東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ16章1-10、20-22節「アザゼルのやぎ~罪からの解放~」

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

最新情報

【☆最新情報☆】What’s New!!

2020/08/24

レビ16章1-10、20-22節「アザゼルのやぎ~罪からの解放~」

*** 8/23(日) 説教概略 ***

ナルニヤ国物語の著者C.S.ルイスは、「神があなたを赦した後で、あなたが自分を赦さないなら、自分を神より高い地位の裁判官としているということである」と言いました。

しかし、案外私たちは自分を赦せない者ではないでしょうか。


その背景には「悪魔の訴え」ということもあるだろうと思います。

悪魔の最大の特徴は、私たちの脆い所を非難し、訴えることです。お前はダメな人間だ、お前はふさわしくないと責め立てることです。

 私たちにはそのような声がいつも聞こえてきます。学校、職場、近所、親戚付き合いの中で、あるいはネット社会の影から。ネット社会は便利さをもたらしましたが、同時に見えないところから石を投げやすい社会にもなりました。それは悪魔が背後で誘惑しているかのようです。

そのような時代にあって、私たちは神様の真実なおことばによって自分を知る者でありたいと思います。悪魔は「偽りの鏡」で私たちに歪んだウソの姿を見せます。ボロボロの服を着た見すぼらしい姿を見せ「これがアナタだ」と言うのです。

しかし、私たちは真実を映しだす神のみことばの鏡によって、価値ある者、赦された者、神の子であることを見せていただき、それを信じて歩んで参りましょう。

本日は、朗読いただいたみことばを通して、あらゆる罪や罪悪感からの解放について教えられます。旧約時代、神様が目に見えるビジュアル的な方法を有効に用いながら、罪からの解放を示された場面です。


1-2節です。

1節 アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。 
2節 主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。  

2節にある「垂れ幕の内側の聖所」とは、「至聖所」と呼ばれる聖なる場所です。そこには神の契約の箱が置かれ、神の臨在される場所とされていました。聖なる聖なる神のご臨在の間ですから、罪人がそのままで入ることは「滅び」を意味しました。

神様も「死ぬことのないように」と気遣っておられます。

そして、一年で唯一ここに入れる日を「大贖罪の日」と言いまして、この16章はそれを語っています。大祭司だけがこの日限定で至聖所に入ることができました。とても重要な日でありました。なぜかと言うと、大祭司がこの一年の民の罪全部の贖いの儀式を行う日だからです。普段から動物の犠牲をささげ「あの罪をこの罪をお赦しください」と神様に祈るわけですが、この行事によって告白しきれない罪も含めて、この一年のすべての罪の赦しを頂戴する。それはやはり民にとって安心をいただける機会でありました。

その中で行われるものとして今日のタイトルにあります「アザゼルのやぎ」というものがありました。7-8節です。

7節 雄やぎ二匹を取り、それを主の前、会見の天幕の入り口に立たせ、8節 雄やぎ二匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。 

2匹のうち1匹は主のために、もう1匹をアザゼルのためにくじで選ぶとあります。そして、それぞれのやぎをどのように扱うのでしょうか? 

9節 アロンは主のためのくじに当たった雄やぎを連れて来て、それを罪のきよめのささげ物とする。 
ここでわかりますように、1匹目は主なる神様に向かって「罪のきよめのささげ物」としてささげました。

 そして、もう1匹が特徴的です。10節にこうあります。
10節 アザゼルのためのくじに当たった雄やぎは、主の前に生きたままで立たせる。これは、それの上で宥めを行い、荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。 

さて、散々アザゼルということばが登場しましたが「アザゼル」とは何なのでしょうか?

大きく2つの解釈が存在します。
1つ目の解釈は、アザゼルという原語の成り立ちに注目して、「やぎ」と「追放する」という意味から、この「追放される山羊」自体を指しているのだと理解するものです。その場合アザゼルとして荒野に罪と一緒に追放すると理解します。

2つ目の解釈は、アザゼルとは荒野に住む悪魔・悪霊の名前であるとするものです。その場合、悪霊のもとに1匹の罪を背負わせたやぎを送りつけるという儀式になります。 

 実は新改訳聖書は、古い第三版では1つ目の解釈に立ち、やぎを「アザゼルとして」荒野に放つとしますが、新しい2017年版では2番目の解釈に立ち、アザゼルを悪魔・悪霊の名前と考えて「彼のもとに追いやる」という訳になっています。訳としてどちらも可能なので難しいところです。

ただし、アザゼルという名前が何を意味するか以上に大切なことがあります。それはこれを行う意味です。20-22節に詳しいやり方が記されています。

20節 彼は、聖所と会見の天幕と祭壇のための宥めを行い終えたら、先の生きている雄やぎを連れて来る。 
21節 アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる。 
22節 雄やぎは彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。

 ポイントは大祭司であるアロンが民全体の代表者として、やぎの頭の上に両手を置いて、罪の告白を行ってから送り出すということです。しかも、この罪についてどんな説明が21節にあるでしょうか?こうあります「イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪」とあります。イスラエルの人々の全部の罪です。

しかも、「すべての咎」「すべての背き」と2つのことばを繰り返した上で、すなわち「すべての罪」と言い換えることで、一つの罪も漏れることなく全部!という意味を強調しているのです。

 注目したいことは、2匹のやぎのうち、1匹は9節にあるように神様に向かって「罪のきよめ」のささげ物とされているということです。これはきよめによって、大胆に神様の恵みの座に近づくためであります(ヘブル4:15-16)。

しかし、それとは別個に「追放するためのやぎ」を用意し、そこでも罪の告白をしているのです。なぜ、そこまでするのでしょう?

 それは、罪とその罪悪感を神の民からはるか遠くへ追放してくださるということです。罪の赦しがあって赦されていると頭でわかっていても、なお罪悪感が私たちを苦しめることがあります。でも、それらを思う余地がないほど遠くに、あらゆる罪・咎・背きを私たちから遠くに追い払ってくださるのです。

詩篇103:12にこうあります。「東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせる」 東と西は交わることがないほど遠く正反対です。

 私たちをきよめ、罪をはるか遠くへと引き離してくださるということです。荒野に走っていくやぎを見ながら、自分の罪が遠くに消え去っていくことをイメージできたことでしょう。

 そして、仮にアザゼルを悪魔・悪霊の名であると理解する場合、彼のもとに罪を乗せたやぎが送り付けられることになります。罪は彼らの大好物でしょう。ただし、この罪は20節で明記されているように既に宥めがなされているもの、処理され無罪とされているものです。彼らの目の前に送られてきた罪は、もはや神様の無罪判決の判が押された罪たち。彼らは何も手出しできず、それら用いて人間を訴え攻撃することができないのです!

 ゼカリヤ書3章に、大祭司ヨシュアのすぐ右にサタンが立っていて、彼を訴えようとしているという場面があります。大祭司ヨシュアの服は汚れていて、サタンがそれを咎めているのです。その汚れとは彼の罪の汚れです。しかし、神様はその時、ヨシュアの服を着替えさせてくださいます。主はこう言われるのです。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 汚れたボロボロの服を脱がせ、綺麗な服を、しかも礼服を着せてくださる。そしてむしろ、ヨシュアを訴えるサタンを神様がお咎めになるという場面です。主は私たちにもこのようにしてくださいます。


そして、今日、もう一つ覚えたいことがあります。それは「スケープゴート」ということばです。現代でもよく使われる「スケープゴート」の由来は、このアザゼルの山羊にあると言われています。その意味は、誰か一人にすべての責任を押し付けて犠牲にすることで、組織全体として生き延びようとすること。その時に犠牲になる人のことを「スケープゴート」と言います。

このやぎはまさにそういう意味があって、民全体の過ちを全部背負って民から追放されてくれたわけです。実に、このスケープゴートの最たる例は、イエス様ご自身です。

その点からすると、この儀式もまたイエス・キリストの十字架の一部を現すものだと言えます。実際にそれを裏付けるみことばがあります。

ヨハネ11:49-52
49 しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 50節に「一人の人が民に代わって死に、国民全体が滅びないで済むほうが」得策であるとの表現があります。大祭司カヤパは「イエス一人をスケープゴートにするのが最も賢いじゃないか!」と考えたのです。これはもちろん、イエス様の時代の祭司たちの自分勝手な罪深い考え方です。

 しかし、それさえも神様は用いられ、イエス様をスケープゴートにすることで、信じる者たちすべてを救おうとされたのです。51節に「自分から言ったのではなかった」とあり、さらに52節では「預言したのである」とありますように、彼は意図せず無意識のうちにイエス様の身代わりの犠牲を預言することになったのです。

 イエス・キリストはまさに、私たち全人類のありとあらゆる罪、汚れをその身に負い、人類全体を救うために、ただお一人「罪人」となられる事を引き受けられました。それは私たちを訴える材料となる罪を私たちに代わって引き受けて、それらを私たちから完全に引き離してくださるのです。

 こうして神様は旧約では目に見える儀式を用いて、新約ではイエス様の十字架の福音によって、人をその罪とその縄目から解放してくださるのです。もう、自分を責めることは、やめましょう。悔い改めのならば、主の赦しをしっかり受けとり、サタンの訴えなどに耳を貸さず、すばらしい礼服を着せられた神の子として胸を張って歩んでいきましょう!

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *

注目の記事

生きていてください

今日は午前も午後も涙を流す日になりました。