Ⅱサムエル記 6章1~11節「聖なる神」
バアラはエルサレムの西方に位置する場所です。そこから神の箱を運ぼうとダビデは考え行動を起こしています。
神の契約の箱が祭司エリの時代にペリシテ人に奪われる事件以来、しばらく幕屋での礼拝がなされないままでありました。そういう中で、ダビデが王になってそれを復興させたいと思い立ったわけです。もちろん、神様のことを熱心に思うこの事はすばらしいことでした。
そして、それはダビデにとっても大きな喜びであったことが5節で伺えます。
様々な楽器を用いて喜び踊っている姿がありますよね。ダビデは神様への賛美を楽器や踊りを用いて、大胆に大いにはしゃいだ人であり、微笑ましくもあります。
ところが、一つ大きな問題が起こりました。
6節 ナコンの打ち場まで来たときに事件が起こります。
牛の荷車(牛車)に神の箱を載せていたのですが、その牛がよろめいて神の箱が落ちそうになったのでしょう。それでウザという人が手で「直接触れて押さえて」しまいました。 ・・・どうなったのでしょうか?
7節 ウザに神の怒りが燃え上がり、その過ちのゆえにウザは絶命します。
「過ち」という箇所は、「不敬罪」と訳すこともできます。
神様に対する敬意の不足から来る過ちでありました。
・具体的に何が問題だったのでしょうか??
まず「牛の荷車」に載せるという暴挙です。暴挙と言うにふさわしい対応であることをまず覚えたいと思います。
なぜなら、実にこの方法はペリシテ人たちが偶像の神を運ぶ時の方法そのものだからです。力なき偶像と一緒の扱いをしてしまった不敬の罪だと言えるでしょう。5章に「置き去り」にされたペリシテ人の偶像の話がありました。その偶像を運ぶのと同じような方法です。物言わぬ何もできない置物のような偶像と同列のような扱いです。神様に対する敬意が全く感じられません。
「神の箱」=聖なる神の臨在そのものです。神様がそこにおられるとの理解ができるもの。
ですから、非常に厳粛なものです。神様と接する時と同様な注意が求められました。神様を直接見れば滅びるほど聖なるお方です。不用意に触れれば瞬く間に滅んでしまう汚れた罪人である人間。だからこそ神様は汚れのゆえに人が不要に触れて滅びないようにと、様々な配慮と教えをなさっていたのです。本来はじゅごんの皮の覆いがかけられ、直接見たり、触れたりすることがないようにされていました。契約の箱には最初から持ち運びができるように「環」が備えられ、そこにかつぎ棒を通して人がかついで運ぶのです。動物にひかせたりしません。
しかも、レビ人のケハテ族だけが厳粛に運び移動すると決められていました。彼らはそのためのエキスパートであり、必要な知識を有し、いつも彼らだけが主の契約の箱を運ぶ責任を担っていました。ところが、今回はまるで誰も知らなかったかのように、ひどい扱いで神の契約の箱を扱ってしまったのです。
ですから、これはウザが安易に触れてしまったという個人の問題で終わりません。
そもそも聖なる神様そのものを現す「主の契約の箱」に対する理解の浅さ、神様に対する敬意や礼儀の欠如、主のみおしえのガン無視。こうした様々な問題がここに含まれていました。そういう意味でダビデ以下全員の問題として突きつけられる事件だったのです。
ダビデとしては「神様に対する熱い思い」があり、それ自体は何度も言いますがすばらしいものでした。しかし、私たちにはもう一つ抑えるべき点があります。それは、私たちの熱い思いではなく、主のみ思いにこそがより尊ばれるべきだということです。自分の思いに従うのではなく、神様のみこころに従う忠実さが求められています。
主に対して熱心な人は大勢います。そして、しばしば熱心であればそれで「良し」という発想もあります。熱心なのだからいいじゃないかと。
でも、熱心であれば方法が間違っていてもいいのでしょうか?
少し前は香港のデモの問題、最近は黒人の迫害の問題が世界中で騒がれています。
香港の自由、黒人の人権を守ること。どちらもその志は良いことと思います。私も賛同します。
でも、中には暴力や略奪に近いことまでしてその主張をする人々がいます。
目的が正しくても、方法が間違ってしまう時、それはどんなに良い目的でも罪であることを忘れてはいけません。
「神様のために」という動機は多くの人の心にあります。でも、神の願う方法から離れた自分本位の方法は主はかえって主を悲しませてしまいます。
それで・・・9節。ダビデは改めて「主を恐れ」ました。自分たちの安易な態度を改める必要を覚えたのです。それで「主の箱」をお迎えできないと言ったのです。事件までは「神の箱」という表現されていましたが、9節以降「主(ヤハウェ)の箱」と呼び方が変化していることに気づきます。
自分たちの未熟さを知ったのでしょう。安易な発想だったと気づかされたのでしょう。それで3か月ほどガテ人オベデ・エドムの家に主の箱を安置させてもらいます。この家の人は12節で祝福されたことが記されていますので「主の箱」に対して心からの敬意を払ったのでしょう。
本来はまさに祝福をくださる神様なのです。
私たちも問われます。聖なる神様に対する関わり方、接し方がいつの間にか自分本位になっていないかと。自分の好みの神解釈に寄せてはいないか。聖書には神様の圧倒的な「聖さ」も語られています。「厳粛さ」も示されています。しかし、神様の愛と恵みの上にあぐらをかいてついつい神様を侮り軽んじてしまうことはないでしょうか。
「知れ、主こそ神」と詩篇で語られます。
直接見れば滅びる、直接触れれば滅びる。そのような聖なる方。
私たちはひたすらに、ただ主イエス様の十字架のいのちの注ぎによって、そこにあるあわれみのみによって、この聖なる方とお近づきにならせていただいています。
その重みを失うと恵みも恵みでなくなることを覚えます。
今はやむを得ずWEB礼拝というものを取り入れています。それが間違っているとも正しいとも言い切れません。必要があってやむなく用いています。
ただ、そのことでもし「主を軽んじる」誘惑が増えているとするならば、私たちはそれぞれ自分の神様に対する礼拝の姿勢、態度について問われる必要があるのではないでしょうか。
自宅にいながら礼拝できるのは確かに楽で便利です。体が不自由で礼拝に中々行けない方にとっては良いツールだと言えます。けれども、本来ならば礼拝に集えるのに面倒くさがって、楽をするために家で動画を見て礼拝する時、それは本当に主が望まれる礼拝でしょうか。
やさしい愛の神様だからこそ、私たちはそこに甘えて何をしても許されるという安易な発想から離れ、神様の聖なるご性質の前に厳粛にへりくだって歩みましょう。主のみこころを真剣に求めて歩ませていただきましょう。