*** 説教概略 ***
Ⅱサムエル記 7章1~17節「神の主権 私ではなく主が・・・」
1節 ダビデ王は、様々な戦いから解放され、主が安息を与えて下さる日々を過ごしていました。
私たちならば、安息の日々には感謝を忘れやすいですが・・・ダビデは自分がこんなに安息な日々を主にいただいているのに、主のために何もできていないと思ったのでしょう。
2節 彼は「神の箱」のことが気になりました。自分は杉材の立派な家に住んでいるのに・・・まだ神の箱は幕屋の中にある。幕屋=テントですから、移動生活用住居です。自分は定住できる立派な家をいただいて、神様はそうではないということにダビデの心は引っかかりました。
ダビデのこのような思いは評価されるべきでしょう。すばらしいと思います。自分が安泰な日々になると、それで満足してしまい神様のことなど忘れてしまうということもあります。
ダビデはそれをナタンに告げると・・・
3節 預言者ナタンの進言がなされます。人にはすべてを正しいか間違っているか判断できません。ただ、ダビデが「主のために」という思いでしようとしている事を知り、主があなたとともにおられるのだから、恐れずにやってみたらいいと進言した。
その背景には「必要ならば主が軌道修正してくださるし、主のみこころならそれは受け入れられるだろう」という「神への信頼」があったことと思います。神様への信頼があるからこそ神様のためにと大胆に挑戦することも必要です。すべてが分からないからこそ、神様に信頼してです。
4節 その夜・・・
主は早速応じられました。何もしないで座しているだけならこの主からの語りかけはなかったでしょう。失敗を恐れずダビデとナタンが一歩を踏み出したからこそ、主が答えられたと言えるのではないでしょうか。
神様からの語りかけは「あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようと言うのか」でした。7節でも 主が「わたしのために杉材の家を建てよと言ったことがあるか?」と問われています。
Ⅰ歴代誌17章の並行箇所では、はっきりと「あなたがわたしのために、住む家を建てるのではない」と否定されてさえいます。皆さんがダビデの立場ならいかがでしょう??ちょっと残念だと思うのではないでしょうか。
ただ、この否定はダビデの思いへ否定ではありません。
神の宮を建てること自体への否定でもないのです。なぜなら、以下の個所で、ダビデの主の神殿を建てたいという思い自体は良いものだったと神様が言われているからです。
Ⅰ列王記8章18-19節 18 ところが【主】は、私の父ダビデにこう言われた。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである。 19 しかし、あなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から生まれ出るあなたの子が、わたしの名のために家を建てるのだ。』
思いは良いと受け入れられているのです。ただダビデに神殿建設者としての「神様の召し」はなかったということなのです。神様のご計画としてダビデが神殿を建てるのではなくソロモンがと主は決めておられるのです。それはダビデが戦士であり、戦いに召されており、ソロモンは平和の用に召されているということが背景にありました。
それをダビデは受け入れ、息子ソロモンの神殿建設を応援するため、準備のために奔走しましたた。
大切なことはその召しに忠実であることです。
主はソロモンにその栄誉を与えるのです。そしてダビデは神殿建設においては資金集め、材料確保、地味な下働きをひたすらしました。そこに神様の召しがあったからです。
忠実に奉仕するとは?奉仕自体への忠実さではなく、奉仕を与え奉仕をさせてくださる方に対して忠実であることです。
昔、OHPの奉仕をしていたころ・・・その作業に追われ主を見上げて賛美していなかった自分がいました。注意されて初めて、奉仕を通してまず自分が神様に礼拝をささげることを教えられました。
神の主権をしっかりと覚え、神様の召しに忠実に歩んでまいりましょう。
神様が私たちを通してなしてくださいます。