東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇133篇1-3節 「交わりはいのち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/08/03

詩篇133篇1-3節 「交わりはいのち」

*** 礼拝説教概略 ***

 おはようございます。皆さん、まずはお疲れ様です。

 連日のコロナウイルスのニュースで不安を覚えたり、さらに気をつけて自粛なのかと思うとあらゆる面でうんざりしてきますね。仕事にならない、学校生活もいつになったら普通になるのか。オンラインにも少し嫌気がさしている。そういう方もいらっしゃることでしょう。



 この蒸し暑い季節にマスクですからね。蒸れる、呼吸しにくい、話しにくい、かゆい。皆さんよく頑張っています!手洗い、消毒にも気を遣います。さらにいつも距離に気を付けなければいけない。友人や兄姉ともゆっくり食事の交わりもできません。ハグも握手もできず、大きな声で賛美もできない。

 こうしてずっと気をつけて、自粛して過ごしているのに、感染者数の減少などには目に見えて現れてはきません。全体で感染者数が増えているので、頑張っていても評価されず労いもなく、さらに気をつけてくださいと言われます。

 犯人捜しのような風潮にも嫌気がさします。疲れやストレスの中にあるので、攻撃的・否定的な反応が多くなっていると感じます。今まで感染0人だった岩手県でもついに感染者が出ました。1名の方は関東のキャンプで感染したのではと報じられていますが、その人が本当に最初の感染者なのかは誰にも分かりません。既に無症状の方が県内におられたかも知れません。けれども今、この方が務める企業が、自社の中で感染者が出たと正直に公表したら、問い合わせが殺到。誹謗中傷が相次ぎ、ネットでは自宅を特定しようとする人々もいるそうです。

コロナではなく、人が人を殺してしまいます。

 攻撃している方は、自分の親友、恋人、家族が感染しても同じような行動を取るのでしょうか?自分がそうなり得ることは考えないのでしょうか。他人ごとだから攻撃できるようにも思います。

 みことばにはこうあります。「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です」Ⅰコリ6:7。人をさばき、相手を叩き訴える。それはもう敗北です。

 人が叩き合うところには何も生まれません。本当に今ほど、お互いに励ましが必要な時はないと示されます。こんな中で交わりの尊さを改めて考えさせられます。多少距離があってもいい。マスク越しでもいい。

 私たちは人間ですので、ひとりでは生きていけないということを覚えて、お互いの存在によって支え合いたいのです。 

 本日は主にある兄姉の交わりに神様が「とこしえのいのちの祝福を命じられた」という恵みをご一緒に教えられたいと思います。会堂に来られている方も、動画で参加されている方も、誰ひとり欠けていい人はいません。お互いの存在の尊さを主にあってともに覚えましょう。

1節 見よ。なんという幸せ。なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。 

 感嘆文の形で表現されています。まず、とにかくなんて幸せなんだろう!なんて楽しい喜ばしいんだろう!と力強く語られています「楽しさ」ということばにはsweetloverlyなんて意味もあり、引き寄せられる魅力がそこにあることを感じさせます。

 何がそんなに魅力的で楽しく幸せなのでしょうか? 兄弟たちが一つになってともに生きることです。神によって召し集められた神の民のコミュニティというものが、愛の交わりであるからです。さばき合わず、赦し合う共同体だからです。

 神によって造られたお互いであることを尊び合います。
 ここでは「一つになって」と語られています。「一つ」ということは、その人との繋がりを意識します。例えば、足は体の一部分です。自分の足を責めるならば、それは自分自身を責めているのと同じではないでしょうか?ですから神の教会の一人を責めることは、自分自身をも責めることになります。繋がっているとはそういうことです。

 今日の午後、私たちの教会の青年たち何人かが、中高生たちを励ますために賛美の動画を収録しようとしています。選曲も中身を考えながら選んでいる様子でした。その曲の一つは、16年も前の全国JYキャンプのテーマ曲。彼らがまだ幼児だった頃の曲。その歌詞の一部をご紹介します。Feel the oneness 一つを感じてという曲です。

「ここに集められたことは きっと偶然なんかじゃない 違いの中で光を放つ ひとつを感じて・・・ どんなに遠く離れても 見上げればそこに同じ空 ひとつの思い ひとつのからだ ひとつを感じて feel the oneness 」 

 離れた地で歩む一人一人であっても、「同じ主にあって一つである」。お互いに会えず、思うように集まることができません。でも、同じ神様にあって一つとされている仲間なんだと覚え、ひとりぼっちじゃないんだと励まし合いたいという思いで選んだことでしょう。

 同じ教会でさえも、中々お会いできない方がいます。教会に来てはいるけれど交わりが持てず、孤独やさみしさを感じています。集まれているだけでもありがたいと思いつつ、ネットで配信できるだけでもありがたいと思いつつも・・・でも、物理的な距離が心の距離になってはいけません。

 私たちは時に離れた地で歩むこともあります。それでも同じ主にあってつながっているということを覚えたいのです。この一つになって歩む交わりがいかに大切で尊いものであるかを詩篇作者は「2つの比喩」を用いて語っています。

 当時の神の民にとっては実際に見て、体験していることなのでイメージしやすいものだったことでしょう。2

2節 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。 

 なんのこっちゃ?と思われる方もいらっしゃるでしょう。これは大祭司の任職式の一場面なのです。民の中から代表者として選ばれる大祭司。その衣装をしっかりと身にまとい、その上で大祭司となるアロンの頭に非常に高価な香り豊かな油を注ぎます。

「貴い油」とあるように貴重で高価なものなので、ともするとケチりそうですが・・・これはケチってはいけません。今では言えば何百万円という金額にものぼるであろう香油。それを豪快に注ぐのです。

 豪快に注いでいる様子は2節の後半でわかりますよね。頭の上で終わるのではなく、それがどんどん流れて、アロンのひげにまで。それどころか首周りの襟に至り、さらにその下にまで流れていきます。大祭司の両肩には12部族の名が記された宝石の板が装着されていますが、そこにまで油が行き渡ることでしょう

 神に仕える大祭司を通して、彼のとりなしを受けている12部族全体に神の祝福が注がれるイメージです。かぐわしい香油の香りが充満し、神の祝福がこの民から全世界に広がっていくかのようです。神様によって聖なるものとされ、神の聖霊をいただいた民の豊かな交わりなのだと教えられます。
 

 さらに3節では2つ目の比喩が語られます。 
3節 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 ヘルモンという山は、標高2800mほどでパレスチナでは最も高く、北の方に位置しています。その山頂は1年の3分の2ほどは雪で覆われており、このヘルモン山から乾燥しているパレスチナ各地に、水が降りて来るのです。

 とても乾燥する地域なので、ヘルモン山から地下水やヨルダン川を通って流れて来る水は、いのちにに直結する貴重な水源になっていたわけです。人々はこの自然の素晴らしい仕組みを見て神様の祝福だと信じていました。人間にとって、水はどうしてもなくてはならないものです。特に、乾燥地域であればあるほど水は手に入りにくく貴重です。この水はまさにいのちの祝福でした。

 兄弟姉妹が一つになってともに生きることは、このいのちの水の祝福のようであると言うのです。詩篇記者は3節後半でこう語ります。

3節後半 主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。 

「命じられた」と語られます。皆さん、どんな風にこれをイメージされますか?私は創造の時の場面を思い浮かべます。「光、あれ」「大空よ・・・水と水の間を分けるものとなれ」と命じられたのと似ていませんか?「いのちよ、神の民の交わりの中にあれ」と命じられたのです。

 「命じられた」の別の訳としては「授けられた」と訳すこともでき、簡単に言うならば、主が兄姉の交わりにとこしえのいのちの祝福を授けられたとも理解することができるでしょう。
 神様はキリスト者の交わりの上に、特に一つとなって親しく共に歩む交わりの上に、「永遠のいのちの祝福」を授けておられるのです。

 しかし愛のないバラバラの自分勝手な交わりには、それを授けておられません。命じておられません。

 そうであるならば、クリスチャンの信仰生活において、交わりは「あったらいい」ものではなく、無くてはならない大切なものだとわかります永遠のいのちの祝福を受ける場なのですから。これがなければ、今の私たちはないのではないでしょうか?

 私自身を振りかえっても本当にそうです。「交わり」が私の永遠のいのちの生命線でした。だからこんな者でも見放さないでくださった兄姉たちに感謝のことばもありません。

 私は信徒時代、随分と悩みました。大学生になって救われて集うと、クリスチャンホームの人と自分の違いに悩んだものです。基礎が違い過ぎるのです。大学生なのに、小さな子どもたちより聖書知識がないのです。ルカは福音書を書いたぐらいだから12弟子だと思い込んでいた私。ところが教会のクイズ大会でそうではないのだと初めて知って恥ずかしい思いをしました。そんな小さな事でさえ、なんとなく教会に居づらいと感じる原因になるものです。

 でも、多くの方が何かしらそういう経験をされているでしょう。何も奉仕ができないので居てもいいのだろうか?気の利いたことが言えないので、交わりで浮いていないだろか?きっとほとんどの人がしばしば自分の存在は受け入れられているのだろうかと不安を感じながら歩んでいると思うのです。

 こうした不安や孤独への処方箋は、やはり兄姉の「交わり」なのです。私が繋り続けられた理由はなんだかんだ「交わりの中に招く愛」でした。諦めないで私に関わってくださった方々の愛ゆえです。声を度々かけてくれた人。祈ってくれた人。心配してくれた人。そういう人がいます。断られても諦めないで関わるのは、並大抵ではない愛が必要ですが、やっぱり私たちはあきらめちゃいけない。
 あなたにもそのように関わってくれた方いるはずです。
 

 1節のように一つになって生きると考える時、今は愛を示すことも無理なのでは?と思われるでしょうか。集まりにくいじゃないか?ソーシャルディスタンスじゃないか?食事会ないじゃないか?色々言い訳ができます。

 でも、愛はそういう形に縛られるものだろうか?それがないと愛は示せないほど小さなもだろうか?と私自身問われています。

 「感染を防がなければ」と、どうしても責任のことが真っ先に来てしまいます。けれども、もっと異なる部分で教会が危機に瀕していくという面も私たちは見失ってはいけません。それは交わりの欠如によって、愛の欠如によって気づかないうちに信仰が弱り果て、魂が枯れ果てる危険です。

 いつも申し上げているように、山奥で一人ぼっちで修行してもこの信仰は豊かにされません。愛は豊かにされません。主はこのみことばで語っておられるように、一人ぼっちの修験者になることではなく、交わりの中に身を置くことが永遠のいのちの祝福なのだと教えておられます。

 感染に気をつけながら、愛を今まで以上に増していくことは不可能なのでしょうか?
 
 私たちは人間となられたイエス様と会ったことがありません。

 一緒にご飯を食べたことも、見たことも、声を聞いたこともない。

 写真さえない。

 でも、イエス様の愛を受け取っています。何故でしょうか?

 愛がそこにあるからです。愛はなくなりません。永遠です。コロナなんかに邪魔できません。あなたが誰かに示した愛はなくならないのです。

 一つに結び合わせるものは「愛」です。愛と言う結び目でしっかりと私たちがつなぎ合わされるために、私たち神様のご愛を噛み締め、何があっても隣人を愛する決心をしていきましょう。相手に伝わっていないように見えても、あなたの愛がその人を必ず見えない糸で結び合わせてくれます。

 この時代に私たちができることは、愛し続けることです。交わりを続けることです。
 神様はそこに永遠のいのちの祝福を命じられたのですから。

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