レビ記10章1-20節 「聖なる神、あわれみの神」
以前、まだ小学生だった長男の授業参観に行った時のことです。いわゆる道徳の授業で、生徒同士が色々話し合う時間もありました。そこで扱われていたテーマは、学校の校則は何のためにあるのかということでした。
走ったらお互いにぶつかり、大けがをする危険がある。
安心して廊下を歩くことができない。
お互いがケガをせず安心して過ごせるように「廊下を走ってはいけない」という規則があるのだということでした。
私はこの授業にとても感心したのを覚えています。多くの先生たちが「校則は守らなければならない」とは教えてくれると思います。しかし、「なぜ守らなければならないのか」ということは案外教えられないように思います。
本当に大切なことは「なぜ」「どうして」「何のために」というマインドの部分にあります。その意味が、そのマインドが理解できたならば、逆に規則などなくても自分から気をつけ配慮するようになることでしょう。聖書の律法もイエス様によって本質が説き明かされ、聖霊によってその教えに生きることを知る時、もはや細かな律法の教えを目の前に貼っておく必要もなくなるのです。
しかし、その意図がわからないまま、ただ言われた通りにすればいいというのはロボット・機械の役割です。人は理性を持ち、意志を持ち、感情を持っています。神に似せて神をモデルとして造られたからです。
クリスチャンが聖書を学ぶときも、同じ過ちをしがちです。こう書いてあることを守っていれば正しい信仰者なのだ。できなければ逸脱者だ。特にこの過ちをしたのが律法学者、パリサイ人たちです。
この考え方でいる限り、神の聖さを理解することができず、それゆえに自分の罪の本質に気づくこともできず、だからこそ神の救いの恵みの豊かさを知らないままで過ごすことになってしまいます。それゆえイエス様は本質をいつでも問われていました。
私たちは今日、神様のご性質やお心をさらに一歩踏み込んで知り、神様のお心と一つになって歩む幸いを教えられたいと思います。
1. 聖なる神を知る
1-2節のところに、とてもショッキングな出来事が記されています。
1節 さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主(ヤハウェ)が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
2節 すると火が主(ヤハウェ)の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主(ヤハウェ)の前で死んだ。
大祭司として任命されたアロン。その二人の息子であるナダブ(長男)とアビフ(次男)は主が命じなかった「異なる火」を神様にささげ、それゆえに焼き尽くされ命を落としたと語られています。衝撃的な出来事です。なぜ、彼らは命を落とさなければならなかったのでしょうか。
1節に「主が彼らに命じたものではない異なる火」を彼らが献げたとあります。具体的にどのような逸脱行為だったのかは分かりません。ただ、はっきりしていることは神様が命じなかったことを二人が分かった上でしたという点です。それは単純に間違えたのではなく、神様に対する祭司としての姿勢に問題があったということです。
そしてモーセは神様から示されたことをアロンに伝えました。
3節 モーセはアロンに言った。「主(ヤハウェ)がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。
神様は汚れた者がそのままで近づけば自ら滅んでしまうほどの「聖なるご性質」をそもそも持っておられます。ですから人が罪を犯し堕落した時点で、神様との交わりから離れてしまったのです。けれども、その聖なる方は愛の神様ですので、罪ある人間と再び親しく交わりが持てる道を備えてくださいました。
以前もエゼキエル書のみことばから、「悪者でさえ神は滅びることを望まない」と学んだ通りです。誰一人滅びることを望まない神様です。だからこそ、自分の聖さの前に不用意に汚れたまま飛び込んで、滅びを招くことがないようにと、主は絶えずみことばから警告を促しておられました。そのための仲介の役割を担っていたのが祭司です。
ところが、その祭司自らが神様を侮ってしまったのです。アロンはモーセから聞いて、本来自分の息子たちが「神の聖さ」を示すべき役割を担っていたのに、その使命から遠く離れた歩みをしたと理解したことでしょう。息子たちの不従順による死が、神様の聖さを決定的に示す事になったしまったのはなんという皮肉でしょうか。厳粛な出来事です。
この時のアロンの心境はいかばかりかと思います。
3節の最後に「アロンは黙っていた」とあるのです。この沈黙は何を意味するのでしょうか。色々な事が頭をよぎったことと思います。
「厳しすぎるのではないか」という神様への思い。
いや、神様に反論する前に、自分の息子に対する指導はどうだったのか?きちんと祭司としての心得、聖なる神様に対する忠実な姿勢を教えていたらと心から悔いたのではないでしょうか。
あるいは、自分の過去の罪(金の子牛の偶像を作ってしまったこと)を思い出し、自らの不信仰な姿勢こそがこの事件の根底にあったのでは?と自分を責めたかもしれません。
それにしても受け入れきれず、うっかり口を開けば神様のなさったことに反する事を言ってしまいそうな自分。それゆえの沈黙でしょうか。
さらにこの後、6節でモーセはアロンと生きているその息子たちに注意を促します。それは「髪の毛を振り乱してはいけない」「衣を引き裂いてはいけない」ということでした。
どちらも深い嘆き悲しみを現す行為です。
なぜ、自分の息子、兄弟が死んでしまったのに彼らは嘆き悲しみを全面に出すべきではなかったのでしょうか?
それは神様がなさった裁きに対して、祭司たちが強い反意を示すべきではないからです。祭司が神様のなさることを肯定しなかったら、一体誰が神様のなさることを肯定するのでしょう。
多くの孤児院を建てたジョージ・ミュラーは、その最愛の奥さんが亡くなった時の告別のメッセージでこう言いました。「もし妻をもう一度連れ戻すことが、この世で最も簡単なことだとしても、私はそうするつもりはありません。神ご自身がそうされたのですから。私たちは主にあって満足するのです。」
なかなか出来ないことですが、神様の最善の時に死を迎えたとして受け入れ満足すると言ったわけです。もちろん、この時のアロンが置かれている立場と全く同じではありません。けれども、どんな時でも主なる神様のみこころが正しいと伝える者として、色々な思いがあっても悲しみを外に現し、神様に向かって反抗的な態度をとることはしなかったのです。そこにアロンの使命感と信仰を見ます。
彼はとてもつらかったでしょうけれど、沈黙という方法によって神様が否定されるような態度を取らないことを貫きました。何より、自分の息子たちの問題。そして親である自分の責任として受け止めていたのだと思います。
2. あわれみの神を知る
ただ、この話には続きがあります。非常に重要な続きです。
16節 モーセは罪のきよめのささげ物の雄やぎを懸命に捜した。しかし、なんと、それは焼かれてしまっていた。モーセは、アロンの子で残っているエルアザルとイタマルに怒って言った。
17節 「どうして、あなたがたは、その罪のきよめのささげ物を聖なる所で食べなかったのか。それは最も聖なるものだ。それは、会衆の咎を負い、主の前で彼らのために宥めを行うために、あなたがたに与えられたのだ。
18節 見よ、その血は聖所の中に携え入れられなかった。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べるべきだったのだ。」
モーセは怒っています。なぜなら、神様の命令に従わない不従順のゆえ、アロンの二人の息子が死んだばかりです。モーセにとっても良く知る自身の甥子が二人も死んでしまったのです。深い悲しみゆえに、二度と同じ事が起こらないようにと願っていたでしょう。
それなのに、彼らの「罪のきよめの儀式」をしている最中に、その教えの通りに「しなかった」のです。具体的には脂肪と血を除いて「食べるべき」と定められた部分を食べずに焼いてしまったということです。それは祭司に与えられた特権を放棄したことです。
ところが、亡くなった二人の息子の父アロンは、今度は口を開いて答えています。
19節 アロンはモーセに言った。「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主(ヤハウェ)の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主(ヤハウェ)の目に良しとされただろうか。」
二人の息子が同時に滅びるという事がこの身に降りかかった。そんなことが起こった今日、私がただ律法通りに心も伴わないままに形ばかり従っていれば、それは主の目に良しとされたのであろうか??とのことばです。
決して反発のために食べなかったのではないと分かります。二人の愛する息子が死んでいるのです。神様が正しいと分かっていても、食べ物が喉を通らなかったのかも知れません。
そのような中で、神様が形ばかりの従順を喜ばれるだろうかと真剣に誠実に考えた末、食べなかったのでしょう。
モーセはその彼の思いを知って、それで良いとしました。
そして神様もみことば通りに行動しなかったにも関わらず、このアロンの行動を問題になさいませんでした。主はその心を御覧になったのだと思います。
形ばかりの従順を納得できなかったアロンが、それでは神様に対して不誠実、失礼だと思った。父親として、神に仕える大祭司として本当に苦しんだのだと思います。
彼はその痛みの中でも精一杯、神様と心を通わせ、神様はどうお考えだろうかと求めたのではないでしょうか。
モーセもアロンも神様が圧倒的に聖なる恐れ多い神だと知っていましたが、同時にこのアロンの行為を理解できない神ではなく、むしろあわれみのうちにこの心を受け入れてくださると何となく理解していたのではないでしょうか。
実に考えていくと、神様ご自身がこの出来事に非常に胸を痛めておられることは容易に想像がつくのです。ご自身のひとり子をさえ与えるほどに、人間を愛しておられるのです。
聖なるご自身の前で滅びないようにと丁寧に教えておられたのです。
それでも彼らの不従順が死をもたらしました。
むしろ泣いておられるのは主ご自身です。
「なぜ従わなかったのか。あれほど言ったのに・・・」と。
しかし、アロンと共に痛む神様であられ、彼が主の前に誠実であろうとした時に、それが教え通りのものでなくてもその心において受け入れ、あわれみを示されたのだと思うのです。
私たちも律法主義的な表面的な文字に生きる者ではなく、父なる神様と心を一つにして歩む者となることを大切に求めていきましょう。