東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 11章1-27節「ダビデの罪」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/07/23

Ⅱサムエル記 11章1-27節「ダビデの罪」

*** 7/22(水)祈祷会説教概略  ***

Ⅱサムエル記 11章1~27節「ダビデの罪」



 連戦連勝、圧倒的有利な状況の中でダビデは大きな罪を犯しています。

「成功につける薬はない」と言われますように大成功の後は危険です。

 スポーツの世界でも、大勝利の後は難しいとよく言われます。次の試合で驚くほどあっさり敗れてしまうことがあるのです。

 そこが人間の弱さなのだと思います。ダビデもうまくいっているゆえの高ぶり、油断があったのかも知れません。 

1節によれば、彼は兵士たちが命がけで戦っている最中、自分だけエルサレムに残って一人平穏な日々を送っていました。彼は今までは一緒に戦場にいて、そこで指揮し、神様の助けをいただきながら歩んできました。でも、多くの領土を手にし、また勝利が目前にある中で余裕が生まれていたのでしょう。

2節の初めに、夕暮れ時にダビデが床から起き上がったとあります。
悠々自適な生活に見えます。のんびり昼寝をしていたのでしょう。このあたりにダビデの油断・慢心が現れています。

そこで屋上を歩いていた時、一人の女性が体を洗っているのが見えました。もちろん、彼女には誘惑する意図などありませんが、構造的に見えてしまったのでしょう。彼女は月のものの汚れから身を洗いきよめていたようです(4節)。

ダビデはこの女性に完全に心が奪われ、彼女を調べました。
そこで、3節にあるように、ヒッタイト人ウリヤの妻バテ・シェバという女性だと分かりました。ダビデはどうしても彼女を欲しくなり、王の権限を間違ったことに使ってしまいました。ダビデはこの女性を招き入れ、彼女と関係してしまいます。
その後、あるニュースが届きます。

5節にあるように彼女はダビデの子を妊娠してしまったのです・・・。

 ダビデは非常に焦ったことでしょう。ショックを受けたことでしょう。

 そして、この時ダビデが考えたことは「どうやったら隠せるか」ということです。

 彼は策略を巡らし戦士ウリヤを戦地から呼び出します。彼には兵士や戦地の状況を尋ね、いかにもその目的で呼び戻したかのうにしています。そしてダビデは彼に家に帰るようにしきりに勧めました。妻のバテ・シェバのお腹の子を、ウリヤの子であるかのように見せることが目的でした。

ところがウリヤは真面目な人で家に帰りません。ダビデが「なぜ家に帰らなかったのか」と聞くと・・・

11節 「神の箱もイスラエルもユダの仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私が家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るということができるでしょうか」と答えているのです。

彼はダビデの前に誓いまで立てて固辞しました。

このウリヤの真面目な光が、かえってダビデの闇を濃くしているように思います。

ウリヤはユダヤ人ではなくヒッタイト人でありながら、ここではダビデ以上に神の前に人の前に誠実に歩もうとしているようにも見えます

普段のダビデであれば、彼もまさにそうでしたが・・・でも、この時はもう泥沼にはいまっています。我を失っています。

ダビデは、今度は彼を酔わせて家に帰そうとしますが、それでも彼はそうしませんでした。

ついにダビデは恐ろしい手段に出ます。

ウリヤ自身に手紙を持たせヨアブに命令をします。

内容は15節です。

なんと戦場の最前線に行かせ、ウリヤだけを敵の前に残して他の軍は撤退せよと命令を出したのです。つまり、敵の手によって殺されるように装えと命じたのです。

将軍ヨアブは、非情なところもあるような人ですからこれに平然と従ったようです。

結果、ダビデの計画通りにウリヤは戦場で死にします。

しかし、これは戦死ではないでしょう。

明らかにダビデの殺人です。


ダビデは権力を利用して姦淫の罪を犯し、隠そうと計略を練り偽証し、さらには敵の手を利用して殺させました。彼の人生最大の汚点、最大の罪だと言えます。


私たちはここで思うのではないでしょうか。

なぜこんなに信仰熱心で、誰よりも神様に近く歩むダビデが??と疑問を感じるのです。

例えば、もし仮にサウルがこのような罪を犯したとしたら、印象がまるで違うように思うのです。殊更にサウルを悪く言うつもりはありませんが、彼は嫉妬してダビデのいのちを狙い続けましたから、サウルなら「ありえるかな?」と思うかも知れません。

あるいはヨアブのような人がこういうことをしたのなら、あまり驚かないのではないでしょうか?

でも、ダビデだからこそ驚きます。サウルに命を狙われてさえも、神に油注がれた方だからとサウルに手出ししなかったほどの人です。神に忠実な人です。信仰に厚い人です。

 何を私たちは語られているのでしょうか。

 「これが人間なのだ」という神様のメッセージに思えるのです。

どんなに立派な信仰者だとしても大きな罪に陥ります

弱いところを突かれると太刀打ちできず負けてしまいます。

いや、彼は立派に歩んできたからこそ、一つの失敗で失うものがより大きいと感じ隠す思いが強くなったのではないでしょうか。ずっと悪い事をしてきた人は、今更隠しても仕方ないと思うので泥沼にはまらないとも言えます。

けれども良い評判、高い名声を受けて来た人ほど、罪を隠すために罪を犯し・・・繰り返していきやすいのです。地位の高い人ほど、信頼されている人ほど、期待されている人ほど、それを裏切ってしまったことを知られることは恐怖です。

真面目な人ほど罪のドロ沼にはまりやすいという一面もあるのではないでしょうか。


 26-27節 バテ・シェバは夫を愛していたのでしょう。死を悼み悲しんでいます。しかし、王様に対して逆らう余地などなかったことでしょう。そして、ダビデは彼女を妻の一人に加え、むしろ表面上良い人として歩みを続けようとしています。

しかし、最後の1節がすべてです。
「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」とはっきりと語られています。
 
私たちは何を神様から語られているのでしょうか。人間はどこまで行っても、どんなに正しく立派そうに見えても、やはり罪に対して弱い者なのだと教えられます。そしてどれだけの功績を残そうと、罪は神様を悲しませ、みこころから離れる道なのです。


 同時に、人の弱さはそれぞれに違うことも思わされます。誘惑にあいやすい分野は各人で違います。

ですから、「あんな罪を犯すなんてダメな人だ」と安易に裁くことはしてはならないとも思うのです。

自分ならダビデのように人を死なせるほどの罪はすまい、姦淫などすまいと思うかも知れません。

でも、自分の最も弱い部分をとことんつかれる時、私たちはそこまで冷静に対処できるでしょうか。

ある人は地位や名誉を失うことに非常に弱く、ある人は名誉も地位も興味がありません。

ある人はお金の誘惑に弱く、お金のこととなると人が変わります。しかし、ある人はお金にほとんど興味がないので、貯金が今いくらあるかさえ分かりません。

人をさばきやすい人もいれば、人にはおおらかな対応ができる人がいます。

感情の起伏が激しく、怒りやすく、罪を犯しやすい人がいます。でも、感情があるのだろうか?と思ってしまうほど理性的な人もいます。

人を恐れる弱さを持つ人もいれば、あまり人の反応など気にせず歩める人もいます。

ひとりひとり、弱さは違います。

それでも共通しているのは、誰もが例外なく弱い部分が必ずあることです。
ですから、自分の強い分野を他の人の一番弱い分野と比較しても意味がありません。
 

罪を言い現しにくい交わりにしないことが求められます。

誰にも言えない。言ったらさばかれる。言ったら責められる。恥をかかされる。
そう思えば誰も言えなくなります。

隠すしかないという状況をお互いにつくらないことが大切なのではないでしょうか。

日本は恥の文化ゆえに、本当に他の人に知られたらお終いだという感覚が余計に強いように思います。恥は隠すべきとさえ学んでいるのです。でも、聖書は罪を隠すのではなく神の前に「言い現す」ことを教えます。

聖書の強調点は「一切、微塵も罪を犯すな!」ではなく「罪人であることを認め、悔い改めて主に拠り頼んで生きよ」です。

ダビデがそのワナの中で次々と罪を重ねてしまったことから私たちは学ぶ必要があります。

罪を犯さないにこしたことはないです。祈りながらそう歩むべきです。

しかし、それでも罪を犯すのが人間です。

私たちは完璧ではありえないからです。

ダビデほどの信仰者でさえこうなのですから。

私たちはこの何倍も罪を犯す者と不信仰な者ではないでしょうか?

 
 コロナ感染を隠したい心情と似ているかも知れません? コロナに感染したら「十分に気をつけなかったのでは?」「感染者が多い地域に行ったからだ!」等と何か悪者のように、犯罪者のように非難される傾向が少なからずあります。

「コロナに感染しているかも?」ということさえ口にしにくい世界です。当然隠したくなる環境です。正直に言ったところで得することなどあまりなく、叩かれたり、仕事を失ったり、白い目で見られたり、引越しを余儀なくされたり・・・

そうやって言えない人が多くなると、どうなるでしょうか?
積極的に検査を受けない人が多くなると、どうなるでしょうか?

かえって悪くなっていきます。

言えない、検査を受けない、隠す・・・

感染が広がるのです。この現実は罪の現実と似ているように思います。


 罪を神様に言えない。兄姉の交わりで自分の弱さや罪深さを言えない。隠すしかない。いい人のふりをする。罪を一つ犯したら、それをどう隠すかばかり考えると、ますます罪を重ねてしまうのではないでしょうか。

 ですから、私たちは罪の現実を率直に「受け止め合って」歩みたいのです。

 「赦された罪人」であることをお互いに覚えたいのです。

 一つも罪を犯さない完璧さを追求することはかえって危険であり、むしろ罪を犯した時にいかに早く悔い改める事ができるか。そして赦しの中で改めていく人生に歩み始められるか。そのことこそより大切なことです。

 だからこそイエス・キリストの十字架のそばにいつも立ち続ける者でありたいと思います。だからこそ兄姉の交わりはさばき合うものではなく、赦し合い祈り合い支え合うものでありたいのです。

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