東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記7章26-34節 「みこころのうちに食すこと」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/06/17

レビ記7章26-34節 「みこころのうちに食すこと」

*** 6/14(日)礼拝説教概略 ***

レビ記726-34節「みこころのうちに食すこと」

今日のテーマは皆さんが大好きなテーマ。「食べること。食事と信仰」です。

食べることは大好きな方が多いのではないでしょうか。

私たちは何のために食事をするのでしょうか? 

 生きるためでしょうか。確かにそうですね。生きて行く上で栄養を摂ることが必要です。しかし、栄養を摂って生きて行くためだけに仕方なく食べるでしょうか?そうではないですよね。やはり「楽しみ」でもあります。美味しい物を食べると笑顔になれます。あるいは心のこもった手料理は慰めを与え、とても癒されますよね。

 また、食事は交わりの機会でもあります。分かち合って食べ、美味しいねと語り合う時、場は和やかになり愛の交わりが生まれます。そして「食育」ということばもありますね。食事を通して人が心も体も育てられていく。神のことばである聖書にも、食事についての多くの記事があります。

何を食べるのか。いつ食べるのか。誰と食べるのか。あるいは食べないのか。

 まさに聖書こそ、食を通して、神の聖さや豊かさから始まり、愛や交わり、信仰や感謝について教えてくれる「食育教材」の代表と言えるのではないでしょうか。

 例えば「過ぎ越しの食事」というものがあります。この食事を通して、神様がイスラエルの人々をエジプトの奴隷生活から救い出してくださった事を覚える機会でした。ご飯を食べながら神様の救いを家族や共同体で語り合うわけです。さらに、新約聖書ではこの過ぎ越しの祭りからイエス様によって「聖餐式」へと更新されました。私たちもパンとぶどうジュースを味わいながら、イエス様の十字架を思い起こします。

 またレビ記の11では食べてよい生き物、食べてはならない生き物のリストがあります。それは人に「聖さを教える教材」でした。体内に多くの悪性ウイルスを持つ動物を食べないようにする意図や、異教徒の罪深い習慣に取り込まれないようにする意図がありました。

 悪い菌の多い動物や腐敗している物への不用意な接触・不衛生な食事は、人に深刻なダメージを与えます。コロナウイルスはラクダやコウモリ等に寄生するウイルスだと専門家の資料で読みました。実に、レビ記11章の食べてはいけない動物リストに「ラクダ」と「コウモリ」がきっちり入っているのです。

 今から3500年も前ですから、食品衛生の研究もまだ。顕微鏡もない時代にこれを教えられていたことは、すごいことです。意味がわからなくても、神様の教えに「とりあえず従っておこう!」というだけで、様々なウイルス感染から守られたわけです。

 ですから、神様のみことばが、人を束縛する無意味な戒律などではなく、明らかに人の命を守ることに主眼が置かれた優しいみ教えであることに気づくのです。

 神様はこのようにして、神の民が礼拝のみではなく、日常生活のすべてにおいて守られ、他の人々とは聖め分けてくださったのです。それは、この世界の光となるためです!



 さて、本日の26-27節では「血を食べてはいけない」という教えが出てまいります。
7:26 また、あなたがたは、どこに住んでいても、鳥でも動物でもその血をいっさい食べてはならない。
7:27 いかなる血でも、これを食べる者はみな、自分の民から断ち切られる。」

 もしかしたらここを読んで、レア・ステーキやユッケ等は食べてはいけないのかな?と心配になった方があるかも知れませんが、そういう事ではありません。

 あるいは、ある宗教の方々はこの個所を根拠として「輸血禁止」という極端な信条を持っておられます。おそらく「輸血という行為が他人の血を自分の中に食してしまう」という解釈の下で禁じるという発想になったのだと思います。しかし、ここでは決して「輸血の禁止」を意図してはいません。

 この教えの本質は「いのちを尊ぶこと」にありました。いのちを尊ぶゆえに、動物の生き血をそのまま飲むような行為を禁じているのです。
レビ17:11を開きましょう。

レビ 17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。 

 「宥め」とは、罪に対する神の怒りを宥めるということです。そして「血」がこの「宥め」の役割を担っていました。なぜなら、「血」はいのちの象徴と考えられていたからです。実際、人は血液の半分以上を失うと絶命してしまいます。 

 そして、聖書には「目には目、歯に歯、いのちにはいのちで」という考え方があります。いのちと同じ価値の物は何でしょうか?「いのち」しかないのです。

 人のいのちは決してお金では買えません。いのちを救うにはいのちが必要ということです。私たち人間は誰しも多くの罪を犯しながら生きていますが、それらの罪へのさばきは本来は「死」です。その「死」から人を救うために、神様は身代わりの死を備えられました。旧約時代は動物の血、新約時代には神の子イエス・キリストの血がその身代わりのいのちを意味します。血が神様にささげられ、いのちの犠牲をもって人の罪が赦され生かされたのです。それで、血を食べません。それはいのちへの感謝と敬意です

 ですから、聖書の中で誰かのいのちを奪ってしまった際にこういう言い方をします。「その血の責任は、その人にある」と。いのちを奪う行為を「血の責任」と表現します。

 輸血を禁じて、助かるいのちが失われたらどうなるでしょうか。
いのちを尊んだことにはならないですよね?

 みことばの意図から完全に外れてしまいます。それこそ輸血を禁じて死なせてしまった人に「血の責任」が問われるのです。

 その他にも「血を飲まない」ことは、異教の教えとの区別を明確にする意図がありました。異教徒の習慣には、「血を飲む儀式」や「人をいけにえにする」ような残酷で野蛮なものがありました。神様の意図されている人としての尊厳を保つために、これらのことが教えられていました。


 さらに、34節のところを御覧ください。そこでは祭司の食べ物について語られています。
 7:34 それは、わたしが、奉献物の胸肉と奉納物のもも肉をイスラエルの子らから、その交わりのいけにえから取り、それらを祭司アロンとその子らに、イスラエルの子らから受け取るべき永遠の割り当てとして与えたからである。」 

 ここで定められていることは、祭司たちの食べ物となる部分についてです。祭司は他の人々と違って、畑や牧場を持つことが許されませんでした。 それは神の働きに献身するために神様がお定めになったことでした。

そのために、献げられた食べ物のうちから、神様が選び取って、それを祭司たちの食べる分とされていたのです。ここで大切なことは、神様が与える主体であるということです。

 34節、長い文章ですが、主語は誰でしょうか?

 平仮名の「わたし」が主語ですよね。もちろん神様のことです。

 動詞は「取り」と「与えた」ですね。

 分かりやすくするために主語と動詞だけを取り出すと?「わたしが取り、与えた」となりますよね。

 もしかしたら、皆さんの中から献身して牧師や宣教師等になられる方がいらっしゃるかも知れません。その時に、人から食べさせてもらう仕事だと考えるなら、みことばに生きているとは言えません。若い頃、私はそう考えていて、それで牧師にはなりたくないと思っていたこともありました。

 しかし、人に食べさせてもらっているのではなく、神様から与えられているのです。もちろん兄姉の祈りや協力に感謝や敬意を失ってはいけません。けれど、献げているクリスチャンも、人にではなく神様にお献げしているのですから、人の献金で生きていると考えることはそうした信仰者にも失礼になりますよね

 「わたしが取り、わたしが与えた」と言われる神様によって生かされているのです。そして私たちは誰もが裸で生まれてこの世に生かされています。すべてを神様からいただいているのです。献身者だけではないのです。

 ですから、食事の前に私たちは「食前の祈り」を欠かしません。神様への感謝から始まる食事の交わりは、本当に私たちに豊かな恵みをもたらします。教会の食事会、クリスチャンの食事の交わりほど楽しいものはありません。

 以前、家にある青年を食事にお招きしたときに、「いつもこんなに楽しくご飯を食べているのですか」と驚かれたことを思い出しました。うちの子たちは少し緊張していて、普段より静かなぐらいでしたが・・・その方にとってはこんなに楽しく食べるものなのかと思ったようなのです。

 今の時代、私たちは旧約聖書の食べ物の規定の通りにはしません。もはやその時代が過ぎて、新約時代においては、感謝していただくなら、無駄なものはないと受け取る時代になりました。でも、すべてが益になるわけではありません。食べるにも、飲むにも人を悲しませたり、つまずかせたりするのではなく、人を建て上げ育て合うために愛のゆえにするのです。

 イエス様が虐げられていた人々と一緒にご飯を食べておられた姿を思います。ひとりぼっちだった人と御飯を楽しく食べられた姿を思い浮かべます。「イエス様がその人と食事をした」という事は、イエス様がその人を愛されている証しです。 

 私がとてもしんどかった時、ある先輩牧師が「今度飯でも食べに行きましょう」と行ってくれました。そのことばだけで十分でした。

 「一緒にご飯食べましょう」。それは、嫌っている人には言わないことばです。

 「一緒にご飯食べよう」と誘ってくれる存在があるだけでなんと有難いことでしょうか。「誘ってくれる人がいない」と思われる方もあるでしょうか。少なくともひとり、あなたを食事に誘ってくださる方がいます。

黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 食事を通して、私たちは神様をより深く知り、神様のご栄光を現す機会とすることができると学びました。今は食事会もままならない時ですが、また皆さんでイエス様を囲みながらともに主の食卓に与らせていただきましょう。


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