東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/07/14

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

*** 7/12(日) 礼拝説教概略 ***

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」



 日本の国会図書館のカウンターには聖書のみことばが掲げられています。
「真理はあなたがたを自由にする」。ヨハネ8:32のみことばが日本語とギリシャ語で記されています。そして、国会図書館法にはこの図書館の使命が次のように記されています。「真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」

 聖書のことばを土台として、国会図書館が民主化と世界平和を目指すと言われているのです。聖書を信じる私たちにとって、国会図書館の理念が聖書を土台にしているとは、とても誇らしく嬉しいことではないでしょうか。

 この真理は、単なる事実とは違います。単なる事実は人を必ずしも幸せにはしません。極度の苦しみの中にあったヨブは正論を友人からぶつけられて、こう言っています。
「真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか」(ヨブ7:25)
 愛のない救いに導かない事実はかえって人を弱らせます。
 しかし、聖書が教える真理には愛が伴います。真理は痛みを通ることがあってもやがて必ず幸せへと導く愛の道です。平安に至らせる救いの道です。

 なぜなら、真理は全知全能の愛の神様から来るものだからです。
 神様はウソを持ちません。矛盾を持ちません。悪を持たず愚かではありません。歪みもズレもない方です。ゆえに、おっしゃることは人を救う「真理」であり、だからこそ信頼に足るものなのです。
 本日は真理に向かう姿勢の大切さと、真理に向かう者に与えられる救いの恵みについてともに教えられます。

 今日の場面では、祭司長、律法学者、長老たち・・・当時のユダヤ人の信仰の指導者たちがこぞって宮でみことばを教えているイエス様のところに来ました。
1節 ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て、2節 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」 
これが心から真理を知りたいという願いから発せられた質問ならば、すばらしいことです。イエス様、あなたは誰の権威のもとで教えているのですか?と、真実を確認したいのなら良い質問です。
ところが、彼らは信じる気などさらさらない。イエス様をワナにはめるためにこの質問をしているのです。もし、イエス様がそのまま「父の神の権威によって」と答えるならば、「神への冒涜罪」として逮捕し死刑にしたいのです。その言質を取るために彼らは質問をしました。悲しいことに、真理を求めての問いではないのです。むしろ、ウソでも何でもいいから自分たちが気に入らないこのイエスを排除するために何か都合のいい手がかりはないかと探しているのです。

イエス様は当然に彼らの動機を見抜いておられます。それで次のような問いを彼らに返しました。
3節 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。
4節 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」

 イエス様は彼らが真理を求めず、自分を陥れようとしていることを知っています。
 それで、そのような罪深い考えではなく、真理と向き合って欲しいと願っておられます。彼らが本気で真理を求めるつもりがあるのなら喜んで真理を与えたいのです。


 このイエス様の質問に彼らはどのように答えたのでしょうか。5-6節。 

5節 すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
6節 だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」 
 
とても残念です。彼らは「自分の答え」をまっすぐに言えません。
自分がこう言えば、人はどう見るか?どう反応するのか?そればかりです。
 「政治的な駆け引き」と言ってもいいでしょう。有利になるか不利になるかを何より考えています。自分の立場がどうなるかを考えています。人の評価にどう影響するかを考えています。そのため、結局、「自分の心の真実」を言うことができません。

 それで導き出された結論は何でしょう?7節にあります。
「どこから来たのか知りません」でした。
 天からなのか、人からのなのかを真剣に考え、議論するのならば彼らにも見込みがあります。でも、そう答えたら「どうなるか」「有利か不利か?」その発想しかありません。結局、どちらに答えても自分たちに不利と考え「わかりません」という答えに「した」のです。

 有名なマーチン・ルーサー・キング牧師のことばに、こういうものがあります。
「最大の悲劇は悪人の抑圧や残酷さではなく、善人の沈黙である」

 真実が見えているのに、真理が分かっているのに人を恐れて「何も言わない」・・これが悪人の残酷さよりある意味悲劇だという表現です。真理を知る者、わかっている者が黙らずにきちんと語っていれば、それ以上混乱せず終結するということがこの世界には多くあります。
 
 宗教指導者たちはわかることができたのに「わからない」と答えました。わかろうとしなかった。ゆえに、多くの人がイエス様を信じられずにいました。宗教指導者たち、聖書を学ぶ彼らが真理を求め、愛を求め、それらを民に伝える者であったのなら、より多くの人が救われたでしょう。 

 これらのやり取りから分かることは、彼らには真理に向かう姿勢がなかったということです。真理を知りたいという求めも、「真理」を語る者になろうという姿勢もありません。

 彼らは何者でしょうか??実に、当時のユダヤ人たちに神のみことばを教え導く人たちです。祭司長、律法学者、長老。現代風に言えば、牧師や神学校の先生、教会のリーダーたち。そういった者たちが「真理」を求めなくなったら、語らなくなったら終わりです。堕落していた当時の信仰の指導者たちの姿です。 

 このように真理を求めず、心にあることも語れない者たちにイエス様の答えは何でしょうか?

8節 するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 

 わたしも言いませんときっぱりと断られました。珍しいです。イエス様は誰に対しても何かしらお答えをきちんとくださる方。しかし、あなたがたには「私も言わない」と言われたのです。

 私たち自身にも主は語られています。真理を与えるために来られたイエス様ですが、真理を拒み真理が明かされる事を妨げる者に、イエス様は「わたしも言いません」と断られました
 この厳しさは、真理を求める者、真理にとどまる者、真理に生きる者になって欲しいというイエス様の切なる願いの現れです。主は、すべての人が真理を知り、救いにあずかり、さらに他の人々をも救いに導く幸いな人になって欲しいのです。

 私たちはその主のみ思いをしっかり受け取りたいのです。
 ここに登場した愚かな指導者たちを自分には関係のない他人事で済ませず、私たち自身も問われる者でありたいのです。

 しばしば、真理よりも自分の欲を満たすことに奔走する私たちです。
真理を求める動機ではなく、自分の気に入る結果をもたらそうと働きかけることもあるでしょう。自分の願望を実現させることに心を囚われ、真理などどうでもよくなることが人にはあります。

 私自身の経験でもありますが、子どもたちを注意した時に、親自身が勘違いや思い違いをしていたと途中で気づくことがあります。しかし、既に叱ってしまった手前引き下がれず「こちらが間違っていた、ごめん」と言えずに、あれこれ屁理屈を述べて自己正当化することがあります。もはや自分の意地やプライド、権威にしがみつく姿勢。真理はどうでも良くなっていることがあります。かえって子どもを傷つけ矛盾に対する怒りを覚えさせてしまいます。

真理はイエス様にあります。みことばにあります。
イエス様に人を向かわせるような問いかけ、みことばに導いていく時、それは「真理に向かう」ものになります。でも、自分の心を満足させるように働きかけることは自己中心であって、真理とは反対にありますよね。

あるいは教会が陥る弱さとして、こうしたコロナの影響等で存続も危うくなるケースもあり得ると思います。そういう中で「教会の存続のために人を集めなければ」となってしまうと空回りをします。
本来、教会が人に関わる目的は、あくまでも人々に真理のみことばを伝え、イエス様を知っていただき、その方が救われ幸せになることです。 神の真理を証しする使命を持っているのであって、「存続のために人集めをすること」が目的となってはいけないのです。「組織の維持のために人を集め利用する」ならば、人を道具にしてしまいますよね。愛は失われ、真理は見失われます。それは教会だけでなく企業等、あらゆる組織においても同様かも知れません。

そういう人間的なものにせず、教会は例え組織自体が弱ることがあっても人々に絶えず真理の道、救いの道を伝え続け仕えていくべきです。


 神様は今日、あなたに語っておられます。あなたは真理を求めてわたしのもとに来ているのか?と。あなたの心の真実を語り、わたしの示す真理へと歩めと招いておられるのです。

 イエス様に「わたしも言いません」などと言わせるような歩みをしたくないですよね。

 あなたの心が「救われたい」と願っているのならば、他の人がどう思おうと関係ないことです。正直に心の真実を神様に打ち明け、神様が語られる真実な救いのことばを受け取ればいいのです。

 また、あなたが既に真理を知る者とされているのならば、それを語ることをやめてはいけません。沈黙してはいけません。私たちに口とことばが与えられたのは何のためでしょう?不平不満ばかり言うためではありません。人の顔色を伺って有利不利を考えて述べることばを言うためではありません。

 神の真実を語り告げるためであり、真理のみことばを宣べ伝えるためなのです。


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