東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 7章18~29節「しもべに良くしてくださる神」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/07/08

Ⅱサムエル記 7章18~29節「しもべに良くしてくださる神」

7/8(水)祈祷会

*** 説教概略 ***


Ⅱサムエル記 7章18~29節「しもべに良くしてくださる神」




 先日の礼拝で、聖なる神の前に立って初めて、私たちは自分の罪や汚れを本当の意味で理解すると学びました。今日の場面でもそれと少し似ていて、ダビデは偉大なる神様の前に立って自分の小ささを知ることになります。あわれみ深さや真実な姿に触れて、自分の小さな姿に気づかされてるのです。


18節 「私は何者か。私の家はいったい何か」とダビデは自分に問いかけています。
 私たちの多くは初めは神様に対して「あなたはどんな神か?」「私に何をしてくれるのか?」「なぜ、こんなことをするのか?」と問いかけ続けてきた者たちです。しかし、神様を知るにつれて、神様のすばらしさに気づくにつれて、むしろ「私は何者なのか」と問われるようになっていきます。
 ダビデは、自分たちは神様の祝福をそこまで受けられるほど正しくも立派でもないのに、こんなに良くしていただけるなんて!と大変恐縮する思いでここにいます。 
 ・・・私たちは何者なのでしょう??

 神学生の時にキャラバン伝道というものがありました。

 1週間ほど遣わされた教会でご奉仕させていただくのです。

 奉仕するため、少しでも教会のお役に立てるようにと行かせていただくのですが・・・。

 色々ごちそうになったり、とても良くしていただきました。

 神学生たちができることなど一般信徒に毛が生えたようことだと思います。そして、長年牧会されている先生からすれば心配の方が多いぐらいかも知れないのです。それなのに働きに見合わない歓待を受け、喜んでくださる皆さんの姿にかえって恐縮したのを覚えています。見合わない祝福を受けることで、かえって自分たちの未熟さを痛感したものです。面白いことに、厳しくこき使われるよりもよほど、自分たちの未熟さを思い知らされるのです。 

 神様も未熟な者をけなしたりバカになさったりしません。
 大いなる完全な神様の前に真剣に立てば、誰でも自分の考えの浅はかさや愚かさを知ることになります。それなのに、そのような者にさえ愛とリスペクトを失わない神様のお姿にかえって「へりくだらされる」ものではないでしょうか。

 ダビデはこの時それを感じているのです。恐れ多いと感じています。

 こんな者に目を留め、ここまで導いてくださったことを改めて感謝しながら。

19節では「あなたの御目には小さなこと」とあり、全宇宙を治める神様の前に、自らの家の小ささを思わされています。それなのに、この小さな者たちに目を留め、はるか先のことまで告げてくださったことに深く感動しているのです。

 偉大な神様を知る時人は自分の小ささに気づきます。

 全宇宙を造られた方。この世界を造られた方。

 夜空の星を眺める時に自らの小ささを覚え、無限の広がりを造られた神様に感動します。

 そのようにしながら、自分の小ささ、愚かさ、罪深さに気づくとき・・・神様の愛とあわれみの深さに改めて感動を覚え、こんな者でも何かをさせていただきたいと思うものです。


 この感動の中で賛美が生まれます。ダビデは多くの詩篇、賛美を残しましたが、彼の詩篇が心を打つのは、彼が神様の偉大さに心から感動していたからです。

20節で「何を加えて申し上げればいいのか?」とダビデが言います。

 全部をご存知の神様には説明すら必要がないとというわけです。

 あまりにも知りすぎておられる神様の前に、自分の説明などかえって失礼ではないかとさえ思います。

 私たちも祈る際に、あれこれ詳しく説明しないと神様がわかってくれないと考えるでしょうか。まるでそうであるかのように、無駄に説明ばかりをして祈ってしまうこともあるでしょう。でも主を知れば知るほど、もうご存知のお方に、私たちは率直に自分の思いや叫びをお伝えすればよいのだと気づかされます。

 それどころか私たちのことばでは説明しきれない深い思いさえも、主は読み取ってくださって私たちの深い叫びに応えてくださる方ではないでしょうか。ダビデの「何を加えて申し上げればいいのか」ということばは、ある意味神様への最高の賛辞かも知れませんね。


23-24節 ここでは、イスラエルの民が受けてきた恩恵の大きさを再確認しています。

 エジプトからの救いのみわざ、すべてにおける神の助けです。あわれみ。その大きさの前に、ただ感謝しかありません。

「大いなる恐るべきこと」を行なったとは10の災いや海を真っ二つにする奇跡などを指すのでしょう。杖を蛇に変え、水を血にし、様々な害虫などを起こし、天変地異を導き、脱出後には糧を与え、海を渡らせました。そうした神の奇跡のわざを払って、神の民を買い戻し解放されたのです。

23節では「贖う」「贖い出す」と繰り返し語られています。それは必要な代価を払ってその人を買い戻すと言うことです。悪魔の手の元に、罪の支配の檻に入れられていた民を神の所有の民へと犠牲を払って買い戻されました。
特にエジプトでの支配にあった時に、神様はその支配から救い出してくださいました。

 こうして神様は「彼らの神となられた」と24節で語られます。
 
 神様はなぜ神様に心を向けようとしない頑なな人間を、ご自分の伴侶に選ばれるのでしょうか。
 
 イスラエルの民は何度も罪を犯しました。
 
 エジプトから救い出されからも、水がない食べ物が欲しい、肉が食べたい、エジプトへ帰りたいと・・・散々神様に背き、不平を言いました。

 このように神様に誠実に向き合わず、この世のあらゆるものを偶像にしてしまう浮気性の人間に対して、なお花嫁として迎えてくださることが新約で明らかにされています。

 あまりにも不似合いなパートナーです。

 教会は弱く、罪ある群であるのに、主は飾られた花嫁として迎えてくださいます。

 ダビデはこのような主の愛の深さを覚えてほめたたえているのです。

 

 ダビデとしては自分をどこに置いているのでしょうか。

 私は何者でしょうかとの最初の問いに戻るならば、答えは見えています。

 人は「神のしもべ」であるならば、最も幸せな者であるということです。

 今日読んだ箇所に「しもべ」ということばが大変多く登場します。
 「神、主よ」ということばと並んで頻出です。

 10回ほど用いられています。

 しかも「あなたのしもべ」・・・「神のしもべである」ことを告白しながら、神様への感謝と賛美を惜しまず祈っています。

 神様に対して忠実なしもべという姿勢が、その主人からの大いなる恵みと祝福を受ける者の姿勢なのです。神のしもべである、そうありたいと求めて生きる人はなんと幸いでしょうか。

 しばしば「しもべ」とは、自由がなく奴隷に近いイメージを持つかも知れません。でも、神様のように愛とあわれみに満ち、誠実でやさしく幸いを願ってくださる方のしもべは、もはや「しもべ」と呼ぶのはふさわしくないほどです。

 むしろ、イエス様が弟子たちをそう呼ばれたように、「友」でさえあり「子」でさえあるのです。

 大切なことは罪を全く犯さずに生きることではなく、罪を犯す者であっても、なお「神を求めることをやめない」者として生きることです。絶えず主の前に出て、主のしもべでありたいと求め続ける者に、神様は御手を伸ばし赦しと祝福をもって導いてくださるのです。



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今日は午前も午後も涙を流す日になりました。