レビ記11章44-45節 「神の聖さにあずかる」
コロナの影響で解雇された人々が3万人を超えました。
老舗と呼ばれるお店も様々なチェーン店も相次いで閉店、いくつもの企業も倒産・縮小に追い込まれています。多くの人が路頭に迷い始めています。
この時代に神様に召しだされたキリスト者として、私たちはどのように生きるべきかと考えさせられます。
最近、無事に給付金をいただきました。背後で導き与えてくださる神様の聖なる分としてまず聖別し(教会や宣教の働きへ)、次にコロナ下で止む無く出費した物に充当しました。
そしてお店がつぶれては困るという思いで、貯金ではなくやはり消費しようと感染には気をつけつつ家族で外食に行きました。やはりお客はまばらで、改めて考えさせられました。人はお互いに与え合って共存しているのだと。
以前は、食べ放題などに行くと貧乏根性で「元を取らないと」なんて発想もありました。ご飯を少なめにしておかずを多めになんて考える。そのような発想を振り返るとやや「意地汚いな」と思わされました。そこには、自分だけが損をしないように、少しでも得するようにという発想があったからです。そこには、他の人を生かそう、他の人を支えようという発想がまるでありません。
実に、私たちはお金を「消費する」と言いますが、「消費する」と消えてなくなるのかと言うとそうではありません。自分がお金を消費するとそれが他の誰かの収入になるのですよね。お金を使うと誰かの収入になるのです。
実は私たちはそうやって与え合って共存しています。損をしないようにと自分の手元ばかり見ていた事が恥ずかしくなりました。何のために神様が財をゆだねてくださったのか・・・祈り求める時に、お金を使うにしても人を救うために使いたい。
それが聖なる神に召された者の歩みです。欲しい物を買い、美味しい物を食べつつ、富が循環して困っている人の助けになるようにとの願いでお金を使えたら嬉しいじゃないですか。
ただ、神様を知る前の私であればこんなことを考えなかっただろうと思います。これは聖なる神、愛の神を知ることができたゆえの恵みです。聖なる神様を知ったからこそ、自己中心的な考え方を汚い・汚れていると気づくことができるようになったのです。
今日の説教テーマは「神の聖さにあずかる」です。「あずかる」とは漢字ではどうなるでしょうか。「与る」です。目上の方からの恩恵を与えられるということです。聖さは私たちの努力で生み出すのではなく、聖なる方からの恩恵として受けるものであります。
Ⅰテサロニケ4:7にこのように語られています。神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。
汚れた行いに生きる事から離れ、神の聖さに与らせるために神様は私たちを召してくださったのです。イエス様を信じる前の私は、損得勘定で自分を中心に考えていました。しかし聖なる方・愛の方である神様は、損得勘定など一切なく大切なひとり子さえ惜しまずに与えてくださったのです。
ご一緒に「神の聖さにあずかる」というテーマで教えられてまいりましょう。
本日開いているみことばレビ記11章では、食べてよい動物、食べてはいけない動物を教えています。その理由の一つは汚れた動物に触れたり食べたりして、毒素やばい菌、ウイルスによって心身が害されることから守られることがありました。
けれども、より本質的な部分において「聖さを教える」という意図がありました。
興味深いことに人は生まれながらにして聖さを知っているわけではありません。例えば赤ちゃんや幼児はそこらへんに落ちている物を何でも口に入れてしまいます。ハイハイした汚い手を洗うという感覚もなくその手で何でも口にします。そして汚い環境で育てばそれが普通だとさえ思ってしまいます。
ですから、親から「それはバッチィからダメですよ」と教えられて初めて学んでいくのです。私たちも聖なる神様と出会うことで、自らの行為や考え方が自己中心で、汚れたものであると本当の意味で気づかされるのです。
不思議ですが・・・「救い」だけを見つめていても「救い」がわかりません。恵みだけを見つめようと思っても、恵みがわからなくなるのです。なんとも不思議なことです。救いの恵みがわかるためには、自分がなぜ救われる必要があるのか?自分はどういう者なのかを知らなければならない。
そこに自分の罪、汚れの問題がありますよね。じゃあ自分自身をずっと見つめていれば罪や汚れがわかるのか?と言うとそうではないのです。確かに自分と向き合わないといけない。でも、自分だけを見つめていても罪深さや汚れの本質は実は分からないものなのです。
いつも例えに出している白いシャツの話をします。自分の白いシャツだけを見ていると汚れや色がくすんでいることに気づかないものです。全く汚れていないまっさらなおろしたての白いシャツを横に並べると、その汚れに初めて気づきます。白いと思っていたものが実は白くなかったと知るのです。
私たちも真っ白なものを見ないと、自分の汚れに気づかないものです。この真っ白な聖なる染みひとつない方が神様です。聖なる神様の前に立つからこそ、自分の罪がいかに汚れているのかに初めて気づくのです。神様の聖さを目にして初めて、「聖」とはこういうことかを知るのです。
そして自分の汚れを知るなら、聖とされる道を願い求めるようになります。求める者には神様は惜しみなく与えてくださる方です。神様は人を愛し、ご自身の聖さに与ってご自身との親密な交わりの中にすべての人が歩めるようにと願っています。44節前半。
44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。
神様が聖なる方なのであなたがたも聖なる者とならなければならないと言われます。残念ながら聖なる者と汚れた者とは混じり合うことができないからです。では「聖」とはそもそも何でしょうか?
聖とは原語であるヘブル語で「カドーシュ」ということばです。
その元々の意味には「区別する、分離する」という意味があります。
「聖」であるということは、「聖でないものと区別され分離され」ることで「聖さを保つ」ものです。決して罪や悪と混じり合わないから「聖」であるのです。じゃあ、聖なる神様のもとに人が帰るにはどうしたらいいのでしょう?
私たちが聖とされる必要があるということです。それで神様は、44節で「自分の身を聖別せよ」とおっしゃっています。それは俗世間のための用途から分離させて、聖なる神様のためにささげるという行為です。
ですから、献金をささげる際の説明として「聖別して主におささげする」と表現することがあります。それはこの世の事に使うことからその部分を取り分けて、神様の聖なるご用のためにとおささげするという意味です。それによってこの世を第一にではなく、神様を第一にするという優先順位が守られ、生活が支えられていくわけです。
この11章でも食生活という基本中の基本において、汚れた物に触れず食さず、神の聖さを意識して歩むことが教えられています。神が聖であるので、私たちも聖であれとの神の声に真摯に聞きたいのです。
しかしながら、人がそれを願っても、なお私たちの内にある肉なる思いは聖さとは異なる歩みをしてしまうことが少なからずあります。「聖人君子」という言葉がありますが、このことばは幻想だと私は思っています。イエス様以外に当てはまる方はいないでしょう。
イスラエルの民は聖なる教えを主からいただいていましたが、自分ではどうしてもその通りに生きられなかったのです。ソロモン王が神の神殿を完成させ、それこそ神殿を聖なる物として主にお献げしようとした時の祈りが印象的です。彼は祈りの中でこう言ったのです。
Ⅱ歴6:36-39の概略・・「罪に陥らない人は一人もいません。」「ですから、主の御名のために建てられたこの宮に向かって祈るならあなたの民を赦してください。」
こんな風に祈っています。世界一賢いソロモンが「罪に陥らない人はいない」のだと神様に祈ったのです。
人が自力で聖さを獲得できたのならば、主イエス・キリストは必要ありませんでした。しかし、人の努力では不可能であることを歴史が証明しているので、神様はその歴史的事実を人に提示され、そのために神の子イエス様を遣わされたのです。
御子イエス様を通して神様がなさったことは、イエス様にとっては身の毛もよだつほど残酷なことでした。イエス様は神の御子ですから聖なるお方です。しかし、聖なる者を俗なる世界、罪の汚れのただ中に遣わされました。さらにはあろうことか、罪と汚れをその身に背負わせ十字架でさばかれたのです。
皆さんにはものすごく苦手で嫌いなものはありますか?例えば私は、黒板を消す音がとても苦手です。自分が当番の時はゆっくり音を立てないようにするか、一気に短い時間でざっと消すかどっちかでした。ましてや黒板に爪など立てられた日には想像するだけで嫌です。あるいは毛虫がとても苦手です。昔、毛虫でアレルギーが出て皮膚が湿疹だらけになったので・・・。こうした自分にとって非常に苦手な嫌悪するものを一日中この身に負わされたとしたらどうでしょう。気が狂いそうです。
しかし、聖なる方イエス様にとっては人間の罪と汚れこそが、最も嫌悪する身震いするようなアレルギー対象のような存在なのです。エリクソンという神学者が神様の聖さの説明として、罪や汚れに対するアレルギー体質のようなものだと表現していますが、まさにイエス様にとって最も触れたくない嫌悪すべきものをご自分の身に受けるようにして十字架に歩まれたということです。
ヘブル10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
ご自分の聖さにあずからせるために、神様はあなたをこの世の中から選び出し、ご自身の救いの恵みの中に召し出されたのです。ですから、私たちは神の聖さにあずかった者として聖なる神の御救いを証ししていきましょう。Ⅰテサ4章3節にも「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」とハッキリとみこころが示されています。
神様のみこころなのですから、私たち皆で祈り求めて参りたいと思います。 私たちキリスト者が、そして教会が、この世に置かれながらもなお、この世から区別され分離されて「聖さ」を保つ時に、私たちは地の塩、世の光としての役割を果たすことができます。