東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書61章1-11節 「良き知らせがここにある」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/05/17

イザヤ書61章1-11節 「良き知らせがここにある」

5/17(日)主日礼拝

*** 説教概略 ***

イザヤ書61章1-11節 「良き知らせがここにある」



「どうしても伝えたい何か」を持っていることは、本当に幸せなことですし、魅力的ですよね。外見が良くても、伝えたい何か、中身を持っていないと魅力があるとは言えません。

 しかし、キリストを信じる者にはそれがあるのです。
 周りで苦しむ人々、嘆く人々に、ここにあなたを励まし、いのちをもたらす「良き知らせ」がありますよ!と言うことができるのです。自分には人を励ませないと思われるかも知れません。自分のことばでは難しい事も多いでしょう。けれど、キリストにある救いの知らせを持つならば、人々を慰め励まし立ち直らせる知らせを持っているのです。

 本日は「その良き知らせ」について、旧約のイザヤ書から教えられます。
 そこには救い主についての預言が多く記され、「救いと回復のメッセージ」が豊かに語られています。その中でもこの61章は希望の光に満ちていて、とても慰められ、励まされのです。

 自分がちょっと落ち込んでいるな、疲れているな、渇いているなと感じる方は、今がチャンスです。満たされている時よりも、少し落ち込み、渇いている方が神様の慰めを深く受けられるチャンスです。落ち込んでいる方は、ああチャンスなんだ!と、耳を傾けていたただけたらと思います。


1 神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2 主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。 

 この書から700年以上がたち、イエス様が生まれ成長されて後のことです。イエス様はいつものように会堂に行くと、イザヤ書の朗読の務めを与えられました。この事はルカの福音書4章16節以下に記されています。

 イエス様はイザヤ書を渡され、人々の前で朗読をいたしました。ルカの福音書を読むと、イザヤ書61章1-2節のみことばに、ご自分で目を留めて選んで朗読されたことが分かります。朗読後、さらにイエス様はこう言われました。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ4:21) 

どういう意味でしょう?

 このイザヤ書61章1節の最初に「神である主の霊がわたしの上にある。」と始まっていますよね。イエス様は「ここにあるわたしと書かれているこの人こそ、わたし自身なのだ」と言われたのです。同じ1節の中に「主がわたしに油を注ぎ」とありますが、実にこの「油注がれた者」をギシリャ語に訳すと「キリスト」なのです。
 ルカの福音書4章の場面では、「ここにある救いの約束が実現する時ですよ」とイエス様は説き明かされたのです。

 本日のみことばの1-2節には、イエス様が遣わされた目的が明示されています。
 貧しい中で苦しむ者に良い知らせを!心の傷ついた者には癒しを!何かに捕らわれている者には解放を!囚人には釈放を!

 私たちはしばしば、なんと多くのものに囚われていることでしょうか。自由とは程遠い様々な奴隷に自らなっていることがあります。

 人の評価の奴隷になってしまう自分がいます。自分で決めた「こうあるべき」といった枠組みの奴隷となっている場合があります。お酒やタバコ、スマホ、ギャンブル、ゲーム。様々な依存症があり、それらに囚われているケースも少なくありません。怒り、憎しみ、悲しみといった感情の奴隷になっている場合もあります。

 主はこのような私たちを縛る鎖を砕き、そこから解放してくださるお方です。

 2節の冒頭で、「主の恵みの年」のすぐ後に「神の復讐の日」が続くのは不思議な感じがするかも知れません。全く反対のことが言われているような気がします。

 けれども、聖書では頻繁に「恵みと真実」「愛と正義」等はセットで語られています。

 優しく寛大なだけでも人を救えず、厳しくまっすぐな正義だけでも人を倒れさせることを語っています。悪い人が得をする世である限り、恵み豊かな世界だと言えないでしょう。悪にはそれを罰する正義があるからこそ、人は悪から立ち返り悔い改めることもできます。3-4節ではさらにこう続きます。 

3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。4 彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。 

 主キリストにある者はなんと恵まれることでしょうか。嘆き悲しみが喜びに変えられるのだと約束されています。憂いの心が賛美に変えていただけます。

 「義の樫の木」とありますが、樫の木と言えばどっしりとして頑丈なイメージがありますよね。いつも不安定でフラフラ揺れ動いてしまう弱い人も、神様の義の柱、義の土台の上に堅く立って、揺り動かされることなく歩む者としていただけるという恵みです。

 私はイエス様を心に信じて歩むようになって感じたことは、自分の中にぶれることのない確かな土台ができたという事でした。それでまでの私は、感情で一喜一憂する人間でした。人の意見にすごく影響され、自分らしさも分からなくなっていました。うまくいった日は調子に乗り、失敗した日にはウジウジと後悔しました。でも、キリストを信じてから本当に変えられたなぁと実感がありました。

 4節では廃墟は建て直され、復興され一新されとあります。これは直接的にはイザヤ書よりも後に時代に起こるバビロン捕囚からの復興のことを語っています。しかし、しばしばこの「復興」というものは、私たち自身の人生のやり直し、信仰の復興を励ますメッセージを暗に含んでいるのです。私たち自身を建物に例えて考えてみると、勇気づけられますね。

 Ⅱコリント5:17にもこうあります。「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。」 

 キリストと出会うならば、古い自分は過ぎ去り、バージョンアップされ新しくされるのです。 先日、日本福音自由教会の会長さんがコンピューターウイルスの話を少し書いておられました。これらのウイルスは全く悪いだけで意味をなさないか?と言うとそんなこともないわけです。これによって今使っているWindows等のOSの弱点を知る機会になります。それで、その改善を積み重ねてアップデート、バージョンアップをします。今回、コロナウイルスのことは本当に悲惨で大変でありますが、この出来事の中で悪いものしかないのか?と言うと必ずしもそうではないと気づきます。

 教会としても初めてのインターネット配信は確かに大変でしたが、教会として新しいオプションが増えたなとも思います。この経験を生かして、教会のPR動画を作成して、ホームページでいつでも見られるようにするというアイディアもあるなと思いました。

 さらに、10節前半ではこうあります。10 私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。 「主にあって大いに楽しみ喜ぶ」。時々、クリスチャンになることは、非常に真面目になって、楽しみや喜びから遠ざかるようなイメージを勝手に持つことがあります。

 しかし、聖書には「楽しむ」「喜ぶ」ということばがなんと多く語られていることでしょうか。

 ただ、それらのことばは「主(神)にあって」ということばで修飾されていることを忘れてはいけません。

 神様を信じる時、今まで以上にこの世界にあるあらゆる良きものを心から楽しみ喜べるようになる。それは、キリストを信じた者への神様からのプレゼントなのですね。


 最後の11節に、地から芽が出るという例えが登場します。
11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が、正義と賛美をすべての国々の前に芽生えさせるからだ。

 まだ自粛になる前の3月上旬に、妻のお父さんと次男と私とで少し千葉の海の近くを散歩しました。その時にその義理の父が「つくし」を発見しました。おそらく私と息子だけで歩ていたのなら見つけられなかったと思います。なぜなら、探す気すらなかったからです。義理の父がそれらを意識して探しつつ歩いておられたから見つけられたのです。

 存在しないのではなく、私たちが見ようとしないと見つからないという事があります

 神様がすでに芽生えさせてくださる「正義、賛美」、「希望」も「恵み」も、見ようとしない者には見えません。神様は今も既に新しい芽生えをくださっているのにです。

 正義なんてどこにあるんだ?暗闇の世界だ!賛美どころじゃない!忙しいんだ!必死なんだ!そう嘆いているだけの人には見えないままです。

 苦しい中でも、神様を第一に求めて、その語り掛けに耳を澄ますらば、その示しに目をお凝らすならば、神様は実に豊かな恵みと希望とをそこに芽生えさせてくださっている。そのことに気づくのです。
 
私たちの周りは最悪なことばかりでしょうか?恵みはありませんか?希望はないでしょうか? 

 私たちには「この良き知らせ」が今ここにあります。

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