東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書 20章9-19節「捨てられたのに勝利?」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/07/21

ルカの福音書 20章9-19節「捨てられたのに勝利?」

*** 7/19(日) 礼拝説教概略 ***

ルカの福音書 20章9-19節「捨てられたのに勝利?」





 この東村山市は新型コロナウイルス感染者数は累計で26人。

 コロナが騒がれ始めた頃から約5カ月。1か月平均5人程度で推移しています。
 皆さんが頑張って気をつけているからこれぐらいで留まっているのだと私は思うのです。

 しかし東の村の山と言えど・・・東京です。

 東京由来とか諸悪の根源とか東京問題などと言われ、なんとなく肩身の狭い思いをします。GoToキャンペーンからも外されました。元々行く気がないにしても「除外された」という部分でさみしい感じがします一律延期なら理解できるのですが。

 また、皆さんご自身の個人的な経験としても、見捨てられたと感じる経験、除外されたという経験をしたことがあるかも知れません。

 特に若者の自殺率の高さがいつも気になる日本です。15-34歳の死亡原因の一位が自殺です。他のどの国よりも高い。食べ物がなく飢えで死んでいく多くの人々を見守っていたマザーテレサのことばが刺さります。

「最大の悲惨は飢えで死ぬことじゃない。誰からも愛されていない、必要とされていないと思い込み、孤独に死んでいくことだ」とのことばです。

 SNS、インターネットは便利になりましたが、同時にそれによって誹謗中傷が相次ぎ、追い込まれ、孤独になって死んでしまう人も後を絶ちません。

私たちの存在の根本から支えてくれる愛が必要です。

神様だけがその心の空洞を埋めることができる方です。良い時も悪い時も私たちへの愛を捨てません。握った手を放すことなど決してなさらない方。組織・グループ、あるいは個人から見放され、煙たがられてもこの方はあなたを拾い上げ、掴んだあなたの手を決して離しません!それどころか、この世が邪魔だと言ったとしても、神様はあなたを重宝されます。「いのちが大切だ」という一般論ではなく、「あなたが大切だ」と言われる主です。神様は十字架においてその愛を示されました。イエス様の十字架を見上げる時に、捨てられたのに勝利するという逆転勝利が起こっていることに気づくのです。ユダヤ人から捨てられて十字架に磔にされたイエス・キリストです。

しかし、その十字架の死が信じるすべての人のためにいのちをもたらしました。罪と滅びに対する勝利です。そしてこのキリストの十字架のもとに来る者にも不思議な逆転勝利を与えてくださるのです。

長らく病で苦しんでもうダメだと思っていた者たちがイエス様と出会い癒され人生が変えられました。

イエス様と一緒に十字架に磔にされた犯罪人は、死の直前にイエス様を信じてパラダイスへ行きました。

タイトルにあるように捨てられたのに大勝利がもたらされるという神のみわざです。

それは私たちに勇気と慰めをもたらしてくれます。ご一緒に教えられていきましょう。



1. 造り主を忘れ、神の子さえ捨てる愚かな罪人


 主イエス様は、ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出る農園のご主人のたとえ話をされました。 

9節 また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。 

 ある人とはこの世界の造り主・神様のことで、農夫たちは人間です。ここでは特にユダヤ人たちを意識しています。神様はこの世界を造りました。そして管理を人にゆだねられたのです。その場合、この世界の持ち主は変わらず神様で、人間は預けられたこの世界を健全に管理して豊かにするよう期待されています

 さて、10節では収穫の時期になって主人が農夫たちのもとに使者を遣わしたことが語られます。ところが、農夫たちは主人から預けられていることを忘れたかのように、主人の使者を打ち叩いてしまいます。このようなことが何度も繰り返されました。これは、神様が何人もの預言者を遣わしましたが、イスラエルの民がその預言者を敬わずひどい目にあわせ、時には命まで奪ってしまった事を指しています。神様のおことばに聞き従わないことが度々あったということです。

 そして、最後に主人は自分の愛する息子を派遣します。我が子ならば軽んじないだろうと。

 13節 ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』

これが神の御子イエス様です。ところがどうでしょうか?

14節 ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。 

こう言って実に、主人の息子までも殺してしまうのです。

神の子イエス・キリストが遣わされても、人々が受け入れず信じない姿です。

それだけでなく、十字架につけて殺してしまう罪深さを現しています。結論として、主人は息子を殺した農夫たちを滅ぼし、他の人に農園を任せるだろうと締めくくられます。終わりの時の神の審判です。

これを聞いた人々は「そんなことが起こってはなりません」と否定します。「起こってはならない、あり得ない」と言った彼らに、イエス様は「では」と、もう一つのたとえ話をなさいます。

17節で「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。 
 
 ある者たちからは不要だと捨てられた石が建築上重要な「要の石」となると詩篇118篇にある。「そんなことは起こり得ない」と言うあなたがたは、それをどう理解するのか?と問われたのです。神の御子が人間に殺されるなんてあってはならない。

 しかし、聖書は「捨てられた石が要石になる。」と預言するのです。

 実に、あなたがたが「あり得ない」と思っている事こそ、神の計画されている救いの道なのだとイエス様はおっしゃるのです。

十字架の死を意味していました。人々からは邪魔だ!不要だ!と捨てられ殺されるのです。

 しかし、このキリストの十字架の死こそが、その殺した本人たちをも救う愛のみわざとなるのは不思議です。

神様は人に捨てられた御子こそが人を救う救い主になるようにされました。

それは人の考えや思いが間違っていることを示すためです。「あなたがたは無くても全く問題ないむなしい物にしがみつき、本当に必要なものをいらないと言って捨てているのだ」と主はおっしゃっているのではないでしょうか。

それを人々に教え示すために、白馬に乗った王子様が華麗に悪人を倒して救うのではなく、人から迫害され捨てられ殺されるという方法を用意されたのです。

人間が正しいと思いこんでいた価値観を改めさせ、そんな愚かな自分のためにさえ十字架で身代わりとなられた深い愛を知るためです。

人々が捨てたのに、捨てたそのものが救いのど真ん中になる。

これによって、人は自分たちがどれほど罪深い行為をしているかを知ることになるのです。



2.要の石はユダヤ人と異邦人を結び合わせた


そして、ユダヤ人から捨てられたことで、ユダヤ人以外の人々、異邦人へと福音が広がる神の不思議なご計画でもありました。

17節の「要の石」は、以前の訳では「礎の石(礎石)」とされ、土台の意味合いが強かったかと思います。しかし、この「要の石」とは、石造りの建築のアーチ部分の真ん中最頂部に最後に差し入れて左右の均衡を保つクサビの役目を果たすものらしいです。

エペソ2章では、イエス様の十字架は隔ての壁を壊し、二つの敵対する者たちを一つにすると語られています。それはイスラエル人とそれ以外の民族(異邦人)です。

アーチ型の石橋を建造する場合、両側から石を積んでいき、最後にそのど真ん中に要石というのを入れて完成させるそうです。

両側からの力の均衡をそこで保ち、条件が整えば、非常に堅固で1000年単位で長持ちするものもあるそうです。

イエス様はイスラエルから捨てられます。しかし、それゆに異邦人とイスラエル人を結び合わせるど真ん中の「要の石」となり、十字架がその二つを結び合わせ両者に救いをもたらすものとなったことが語られています。


こっちサイド、あっちサイドという考えがなくなり、隔ての壁が壊されて二つのものが一つにされるのです。ラグビーの試合終了の合図は「ゲームセット」ではなく、「ノーサイド」と言われます(少なくとも日本では)。

ノーサイドとは何でしょうか?

こっちサイドとあっちサイドで戦ってきたけれど、試合が終わればお互いの健闘をたたえ合う仲間。もうあっちサイド、こっちサイドという敵対関係ではなく、一つの仲間になる。もうサイドという考えがなくなるので「ノーサイド」です。

これはまさに聖書が語っていることです。

エペソ2章にそのことが語られています。そこではイエス・キリストこそ要の石なのですと結論されています。二つの別の者たちが、敵対していた者たちがキリストにあって一つにされていくと語られているのです。



3.捨てられたのはあなた不要だからではない!神が・・・


 いらない、邪魔だと言われて捨てられ殺されたのに、それがかえって罪と滅びに対し、あらゆる敵意に対して勝利をもたらすというのはなんと不思議な神様のみわざでしょうか?
 引用元の詩篇118篇では、すぐ後にこう続いているのです。
詩篇118:23 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。

 人間の理解を超える不思議な驚嘆すべき神様のみわざです。


 実にこの救いのみわざは、様々な物を逆転する不思議なみわざです。後の物が先になり、弱い者が勇者となります。

 それこそ捨てられた者がすばらしく活躍する者とされ、役に立たないと思われた者が重宝され、嫌われ者が人気者にされます。それが神様のみわざです!!

 神のご計画によって召された者たちは、捨てられたのに勝利を収める者にならせていただけるのです。

 神の国では「取るに足りない」と言われた者が用いられます。

 神の国では罪人の頭と言われた者が悔い改めて立ち直り、かえって宣教のわざに励みます。

 神の国では権力も財力もない子どもたちや弱い者たちが尊ばれます。


 もし、あなたが捨てられた、見放された、疎まれたと思うならそれは、神様が新しい恵みの場で用いようとされているのです。
 
 
 捨てられたのは、あなたが不要だからではありません。

 罪人は、必要なものを捨ててしまう愚かさを持っています。

 真実を知る神さまは、あなたをもっと良い場で用いようと他の場から退けられることをご計画として持っておられたのです。


 シナリオライターの柳川茂さんという方がいらっしゃいます。

 多くのアニメ制作に携わって来た方です。本当に有名なアニメを手掛けています。

 タイムボカンシリーズ、タッチ、サザエさん、セーラームーン等の脚本家・構成作家として活躍された方です。この方はクリスチャンとなられますが、その受洗の頃に「ファーマーさんは見捨てない」という絵本を制作しました。

 少し内容をご紹介します。

 じゃがいも娘が主人公、彼女は他の食材たちから誘われ「一緒にカレーになろう!」「ポテトサラダになろう!」と声をかけられます。でもじゃがいも娘は世界一の料理になりたいと願い、プライドも高く、どの誘いも断っていました。

 そのうちになんと芽が生えてきてしまうのです。

 そうなったら、もう誰からも声をかけてもらえなくなりました。

 みんなから馬鹿にされ、けむたがれました。

 もう誰にも必要とされていないと思った彼女は落ち込み、冷たい北風に吹かれるまま畑の方に転がっていきました。
 
 しかし、そこで彼女を拾ってくれた人がいました。ファーマーさんです。

 この人は「もう大丈夫だよ」と温かく彼女を迎え、土のベッドに寝かせてあげたのです。

 するとどうでしょう?

 春が来て芽を出し、葉が茂り花を咲かせ、じゃがいも娘にはたくさんの子どもたちができたのです。

 芽が出たじゃがいもなんてもういらないと捨てられた彼女ですが、造り主はその一番用いられる道を知っていたのです。

 実に柳川さんは、「自分こそ、このじゃがいも娘」なのだとおっしゃっています。
「あなたがどう思うおうと、わたし決してあなた見捨てない」という神様の声を聞いて、心の扉をほんの少し開き始めたのだと証ししています。

 捨てられたと思ったら、神様に拾っていただけばいい。

 神様はあなたが最高に輝く道を知っておられます。そして神様は良い時も悪い時も、握ったあなたの手を決して離しません。

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