東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書19章45-48節「祈りとみことばの家」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/06/23

ルカの福音書19章45-48節「祈りとみことばの家」

*** 6/21(日) 主日礼拝説教概略 ***

 ルカの福音書 19章45-48節「祈りとみことばの家」

 教会は何を期待される場でしょうか?

 人は何を求めて教会に来るのでしょうか?

 献堂式の時にある先生がおっしゃいました。「新会堂の物珍しさを求めて来る人は、新会堂に飽きれば去っていきます。」

 印象的でした。そうだなと思いました。
 ですから、私たちは飽きられることのないものを大事にすればいいわけです。
 
 それは・・・神様ご自身です。全知全能の神様に飽きるということはないでしょう。
 そしてその神様のみことばであり、神様との祈りの交わりです。「いのりとみことばの家」となるならば、人々は教会に飽きることはないでしょう。


45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」 

 イエス様の言動の中でも過激な部類に入る場面です。イエス様が神の宮に入って行かれると、そこで商売をしている商人たちがいましたが、イエス様は彼らを追い出されました。実にここで使われている「追い出す」ということばは、他の個所では悪霊を追い出す時に頻繁に使われています。イエス様は毅然とした態度で「出て行きなさい」と追い出されたのだろうと思われます。

 さらにイエス様はこうおっしゃっています。
『わたしの家は祈りの家でなければならない』とイザヤ書に書いてあるのに、おまえたちは『強盗の巣』にしてしまったと言われたのです。

 以前の新改訳では「あなたがたは」と訳されていますが、新しい2017年訳では「おまえたちは」と語調を厳しくしています。実に原語を見ると「おまえたちは」という部分が強調されていて、イエス様の発言の強さが伝わってきました。ギリシャ語では動詞の中に主部が含まれており、動詞の変化によって主語が誰かを一緒に表現できますので、固有名詞でない限りは主語が別になくても問題ありません。

 しかし、ここでは文頭に「あなたがたは」という主語が挿入されており、明らかに強調されているのです。イエス様、怒ってるな~と感じます。ゆえに「おまえたちは」という訳はニュアンスをくみ取っていると感じます。

 そもそも、ここは旧約聖書イザヤ書56:7から引用されていますが、引用元では「あらゆる民の祈りの家」記されています「あらゆる民の」というのは、本当の意味で理想的な祈りの家の姿です。

 神様が心から願っておられたのは、イスラエルの民の信仰が復興し、イスラエルが基となってそこから世界中の人々が唯一まことの神様を求めて祈りの家に入ることだと思います。その「美しい祈りの家」を期待しているのに「強盗の巣」になっていたのですから、イエス様は悲しくて悔しくて仕方がなかったのではないでしょうか。


 では、商売人たちは何を盗んでいたのでしょうか。何を奪っていたのでしょうか。

第一に、弱い立場の人から財を盗んでいました。神の宮に納める神殿税は「イスラエルの貨幣のシェケル」でと決まっていたので、人々は両替の必要がありました。そこで法外な両替手数料を取っていたのです。

さらにはささげる動物非常に高値で販売されていました真面目な巡礼者の足元を見るようなある種の搾取、詐欺行為と言えます。最悪なことに祭司たちも当然知っていたでしょう。それどころか彼らの財源になっていたと言われています。

考えてみてください。当時エルサレムへは長い旅路を苦労しながら、それこそ盗賊に襲われる危険を冒してまでエルサレムまで巡礼に来たのです。

それなのにようやくたどり着いたエルサレムの神の宮こそが盗賊の巣のようになっているのです。せっかく野党が出る山々の危険を乗り越えたのに、神の宮で奪われるなんてこれほど笑えない話はありません。

そして、真面目な人ほど搾取されるとはなんと悲しいことでしょうか。現代の神の宮として、教会だけは真面目な人が損をするようなことはあってはならないと思います。



第二に、「神の宮の聖さ」が奪われていたと言えるのではないでしょうか。聖なる神の宮は、この世とは一線を画し聖さを保つ場所でなければなりません。塩が塩気を失えば何によって味付けをするのかとあるように、神の聖さという塩気を保たなければならなかった。それなのに、神の聖なる宮が欲望にあふれ「世俗化」していたのです

本来ならば、神の宮こそは聖なる空間穏やかで心が落ち着き神様に祈りをささげられる場所であって欲しい。望みを抱いて遠方からはるばるやって来る人も多くいたのですから。主なる神様の前に出ようと厳粛な思いで来るのです。それなのに、神の宮は完全に世俗化し、宮の外の俗世間と何ら変わらない姿に陥っていました

適切とは言い切れない例えかも知れませんが・・・ヒントのために・・・
例えば、教会に訪れて牧師が全身ブランド物に身を包み、ベンツを乗り回し、大酒飲みのヘビースモーカーだったらどうでしょうか?

私が求道者だったら、やはりガッカリするような気がします。

その教会には聖さや愛、献身的な奉仕などはあまり期待できないような気がします。教会は確かに罪人たちの集まりでなのですが、それでも神の聖さを大切にする場であって欲しいし、教会に行けば真実の愛や温かい交わりがある。希望があると期待して人々も求めて来られることでしょう。

主イエス様はあるべき神の宮の姿から、かけ離れ欲望まみれ宮の姿に深い悲しみと憤りを覚えられたのではないでしょうか

この商人たちは、ここを神を礼拝する聖なる場とすることを求めず、自分の欲を満たすとして利用したのです。聖さを失わせ、人々に与えられるはずの霊的いのちまでも奪う行為あったとも言えます。最悪なのは神の聖さから離れた結果、人の霊的いのちを奪うことでしょう。
 
 私もこの教会が人から大切なものを奪う場所ではなく、人にまことのいのちを与える場となることを切に願います。もちろん、この教会だけでなく日本中、世界中の教会がそうであることを願います。

「あそこに行けば神様の愛と真実なことばが聞ける。あそこに行けば心から神様と語り合える。」そう思える教会です。


 そのために必要なことは何でしょうか?

「祈りの家」と書かれた看板をつけることでしょうか?

 心が洗われるような荘厳な雰囲気を醸し出せればいいのでしょうか?

 そうではないですよね。


 この当時も建物の問題などイエス様は一切触れていないのです

 イエス様は、そこにいる「人々の姿勢」問われています。

「集うひとりひとりの祈りの姿勢」こそが祈りの家を形成するのだということです。


 以前にカトリックのシスターの話を紹介したことがあります。エレベーターに乗る時に、急いでいるわけでもないのに習慣的にすぐに「閉じる」ボタンを押してしまう。でも、静かに自然に閉じるまで待って、その間を祈りの時間にすることができたらどうか?というお話でした。教会のエレベーターは家庭用なので、閉まるのも動くのもすごくゆっくりです。でも、そこで「遅いな~」と思わず、神様に一言でも二言でもお祈りする時間としてはどうでしょうか。

 祈りながら生きる、祈るように生きる。そういう者たちが集うところこそ「祈りの家」と呼ばれるようになります。


 さて、イエス様はこれらの行動を怒りに任せて勢いでなさったのでしょうか。

 いいえ、そうではありません

 イエス様は愛をもって命を懸けてなさっているのです。

 47-48節を御覧ください。

47節 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、
48節 何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。 


 イエス様はただでさえ妬まれ命を狙われていましたが、宮きよめの出来事は祭司長や律法学者らの反感をさらに強めました。自分たちの悪事を指摘され、商売人を追い出されてしまい暴利を得られる場を奪われ、プライドも傷つけられたことでしょう。

 ゆえに・・・ここにあるように、彼らはもはや「殺そうと狙っていた」という明確な殺意を持つようになっています

 しかし、イエス様はご自分の利益を求めず、目の前の人々の益だけを願って、この状況下でもみことばを教え続けました。イエス様は主の宮をみことばの家」もされようとしているわけです

 すぐ隣では自分の命を狙っている人々がいました。

 彼らはイエス様のことばの端々まであら探しをして、殺害できる口実を探っています。

 そんな人々が横にいるのを感じながら、イエス様はどこを見て語ったでしょうか。

 真理に飢え渇いている人々を見つめて語られたのです。自分たちの利益ばかり考えている宗教指導者たちのことばは、民の心を打つことはなかったでしょう。けれど、イエス様のメッセージは多くの人の心をとらえたのです。熱心に耳を傾けていたとある通りです。ここに愛があります。そして、それゆえ彼らは安易に行動できなかったのです。


 残念ながら悪い商売人たちが追い出されて空になっただけでは、神の宮は聖なる宮とはなりません。その代わりにイエス様は神のみことばで宮を満たしたのです。祈りとみことばが満ちて初めて、主の宮は聖なる神の宮として輝くことでしょう。


 今日、主は私たちに語っておられます。

 あなたがたの教会を祈りの家、みことばの家としなさいと。

 私たちのこの教会、この交わり、そしてそれぞれの家が、本当の意味で人々にとって「救いをもたらすもの」って欲しいと思います。

 この世とは異なる場ここには愛があり赦しがあり聖さがある。ここに来ればやり直せるのでは?ここにくれば心がほっとする。そう思えるような神の臨在に満ちた場所。

 そういう教会、そういう交わり、そういう家々、そういう個人でありたいと思いませんか?

 小さな祈りから、小さなみことばの決心から始めていきましょう。 

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