*** 祈祷会説教概略 ***
Ⅱサムエル記 8章~9章「二つの契約の成就」
8章、9章、それぞれにぱっと見ただけではよく分かりませんが、2つの契約が背景にあります。そしてダビデの二つの顔と言ったらいいでしょうか。戦士としての姿、あわれみ深く忠実な姿の両方があります。ただ、それ以上に背後で導かれ恵みを約束通りに施される神様に目を向けていくべきところです。
神様の救いの恵みをともに教えられましょう。
8章ではダビデの「戦士としての厳しい姿」が語られています。容赦ない厳しさを感じます。特に、5節までのところで・・・ペリシテ人、モアブ人、ツォバの王、アラム軍らを討っており、彼らに対しては厳しく対応していることがわかります。
ただ、それでも注目すべき点は明らかにそこではなく、神様の契約の成就、神様のみわざが常になされているということにあります。
6節後半 「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」とあるのです。
これほどの戦果を挙げれば一般的には英雄です。
歴史の教科書で言えば、アレキサンドロス大王の大遠征のように、ダビデの征服と領土拡大として、ダビデの偉大さが後世に残されるのが一般的でしょう。しかしながら、聖書は他の歴史書とは全く違うのです。
強調されていることは、ダビデの力ではなく、「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」ということなのです。
この事は少し先の14節でも繰り返されており、やはり勝利を与えたのは神様であることが明確にされています。
しかもこれは、実に神様の契約の成就であったと理解するならば、ダビデの手柄などでは決してなく、ひたすらに神様の恵みのわざであったと知ることになります。
実に、創世記15:18のみことばがここに成就しているのです。
それはアブラハム(当時はアブラム)と神様との契約でした。
それによれば・・・
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプト川から、あの大河ユーフラテス川まで。
とあります。
ダビデの時代からおよそ1000年は遡った時代です。
そんな昔の契約ですが、実にここにあるようにアブラハムの子孫であるダビデの時代(そして、その子ソロモンの時代)にこの契約が実現することになったのです。
エジプトの川からユーフラテス川までの領域が、ダビデ時代に次々とイスラエルの領土となっていきました。
最初に契約されていた事実からすれば、これは当然の帰結ですね。
主が約束され、主が与えられたのです。
この視点を失って聖書を読めば、ただダビデはすごい!で終わってしまいます。でも、そうではないのです。主の約束が必ず守られることを示していると言えます。ダビデ自身も自らの偉業を残したいとは願わず、ただ神様の栄光が現れることを願っていたことでしょう。
なぜなら、ダビデ自身は主のみこころを求めながら近隣諸国と戦い、国を守っていましたし、戦利品を自分の私財にするのではなく主のために「聖別」しているからです。
11節 「ダビデ王は、それらもまた、主のために聖別した。」
11-12節を読むと、すべてにおいてダビデがそのようにした事がわかります。
戦いの勝利を自分の名誉や財宝を蓄えることを目的としていないのです。
私たちも神の栄光をいつでも現すことを喜びにしたいのです。
仮に自分の葬儀があるのならば、自分がどれだけの功績をなしたかではなく、神様が私にどのような恵みをくださったのか、神様のみわざの素晴らしさを皆さんに知って欲しいと願います。
故人を偲ぶことはもちろん大切なことですが、その故人が信じ続けてきた神様はどういうお方なのかを知らせる葬儀。教会の葬儀はいつでもそうありたいですね。
9章ではダビデの「あわれみ深く忠実(誠実)な姿」が語られています。
忠義に厚いダビデの一面です。
1節でダビデはサウル王家の者で生きている者たちを調べさせるよう言いました。
「私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい」
ダビデの今があるのはもちろん神様のおかげですが、神様によって与えられた友がいました。それはサウルの息子ヨナタンです。
ヨナタンは命がけでダビデを守り、父サウルとダビデの間で平和を保とうと努力しました。父サウルに対しても、親友ダビデに対しても最善を願って歩んだ人物。ですから、ダビデはヨナタンの恩、ヨナタンとの契約にしっかりと応えるということを心に刻んでいたのでしょう。
主の前に誓った約束(ヨナタンとその家に恵みを施す約束)であり、ヨナタンに対する誠実さとして彼はここでヨナタンに関わりのある者たちにあわれみを示しています。
それどころか、サウル王家の生き残りの者たちすべてにまで拡大して、真実を尽くしたいと言うのです。
3節 ツィバというサウル王家のしもべが情報をもたらしています。
3節 ツィバというサウル王家のしもべが情報をもたらしています。
「ヨナタンの息子で足の不自由な方がいる」と。名前はメフィボシェテ(6節)でした。
6節 ダビデは彼を招きます。
7節 ダビデは恵みを施そうと伝えています。
それは大盤振る舞いな対応でした。サウルの地所をすべてあなたに返そうと言うのです。さらには、王の食卓でいつも食事ができるようにすると言います。破格の待遇です。
何故なら彼はサウル一族であり、それだけでもダビデに敵対してしまったのでひどい扱いを受けても仕方がない立場。またヨナタンとの契約からは何十年も経っています。ヨナタンの息子メフィボシェテには既に子どもがいました。さらに彼は両足が不自由で、戦士にもなれず、ダビデの役に立つような働きはできなかったでしょう。
それでも、ダビデはその彼に、ヨナタンとの契約のゆえに恵みを施しました。
だからメフィボシェテは8節で「いったいこのしもべは何なのでしょうか」と思わず感動して言ったのです。「死んでいた犬」とも彼は自分を表現しました。
だからメフィボシェテは8節で「いったいこのしもべは何なのでしょうか」と思わず感動して言ったのです。「死んでいた犬」とも彼は自分を表現しました。
これはダビデ自身が神様の恵みとあわれみの深さに感動してしばしば口にする表現に似ています。受けるに値しないと思う者が、豊かな恵みをいただいた時に発することばです。
メフィボシェテの立場は・・・遠くにいた者、両足が不自由で弱い者、敵対していた者、死んだ犬のような者でした。
しかし、ダビデの示したあわれみによって・・・王の近くに招かれ、彼らに仕えるしもべまで用意してもらい、サウルの地所を受け継ぐことができ、ダビデの家族のように食事をともにしたのです。まるで、愛するわが子のように。
ここに、神様の救いの恵みを見るようです。
しかし、ダビデの示したあわれみによって・・・王の近くに招かれ、彼らに仕えるしもべまで用意してもらい、サウルの地所を受け継ぐことができ、ダビデの家族のように食事をともにしたのです。まるで、愛するわが子のように。
ここに、神様の救いの恵みを見るようです。
私たちもこのような恵みをいただいています。
メフィボシェテの姿は私たち自身のようです。
(神様から)遠く離れていた者、敵対していた者、力のない小さな者、罪のゆえに死んだ者でした。
しかし、神様との交わりに回復し、神が味方となり、私たちを用いてみわざをなさり、神の食卓で神の子として歩ませてくださる。天使たちさえ、私たちに仕えて守るようにしてくださいました。
このすばらしい恵みを受けた者として、ダビデのように恵みを他の人に施す者にならせていただきたいとも思います。