東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 4章1~12節「主を知ること」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/05/20

Ⅱサムエル記 4章1~12節「主を知ること」

*** 5/20(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記41節~12節主を知ること

1節 サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。 

 これまでサウル陣営を導いてきた主役は、王として立てられたイシュ・ボシェテではなく、将軍アブネルでした。そのアブネルが死んでしまったという知らせは、ここにあるようにイシュ・ボシェテの気力を完全にくじいてしまいました。心が折れたわけです。同じように全イスラエルもおじ惑ったとあり、非常に動揺してしまったようですね。それぐらいアブネルという人物のリーダーシップが強かったということが言えると思います。そして、その出来事は何を現しているのでしょうか?
 アブネル一人がいなくなっただけで気力を失い、全体が動揺する。それは神様に対する信仰ではなく、アブネルへの依存であったと言うことができると思うのです。神様を第一にして信頼していれば、ここまでブレることはないですよね。神ではなく人に依存してしまった「弱さ」「脆さ」が如実に現れています。
 主イエス様も弟子たちが「目に見える人間としてのイエス様に」依存することがないように配慮されていました。あるいは勝手なイエス様のイメージに失望しないように、配慮されていました。例えば、ヨハネ14:1では、こんなことをおっしゃっています。「あなたがたは心を騒がせてはいけません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。
 「わたしが世を去る時は近づいています。でも、心を騒がせずただ神を信じていなさい。わたしを信じていなさい」と励ましておられました。
 必ずいつかは死を迎える、有限な存在である人に依存しすぎる時、私たちは一見強いようでいて、実に非常にもろさを内に抱えてしまうのです。しばしば、牧師に依存してしまう。あるいは、熱心でリーダーシップのある信徒に依存してしまう。そういう課題が教会で起こります。また、職場や学校、あるいは家庭でもそうかも知れませんね。
 でも人間は、どんなに立派で尊敬されようとも「罪ある不完全な存在」に過ぎず、神様の代わりには決してなりえないのです。イシュ・ボシェテやイスラエルの民は、あまりにもアブネルに依存しすぎていました。彼には王であるイシュ・ボシェテでさえも逆らえなかったのですから、もはや偶像化していたとさえ言えるかも知れません。

 そして、ここから一気にイシュ・ボシェテ陣営は崩壊していきます。2節に、彼の配下として略奪隊二人の隊長バアナとレカブという人物がいました。実はこの二人が、平然と自分の主君を裏切るわけなんです。5-7節のところを見ていただくと分かります。彼らは主君のイシュ・ボシェテが昼寝をしている間にその家に入り、寝込みを襲いイシュ・ボシェテを殺してしまうのです。彼らが考えたことは、王の首をとってダビデ陣営に寝返れば、自分たちはダビデに褒美をもらえたり、取り立ててもらえるのではないかということでしょう。8節で彼らはダビデの元を訪れてこう言っています。

8節  彼らはイシュ・ボシェテの首をヘブロンのダビデのもとに持って来て、王に言った。「ご覧ください。これは、あなたのいのちを狙っていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。主は今日、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」 

 とても醜い、醜悪な裏切り行為です。彼らはこんな事をしながら、ダビデ王が喜んでくれるに違いないと思っています。さらには「(ヤハウェ)は今日、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです」と「主(ヤハウェ)の御名」を出してまで言っています。まるで自分たちが神の命を受けて、ダビデ王のために、神のみこころの代理者としてサウルの子孫を殺したのだと言わんばかりです。
 
 むしろ、彼らはイスラエルにいながら、実にほんの1ミリも主を知らない者たちだと言われても仕方がないですよね。神様のみこころ、願っておられることをわかっていないのです。そしてダビデの反応がどういうものかを知る時に、それがもっとはっきりします。
 この二人への返事の最初に、9節のところですが、ダビデはこう言っていますね。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった」 

 このダビデの告白、宣言が彼の信仰をよく現わしています。「主は生きておられる」との短い宣言は、神様とともに歩んでいる献身の現れであり、生活のあらゆる出来事の上に主が働いておられるという告白です。さらにダビデは、自分のこのたましい(いのち)が今あるのは、すべて、苦難から救い出してくださった主のおかげだと言っているのです。主なる神様抜きには、今の自分がここに生かされていることはあり得ないと。
 事実、ダビデは自分の手でサウルを殺して王位を奪うことを決してしませんでした。それができるチャンスが何度あろうとも、神様にゆだねて自分ではそうしなかったのです。それでも神様がすべて守ってくださって、ふさわしい時が来て摂理的に自分に王権が巡ってき始めていたのです。

 そのダビデにとって、主を知らないくせに、主のさばきを代行したかのように語るレカブとバアナの姿は、あまりにも神様の御心から離れた不遜な姿に見えたはずです。罪深い手土産を持参した二人の姿は、ダビデにとって怒りを通り越して、呆れるほどだったかも知れません。

 彼らに対してダビデは明確にその行いを拒絶しています。
10節  かつて私に『ご覧ください。サウルは死にました』と告げて、自分では良い知らせをもたらしたつもりでいた者を、私は捕らえて、ツィクラグで殺した。それが、その良い知らせへの報いであった。 11節  まして、この悪者どもが、一人の正しい人を家の中で、しかも寝床の上で殺したとなれば、私は今、彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らずにいられようか。」

 非常に大切なことを教えられます。ダビデは自分の知恵や力に頼りませんでした。あるいはイシュボシェテらがアブネルに依存したように、人に依存するということをしませんでした。ダビデが心していたことは「神様の願いは何か?」ということでした。

 苦しくてもしんどくても、失敗しながらも、それでも神様の願う道を、神様のお心を求め続けたゆえに、彼は守られ支えられ、いつの間にか自分の前に王位が転がって来るのです。一方、イシュ・ボシェテやアブネル、今日出て来た略奪隊の二人にしても、「主」とか「神」ということばを使いはしましたが、この方を人格的に知らない者たちだったと言えるでしょう。主を求めない、主のみこころを求めないゆえに、道を外し続けています。みこころとはま反対の行動をしてしまいました。

 すごく主から語られているなと感じます。コロナウイルスの対応を巡っては、頭が痛くなるほど悩まされます。考えさせられます。しかし、立つべきところは一つなのです。
 主の十字架のすぐそばに立てばいい。ダビデのように神様の願いは何か?神様のみこころに心を向けていれば、それで大丈夫なのです。遠いところばかりを見て、すぐそばにおられる主に目が向いていない自分に気づかされます。

 本日は賛美に「主を知ることこそ」という賛美をささげました。
 「いつの間にか長い道のりを随分遠回りしたけど」と始まります。私たちは、すごく遠回りをしてしまう一人一人ではないでしょうか。本当はもっと早く、まっすぐに、主のもとに飛び込めればいいのですが、道を間違えてばかりで遠回りしてしまいます。
 神様がそっちじゃないよ、こっちだよと呼び続けてくださっているのに、「私はこっちがいい」と反対方向に行きます。自分の思いに囚われ、遠回りしてしまいます。
 主がいつもそばにおられ、私を待っていてくださるのに、待たせてばかりの私たちなのではないでしょうか。

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