東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 6章12~23節「神のお心を理解する」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/06/24

Ⅱサムエル記 6章12~23節「神のお心を理解する」

*** 6/24(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記 6章1223節「神のお心を理解する

6章前半ではダビデの神様に対する熱心さがよく現れていましたが、一方で主の契約の箱の運び方をめぐって、神様のみこころを慎重に求めるということに欠けており、悲劇に見舞われました。ウザとイスラエルの民の不敬罪という問題でした。

聖なる神様に対する雑で、自分本位なやり方の問題がありました。

本日のところでは、そこからの変化はあったのでしょうか?

12-15節  ダビデはこの3か月間、主の契約の箱を移動できませんでした。
 その間、悔い改め、またみことばからどのように主の契約の箱を運ぶべきなのかを学びました。

 誰でも失敗はあります。しかし、失敗すること自体が問題ではなく、失敗を悔いるばかりで学ばないことが問題だと言えます。神様のお心は何か・・・はっきりしています。
失敗を悔いて自分を攻め続けることではなく、失敗を通して神様を今まで以上に知る者となることです。そして、オベデ・エドムの祝福のニュースもダビデを励ました。

13節 いよいよダビデは再チャレンジをします。
 主の箱をかつぐ者たちが6歩進んだとき・・・ この時、相当の緊張感があったはずです。
「主の箱をかつぐ者たち」という表現は、今度は担ぐにふさわしい者たちが「担いだ」ことを意味しています。以前は牛に荷車を引かせていましたが、明らかに彼らは学び改めたことがわかります。そして、神様が定めておられたレビ人のケハテ族が担いました。わずか6歩進んだところで、肥えた牛をダビデは主にささげています。無事に運べるように主がしておられることへの感謝の意味があったのだと思います。

 Ⅰ歴代誌15章には、この出来事のより詳しい記事があります。まず2節で「レビ人でなければ神の箱を担いではならない」と言い、ダビデがウザの出来事以降、きちんと調べて指導したことがわかります。13節では、最初の時にはこの祭司たちがいなかったために、主の怒りが発せられたのだと分析しています。「主の定めにしたがって、私たちが主を求めなかったからだ」とダビデが理由を正しく理解していることがわかるのです。

 神様がさばかれた理由を正しく知ること、つまり神様のお心に近づくことが重要です。
 成功することよりも、神の心と私たちの心が近くなることです。神様のお心に一歩でも二歩でも近づくことを求めたい。親に叱られた子が「怒られた!」「怖かった!」ということで落ち込むだけならば叱った意味がありません。それは叱り方を間違えていると言えます。叱る目的は、なぜ叱られているのかをその子が正しく理解し、その子がそこから学び成長するためです。


 そして、15節にあるように彼らは「担い棒を肩に載せて担いだ」と記されています。
 さらに、16節以降は聖歌隊、賛美隊を編成し盛大に賛美をしながら運んでいます。 
 
 こうしてみると、ウザの出来事はとても厳しい辛い出来事でしたが、これを通して自分本位の礼拝を改めて、本来のあるべき神礼拝に立ち返ったことがよく分かります。

 しばしば痛みを通る経験は、私たちが本来あるべきところに気づき、立ち返る機会でもあるのだということです。

 コロナのことは悪い出来事として目に映ります。しかし、この機会に教えられることもあります。コロナ下で多くのお店が深夜や夜中の営業をやめました。人をお店等にぎゅうぎゅう詰めで入れることをやめ、ゆとりを持って人がいられるようになりました。あまりにも忙しく、ぎゅうぎゅう詰めの生活をしていた日本人にとって、本来の人間としてのあるべき生活に立ち返る機会になったとも言えるでしょう。今までが忙しすぎたと言えます。

 私たちも痛みを通して主に立ち返る機会にしないならば、傷んだ分だけ損だと思います。どうせ痛み苦しむなら、恵みの機会としたい。振り返って、辛かったけれどあの経験が今の自分につながっている!そう言える歩みをしたいのです。

 本日の個所に戻りましょう。Ⅱサム6章です。 

 14節 2017年版では「力の限り跳ね回った」 ※第三版では主の前で「力の限り踊った」 

 どんな風に踊ったのかも気になりますが、「力の限り」というのが印象的です。
 英語では「with  all  his  might」。彼の力のすべてをもって踊り主を賛美したということです。

 自分のうちにあるすべてで主をほめたたえることです。詩篇103篇で「私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ」とあります。今は大声での賛美は控えていますが、それでも全身全霊をもって主をたたえ、礼拝することはできます。大きな声を出すことがすべてではないですよね。ダビデのように全力で神様を賛美する。そのようにしたことがない人の方が多いのではないでしょうか?ダビデの心から主を賛美する姿勢に教えられます。

 15節を見ると、ダビデとイスラエルの全家は「歓声をあげ、角笛を鳴らして」とあります。一緒に主の箱を運ぶ者たちもまたダビデのこの喜びの賛美に引っ張られているのです。一方で、16節のように残念ながら蔑む人がいます。恥ずかしげもなく、子どものようになりふり構わず踊って賛美するなんて!はしたない!恥ずかしい!と。この場合はダビデの妻ミカルでした。

 20節で ダビデは自分の家を祝福しようと帰ると、妻のミカルが出迎えて・・・
 きつい見下すような皮肉をぶつけられます。ミカルの望む姿と異なっていましたし、外側ばかりを見ているミカルの価値観がわかります。人は上辺を見るが、主は心を見るとありますように・・・。しかし、ダビデは王の華やかな衣装など脱ぎ捨て、エポデという祭服をまとっていました。「王の華やかな衣装を脱いだ」という行為を彼女は気に入らず「恥ずかしげもなく裸になっった」と言ったのでしょう。

 21-22節のダビデのことばは注目に値すします。
21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。 
22 私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」 

 ミカルは王の威厳を失っているように見えるダビデを否定しました。

 しかし、ダビデは王の威厳は上から来ると知っていたのです。人の前にどうであるかではなく、神の前に生きていました。ダビデは自分を召してくださった主を求めているのです。
 権威は上からです。自分で自分に権威付けをするものではありません。

 だから彼は人の前でもっと卑しめられ、自分でも卑しくなろうと言うのです。
 人の目にどう見えようと、自分はただ自分を召された神をあがめたい!と。
 その時に主がふさわしい時に引き上げてくださるのです。


 ダビデは神様のお心に近づこうと求めていました。
 
 神様のお心を知ることを痛みの中で大切にしました。

 私たちも父なる神様のお心を求め、この方の喜ばれる道を歩みましょう。

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