東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 13章1-39節「ダビデと子どもたち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/08/26

Ⅱサムエル記 13章1-39節「ダビデと子どもたち」

*** 8/26(水)祈祷会 説教概略  ***


 家庭の問題はいつの時代においても最も軽んじられやすい部分であると同時に、人生に最も大きな影響をもたらす重大事ではないでしょうか?家庭環境が私たちに与える影響は非常に大きいと言えるでしょう。

ダビデも家庭のことで悩んだという意味では私たちの大先輩です。特に彼の場合には、奥さんが多くいたゆえに起こった問題と、子どもに対してしっかりと向き合えなかった課題が大きかったと言えます。そしてまた、バテ・シェバとの罪、ウリヤに対する罪の問題の影響もその背後にはありました。

 しかしながら、じゃあそこに主の赦しの恵みがなかったのかと言うとそうではありません。一つ一つの苦しみの出来事の中に主が共におられ、痛み苦しむダビデに寄り添い、ふさわしい助けや励ましをも主は与えておられました。何より、主イエス様のご先祖の中に、ダビデのように罪深い弱き者を主が加えられたのです。私たちもそのゆえに励ましをいただきますし、主はあらゆる罪の真っただ中にお生まれになったお方なのです。

さて、この13章でダビデの子どもたちの愛憎劇が語られています。
1節では、3人の人物が登場します。人物相関図を参照ください。
ストーリーの概略から少しお話します。




ダビデの息子の一人アムノンが、腹違いの妹タマルに恋心を抱きます。彼女は「美しかった」と1節にあり、アムノンはその美しさに惹かれてしまったということが考えられます。

ただ、その恋心は少し行きすぎていて2節にあるように病気になるほどでありました
それに加え、彼にはあまり良くない友人ヨナダブという人がいまして、アムノンに悪い助言を与えています(3節)。「病気のふりをしてタマルに食事の世話をさせればいい」とヨナダブは助言しました

しかもその時に父ダビデを騙して、ダビデからタマルに頼むように仕向けさせます(6-7)

最終的にこの助言の通りに事は運び、アムノンは腹違いの妹タマルと無理やり関係を持とうとします。

ただし、その時にタマルはこんな風に言っています。 

13節 私は、この汚名をどこに持って行けるでしょうか。あなたも、イスラエルで愚か者のようになるのです。今、王に話してください。きっと、王は私があなたに会うのを拒まないでしょう。

 ぜひ王に相談してください。きっと王は、私とあなたが会うことを許してくださるでしょう。それは、王にお願いし、正規の方法で結婚について相談するべきだと言うことです。レビ記の規定上は問題ですが、例えばアブラハムも母親違いの妹サラと結婚した前例もありましたので、当時の社会では全くあり得ないことではなかったのです。

 ところが・・・アムノンは自制できず、力づくでタマルと関係を持ちます。これだけでも非常に罪深いことですが、さらにアムノンは目的を達するとタマルに対して強い嫌悪と憎悪の感情を抱いてしまいます。 

15節 アムノンは、激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った。「起きて、出て行け。」

 身勝手な姿があります。アムノンは自分のした行為を嫌悪し、彼女を見るとそれを思い出してしまうということかも知れません。冷静になった途端に様々な感情、罪悪感や敗北感などが押し寄せてきたということでしょう

一般論としても、多くの夫婦がお互いの者になった時から徐々に愛することを失っていく現実があります。「あの時はあんなに愛おしく思ったのに、今は憎らしい」そんな夫婦も少なくありません。

「自分のもの」という感覚がこのような悲劇をもたらすのかも知れません。たとえ結婚し、一心同体となったとしても、主が愛されている尊い人として尊び合うことを失ってはなりません

タマルは彼のその態度に対してこう言っています。 
16節 タマルは言った。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことですから。」 

ところが、アムノン16節後半~17節にあるように彼女の言うことに耳を傾けず、追い出してしまいました。アムノンは、自分の問題と向き合い、責任を取らなければなりませんでした。当時の教えによれば、処女を奪った男性は、その女性と一生涯夫婦として歩むことが責任を取るということでありましたが、それを放棄したのです。このような責任を取らない、悔い改めない行為はさらに事態を悪化させます。

タマルの実の兄アブサロムが、この事実を知りアムノンを非常に憎んでしまいます。実はこの時、ダビデの耳にも一部始終が知らされ、ダビデも激しく怒ったと記されています(21節)。

ただ・・・ダビデは何も対応をしませんでした。
アムノンを可愛がるばかりで、彼の問題と向き合いきちんと指導ができなかったのです。自身の罪の問題もあり、強く言えなかった面もあるでしょうし、甘やかしがあったのでしょう。彼もまた父親としての責任から逃げたと言えるかも知れません。父ダビデが何もしないのを見て、アブサロム2年の時をかけて復讐を実行します。28-29節前半のところにその出来事が記されています。
 
 この場面を見る時に、自分のしていることについてきちんと向き合い、「刈り取りをする」ことの大切さを教えられます。種をまきっぱなしで「あと、よろしく」ではなく、最後まで自分の蒔いた種と向き合うことです。

 親が全部尻拭いしてばかりでは、子は育たたないのです。こうした謝らない、償わないという歩みは、人を決して幸せにはしません。逃げるのは一番楽な道ですが、その時は楽でも後には茨の道が待っているものです。

 もし、この時父親として愛をもってアムノンを厳しく叱り、何らかの対応をしていたならどうだっただろうか?と考えてしまいます。

 アブサロムの復讐も必要なかったかも知れません。アムノン自身も心底悔いてやり直せる道があったことでしょう。叱ることも報いを与えることも、相手を滅ぼすためではなく、「立ち直るための愛のわざ」としてなすのですから。心底悔い改め、必要な償いをしていくならば、そこには赦しと慰めと、神様からの新しい恵みと成長があります。

 この後、ダビデとアブサロムの関係も完全に壊れていきます。
ダビデは息子アムノンの死を非常に悲しみました。37節にこうあります。
37節 アブサロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、毎日アムノンの死を嘆き悲しんでいた。 ダビデはアムノンの死を嘆き悲しむばかりです。この時は、タマルの痛みにも殺人を犯してしまったアブサロムにもダビデは寄り添えていません。こうしてダビデは同時に二人の息子を失うかたちになっていきます。
ダビデも子どもたちも皆、とても可哀そうに思えます。子を大事に思っているのに、子が不幸になっている姿に胸が痛みます。だからこそ、胸を痛めるだけで終わってはなりませんね。私たちがここから真摯に教えられることこそ、ダビデの願いであり、主のみこころではないでしょうか。ダビデがその失敗談を証ししているのは、他の兄姉への愛ゆえではないでしょうか。いつの時代にも私たちが家族の問題、罪の問題で悩み苦しむからです。
 教えられることは、家族の問題においても私たちが主のみこころを第一にするということです。この部分は主のみこころに従う。でも、親しいこの家族との関係では、それは「できない」としてしまう私たちです。少し距離のあるあの人なら愛せる。でも、身内となると。身内と向き合うということは、自分自身の問題と向き合うということでもあるので、簡単ではありません。

 ある人が思春期時代に、親にかなり反抗した時がありました。母親をののしり、物を投げつけました。少しやり過ぎたかなと思って、そっとその後の母親の姿を覗き見ると、母親が神様に涙しながら必死に祈っていました。どうかうちの子が、祭司エリの息子のようになりませんようにと。涙ながらの祈りを見て、悪いことしたなと思うのと同時に、愛されているんだなと思ったそうです。

 アウグスティヌスの母モニカは、息子が異教にはまり放蕩生活をしている中で、アンブロシウスという司教に泣きながら相談しました。
 司教は「大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません」と言ってモニカを励ましました。

 「涙の子は滅びない」

 私たちもまた、自分のだけでなく、愛する者たちのために涙をもって祈り、また必要な時には向き合い、神の国とその義を第一に求めていきましょう。
 自分の向き合うべき課題から逃げず、主にあって向き合っていきましょう。その時は苦しくても、後になって、主の恵みのうちに平安と義の実を結ばせてくれることでしょう。



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