東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一列王記19章1-18節「エリヤの落ち込みと神の励まし」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/03

第一列王記19章1-18節「エリヤの落ち込みと神の励まし」

*** 9/2(水)祈祷会 説教概略 ***


 9月は「励まし月間」として、長引くコロナ問題で疲れているゆえに、互いに励まし合うことを意識しましょうということでした。とはいえ励ましにも色々あります。

 優しいことばをかける励まし、叱咤激励のようなもの、使命を気づかされることで心が燃やされるケース、あるいは仲間がいるよ!との励まし。

 改めて「励まし」ということを深く考えながらと思っています。 

本日の場面は預言者エリヤの落ち込みと神様の彼に対する慰め・励ましが語られています。預言者エリヤは、イスラエルが堕落してしまっている中で、まことの主にのみ仕えるということを命がけで説いた人です。 

 堕落の元凶となったのはイスラエルの王アハブとその妻イゼベルでした。彼らはバアルの神々を拝み、バアル神殿、バアルの祭壇、さらにアシェラ像も建てました。さらに凶悪な妻イゼベルはまことの主に仕える預言者たちを次々と殺しました。

 こうした状況下、エリヤは立ち上がりバアルの預言者らと対峙し、たった一人で信仰によって勝利を治めます。ところが、バアルの預言者が敗北し、殺された事を知ったイゼベルが逆襲に出ます。エリヤに使者を出し殺害予告をするのです。さて、エリヤはどうなったのでしょうか?450人のバアルの預言者にも恐れず対峙して、まことの神の力を経験したにも関わらず彼は非常に落ち込みました

4節を見ていただけるでしょうか。彼はエニシダの木の陰に座り、自分の死を願って「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と言いました。大勝利の後にも関わらず、何が彼をそこまで追い詰め、疲れさせたのでしょう?
 次の4つの課題と解決について教えられます。


1.心身ともに疲労した  

 これは単純に、大きな戦いの勝利で疲れたということがあるでしょう。特にやっている最中は必死ですし、アドレナリン出ていたでしょう。でも、落ち着いて冷静になってから途端に震えだす・・・なんてこともあります。エリヤも必死に頑張って、落ち着いてから異様な疲れが襲ったのだと思います。ある種の燃え尽き状態かと思います。 

 神様はエリヤに対して、何をなさったのでしょう?5-8節にかけて 

5節 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。 
6節 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。
7節 主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。 
8節前半 彼は起きて食べ、そして飲んだ。 

 神様は天使を遣わし、何をなさったのか?食べ物を用意されました。しかも「焼いたパン菓子」です。普通のパンではなくむしろ甘いパン菓子。英訳では「cake」「bread cake」と訳しているものもあります。ただ腹を満たすためだけのパンではないことがわかります。疲労を覚え、心を励ます意味も込めて神様はあえて「パン菓子」を備えられたのではないでしょうか。

 疲れた時には美味しい甘い物もいいですね。皆さんもたまには、自分にご褒美をあげて、美味しい物を食べて安らぐ時をぜひ持ってください。

 6節終わりから、再び横になって眠るエリヤの様子がありますが、7節で主が起きて食べなさいと再び与え飲ませたことが語られています。休養を取り、食べるべき物をしっかり食べる。心は燃えていても肉体は弱い私たちであることを覚えます。

 疲れていると言わなくていいことを言ってしまったり、お腹が減っているとイライラします。こうした疲労状態が自制心を弱くすることも覚えましょう。


2.比較「自分にはできない」  

 エリヤの弱さの原因の一つは比較でもありました。4節にあるエリヤの発言の中には、このようなものがありました。「私は父祖たちにまさっていませんから。」 

 彼の耳には先祖のすばらしい信仰の歩みが聞こえていたはずです。比べる中で自分は到底同じようにできないという思いに囚われたのでしょう。青年会でも話したのですが、比べること自体は悪くありません。比べないと自分の良さも他の人の賜物もわかりません。

 比べることの問題は、人との比較で優劣をつけ、高慢になったり、劣等感を持ったりすることです。エリヤも先祖と自分を比べ自分の賜物は何か?ということに目を留め、自分の生かされる道に邁進すれば問題なかった。

 でも、「自分は劣っている、ダメなんだ」と決めつけてしまったのです。それに加え、違うことが悪いことだと考え「同じになろう、同じにさせよう」とすることに問題があります。神が曲げた物をまっすぐにすることはできません。違いを主のみこころであると受け入れましょう。


3.孤独  

 エリヤは自分しか残っていないと思い込みました。10節と14節でエリヤは繰り返し「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」と語ります。

 私は一人ぼっちですと言っているのです。

 交わりが希薄になりがちなコロナ下の社会です。自分だけがそうなのか?と孤独になりやすいと言えます。特にネット社会は、周りは色々やり取りしているのに、自分だけ置いて行かれているのでは?との不安にもなりがちです。見えないからです。そのような時に自分の声はどんどん自分を孤独だと思い込ませ、追い詰めます。

 だから、主の声を聴きましょう。


 エリヤはこの時、周囲が見えなくなっていました。主に仕える人間は、自分一人だけだと。ところが、主は15節以降で仲間がいることに目を向けさせます。まず、エリヤの後継者、弟子としてエリシャという人物がいることを教えられました。

 さらに18節です。

18節  しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

 弟子も与えられる。7000人も仲間がいる。
 主は備えておいでなのです。


4.自分のいのちを救おうとして逃げた・・・使命を見失った

3節  彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。 

 「それ」とはイゼベルの殺害予告、脅迫です。脅迫を受け、自分のいのちを救うために彼は逃げました。少し前には、死をも恐れず戦い勝利したエリヤです。同じ人物とは思えない弱気な対応ですね。何が変わったのでしょうか? 

 彼がバアルの預言者たちと対峙した時、彼は何のために戦ったのでしょう?

自分のためではなく、主のため、また愛する民のため、この国のために戦ったはずです。

 でも、今彼が逃げる動機は何でしょう?

 「自分のいのちを救うため」です。
 自分のために生きることの弱さがよく現れています。

 私自身弱気になる、気力が出ない時の自分を振り返るとやはりそうです。自分が傷つきたくない。そうして自分を痛みや苦しみから救おうとすると弱気になります。ほら穴に閉じこもりたくなることもあります。

 けれど、主はそこから出てわたしの前に立てと言われるのです。

11節 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」
 
「外に出て、山の上で主の前に立て」自分を守るほら穴の中に閉じこもっていないで、そこで自分はダメだと嘆いていないで、主の前に立ちなさいと言われるのです。

 すると・・・

11節の続き  するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 12節  地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。 

 激しい大風、地震、炎。それらがエリヤの前に起こりました。しかし、その中に主はおられず、ただかすかな細い声がありました。主が呼びかける声です。穴に閉じこもり、耳を塞ぐようにして現実から逃げていた中で、ようやくかすかな細い声が彼の耳に入りました。

 彼はそれに聞いてほら穴から出ます。
 そこで主の問いがありました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
 
 神様の問いかけは深い意味を持ちます。エリヤがなぜここにいて、何をしているのか。そんなことは神様は百も承知だからです。

 知っていながら問いかける。それは神様が知りたいからではなく、エリヤを愛するゆえ立ち上がらせるための「愛の問いかけ」なのです。
 
 私たちにも主は問いかけておられます。「アナタは何をしているのか」と。
 
 自分のいのちを守るために生きているのか、救われたいのちを主のご用のためにささげているのか。どちらでしょう。

 今日も愛を知らずに歩んでいるあの子どもたち、生きる希望も持てずに刹那的に生きている若者たち、何のために働いているのか分からずボロボロになっている働き盛りの世代の人々、病院しか行くところがないと孤独の中にいる年配者。

 そこに届いて行く使命が私たちにはあるのです。

※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

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