした。
イエス様を見捨ててしまったペテロを立ち直らせるためでした。
過去の失敗に囚われ自分を責めていたペテロを立ち上がらせようとなさる、イエス様の深いご愛がそこにあったのです。
本日、このみことばを通して、私たちが主の愛をさらに深く知ること、そしてその愛にどう応えていくのか。ともに教えられ問われて参りましょう。
1.この人たちが愛する以上に?
十字架の死から復活したイエス様は40日間弟子たちと過ごされました。
その中でも、気持ちが晴れない弟子が少なくとも1人いました。
ペテロです。
イエス様のために牢屋でも死でもついて行くと言っていたのに、イエス様のことを3度否定してしまったからです。イエス様と同じように逮捕されたり攻撃されたりするのを恐れて、誓って言うが自分はあの人とは全く関係ないと言ってしまいました。お前の主への愛は口先だけだと言われても仕方がないと自分を責めていたことでしょう。
そんな弱さを抱える彼に復活後のイエス様が問いかけ、語りかけてくださいました。
15節 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
以前のペテロであったならば迷わずにこう答えたのではないでしょうか?
「もちろんです、主よ!私は他のどの弟子よりもあなたを愛しているに決まっているじゃないですか!」
私は以前、イエス様がなぜこんな質問をなさるのか?よくわからなかったのですね。
なぜ「他の人と比べてそれ以上に愛しているか」と聞く必要があったのだろうか?と疑問でした。
しかし、ペテロの答えを見て、そしてこの場面を思い巡らす中で気づかされました。
最初に皆さんにお話ししたように、イエス様は自分の満足のための質問は一切なさってないのですよね。
ペテロのためだけを思ってこういう尋ね方をしているわけです。
イエス様は他の人と比べる考えなどまるで持ち合わせていない。
ですから、ペテロを愛するゆえの問いなのです。
ではどんな意図が?
それはペテロが以前の自分とどう変えられたのか、その成長を引き出し、ペテロ自身にもそのことに気づかせる問いかけだったのではないか?と思うのです。
いつでも私たちが比べる相手は、他の人々ではなく「昨日の自分、過去の自分」です。
ペテロは過去にこう発言していました。
マタイ26:33「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」
そして、この発言に対するイエス様の答えは次節にありますが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」です。
以前のペテロは他の人と自分を比べ、自分は一番信仰に厚く、イエス様を一番愛していると主張していました。
そこにあった一番の罪は、他の人を見下し自分を正しいとする「高慢」の罪です。
しかし、彼の人生最大の汚点とも思われる3度も主を否定するという大事件が起こりました。愛するイエス様にどこまでもついて行くのが自分だと思っていたのに、自分の身が危うくなるといとも簡単にイエス様を否定してしまう自分を発見したのです。
でも、イエス様は彼を責めるどころか、彼が立ち直り今まで以上に用いられることを願っていました。
そしてイエス様のこの質問へのペテロの答えを見る時に、ペテロがもはや以前のようではないことに気づくのです。
彼は失敗したことを通して自分の弱さ、未熟さを学んだのです。ペテロの答えはこうでした。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
彼はもう自分が一番愛してるとは答えません。
「あの人たち以上に」とは答えませんでした。
むしろこの答えの中には、イエス様に対して「本当に申し訳なかった」という思いと、「こんな罪深い私ですが・・・それでもイエス様を愛したいのです」という思いが伝わってきます。
「あの人たち以上に」と答えられないペテロは、一見弱くなったように見えるかも知れません。自信を失ったかに見えるかも知れません。
けれど、今までよりはるかに主の愛とあわれみが透けて見える器に変えられたのではないでしょうか。
2.ペテロの応答
イエス様は次の節で再びペテロに尋ねています。16節です。
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
先ほどの15節と違い、「あの人たち以上に」という言い回しがなくなりました。
その質問はもう不要になりました。
しかし、変わらず尋ねていることは「わたしを愛していますか」ということです。
1回目、2回目ともイエス様のことばには「アガパオー」という「無償の愛」を現すことばが用いられています。
一方、ペテロは2回とも同じ「アガパオー」では応えず「フィレオー」という友情、好意を示すことばで表現しています。
どちらも愛と訳せますが、少し意味の違いがあります。イエス様の愛の深さを知らされ、また自分の愛のなさを気づかされたペテロはこう答えるのが精いっぱいだったのでしょう。
(※実際のイエス様とペテロのやり取りは、アラム語であったと考えられています。アラム語にはギリシャ語ほど「愛」を表すことばは多くないと言われます。しかし、私たちも愛を伝える際に、「愛しています」という一語にとらわれてはいません。「あなたと一緒に見る月はとても綺麗です」という表現でも愛を伝えることができます。ですから、この福音書の著者ヨハネはイエス様とペテロのやり取りを直接見ていたと考えられますから、ギリシャ語で表現する際に、そのやり取りを最も適切に伝える配慮をもって記したことでしょう。)
そして、イエス様はなんと3度、同じ質問をされます。17節にこうあります。
イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。
ただし、この3度目だけはイエス様のことばも「フィレオー」ということばに変化しています。無条件の愛を現す「アガパオー」ではなく友人への愛を示す「フィレオー」ということばに変わっているのです。
イエス様がペテロの今立っているところまで降りてきて、寄り添ってくださっている姿ではないでしょうか。
ペテロはこの三度目のイエス様の問いに、心を痛めて応じました。
本当ならばイエス様のおっしゃったのと同じことばで、「愛しています!」と胸を張って答えたかったと思います。でも、今のペテロには、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛している(フィレオー)ことを知っておられます。」と答えるのが精いっぱいでした。
それでも、イエス様はそれを理解してくださり、それで良しとされたのです。
ペテロの精一杯の応答として受け入れてくださいました。
しかも、イエス様は合計3度ペテロに問われましたよね?
3度イエス様を否定したペテロに、3度「愛します」と告白させてくださったのもペテロのためです。
いつまでも自分の過去の失敗に支配されず、主を愛することにこそ心を注げるようにと前を向かせてくださるためです。
主イエス様の愛はどこまで深いのでしょうか。この愛を知る者とならせていただきましょう。
そして私たち自身もペテロと同じように問われています。
ペテロのうちに見える弱さは私たち自身の内にも見られるものではないでしょうか。
ペテロのようにことばと行いとが一致しない不誠実な面が私たちの内にもあるかも知れません。
ペテロのように他の人と比べてばかりいて主を見つめていない私たちかも知れません。
私たちは自分と全く違う立場の人とは比べなくて済みます。プロの方と自分を比べて妬むことはあまりないでしょう。ずっと年配の経験ある方と比べたりはしないでしょう。
しかし、自分と年齢や立場が近い人とはついつい比べてしまいがちです。弟子たちもお互いに比べ合って、誰が一番イエス様に気に入られているか?信仰が厚いか?リーダーシップがあるかと、比べつつけてしまいました。
あるいは、ペテロのように人の目を恐れて保身に走り、イエス様のお名前を出すことを恥じたり、ウソをつくことはないでしょうか。
しばしばペテロのように、自分しか見えなくなり、他の人への愛や配慮や礼儀を欠く態度を取ってしまうことはないでしょうか。
あるいは、ペテロのように過去の失敗を悔やみ自分を責め続けてはいないでしょうか。
私たちも自らの弱さ、愚かさ、罪深さを真摯に受け止める者とならせていただきましょう。
そのような者のために十字架に死に、よみがえり、私たちのために「あなたはわたしを愛しますか」と問いかけてくださる主の声です。
あなたを愛するゆえの問いかけです。それに私たちも応えて参りたいのです。
3.わたしの羊を飼いなさい
イエス様はペテロの応答の後に、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられました。
やはりこれも3度言われています。
イエス様を求める者、信じる者たちをしっかり守り養い、育てなさいと言うことです。
まさに牧者としての働きに任じられました。
この世の価値観では、大きな過ちを犯した者、大きな失敗や裏切りを働いた者にこのような要職を任せてくれません。
しかし神の国は違います。
悔い改めてより謙虚になった者を主は喜んで用いてくださいます。神様の赦しとあわれみ深さのゆえに、この世では目を背けられ、批判され、取るに足りないと思われる者をさえ主は豊かに用いてくださるのです。
涙して悔い改める者を主は尊んでくださるのです。
そもそも神様が聖書を通して人に「罪」を示し、「あなたがたは皆罪人である」と宣言なさるのは何のためでしょうか? 私たちが罪の重さに絶望し、二度と立ち上がれない状態にさせることでしょうか?
そうではありません。 逆ですよね?
私たちが自分の弱さ・愚かさに気づき、自らの罪深さに涙しながら、しかしそこから悔い改めて、立ち上がり、今まで以上に豊かに主のために用いられる器とするためです。
イエス様が十字架で死なれたのは、私たちが自分の罪の重さに打ちひしがれるためではなく、私たちが罪赦されて、その恵みに気づかされ、この恵みをもって世界に祝福をもたらす者となっていくためなのです。
きっとペテロは今まで以上に、人を思いやる人になったと思います。自分を高くするのではなく、自分を低くして他の人を尊べる者になったのではないでしょうか。
「わたしを愛していますか」と主はあなたに問われます。
あなた自身のために主が問いかけておられます。
あなたはこの問いにどう答えますか。
立派に胸を張って答えられることが必ずしも正解ではありません。自分の不信仰さ、不忠実さを思う時に、そう答えられない自身の姿を思い出します。
でも、主はすべてをご存じの上で問われます。
精一杯、あなたの愛を主にお示して、主が愛されているすべての人を愛する歩みをしていきましょう。