東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記11章23節「主の手は短くない!」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/07

民数記11章23節「主の手は短くない!」

*** 9/6(日) 礼拝説教概略 ***

 世界一貧しい大統領と言われた、ウルグアイのムスカ大統領はある哲学者のことばを引用してこう言いました。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」

 富や物をいくら所有しても満足できない人こそ最も貧しい人だと言うわけです。聖書でも「今持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5とありますし、「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリ12:9とも主は言われます。


実に、振り返ってみると神様はきちんと必要な物、豊かな物を与えてくださっており、今日まで生かしてくださっているのではないでしょうか。

 本日の聖書箇所の時代、イスラエルの民も必要な物は十分に与えられていました。それでも何かと足りないと思い不平不満をもらしました。

 現代のクリスチャンも、神様は本当に私を愛しておられるのだろうか?祈りを聞いておられるだろうか?と心配になることがあるでしょう。

 しかし、今日、聖書のみことばを通して神様に祈りは聞こえている、そして神様の御手は決して短くないことを学びます。むしろ、その手はどこまでも伸ばされ、私たちに必要な一切を豊かに与えてくださるということを教えられていきましょう。


1. 背景  ~民の不平不満~

 本日みことばの背景をご一緒に理解していきたいと思います。11章の最初から少し拾いつつになります。1節によると、エジプトを出て荒野を旅してきたイスラエルの民が神様に向かって繰り返し、激しく不平不満を言ったとあります。

 神様はここまで、本当にすばらしい奇跡を何度もなさってエジプトから救い出してくださいました。マナという食べ物を毎日与えて心身ともに守られました。それにも関わらず感謝の心を失い、恐れと不安に囚われ欲がはらみ、不平不満となって吐き出されました。まさに今ある物では満足できなくなったのです。

 不満のおもな原因は何だったのでしょう?
 実に食べ物のことでした。

 いつの時代も同じかも知れませんね(笑)。
 4-5節で語られているのですが、「ああ、肉が食べたい」とか「魚が食べたい」あるいは「きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにく」も食べたいと言い出します。ついにはいい大人が泣き出すほどでした。

 そんな姿を見て神様と人の間に立っていたモーセは非常に苦しい思いをし、神様にどうにかしてくださいと訴えました。

 15節では、モーセはこんな風に私を扱われるなら、「どうか私を殺してください。これ以上悲惨な目にあわせないでください」とまで言っています。弱り疲れ、どうにもならない時に、いつまでですか??もう早く天国に召し上げてくださいと祈りたくなる。そんな現実も確かにあります。

 それを聞いて神様はモーセが一人きりで背負わないよう配慮し、仲間も与えてくださいました。さらに、その上で明日から肉を山のように食べさせると主は言われます。どれぐらいの量でしょう?

19-20節にこうあります。 
19あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
20一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」 

 「鼻から出て来て、吐き気をもよおすほど」ともあります。思わず笑ってしまいますね。どれだけガッツいて食べたら鼻から出て来るのでしょう?笑。

 しかし、モーセは疑ってしまいました

 21-22節のところです。 
21しかしモーセは言った。「私と一緒にいる民は、徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。22彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、それは彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」

 当時、荒野を放浪していたイスラエルの民は、成人男子だけで約60万人。女性、子どもたちを含めれば数百万人でしょう。神様、さすがに今この状況で彼らが1か月間も満足するほどの肉は無理でしょう?モーセはそう思ったのです。


 それに対する主のお答えが今日のみことばです。23節。
23節 主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」  


2. 主の答え ~主の手が短いというのか~


 モーセ、あなたはこの主の手が短いと言うのか?雲の柱、火の柱で民を導き、海を真二つに分け通らせ、マナを毎日与えて来た。その主である神の手が短くて、必要な物を十分に与えられないと言うのか?神様は尋ねています。

 長いはずの神の御手を短いと思い込んでいる。これを「不信仰」と言います。この問いは、現代を生きる私たちにも向けられているように思います。

神様の手が短くて、私たちの求めているところに届かない、十分ではない・・・そんな風に思っていることはないでしょうか。神様の力を侮り、私には十分にその恩恵が与えられない気がする。 

 そのような不信仰な者に「あなたは主の手が短いと言うのか?」と問われ、続けてこう語られます。「わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる」と。さあ、見ていなさい。わたしのことば通りになるか、見ていれば分かりますよと。どうなったのでしょうか?

31-32節です。
31さて、主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とした。それは宿営の周り、どちらの側にも約一日の道のりの範囲で、地面から約二キュビトの高さになった。32民は、その日は終日終夜、次の日も終日出て行ってうずらを集めた。集めたのが最も少なかった者でも、十ホメルほど集めた。彼らはそれらを自分たちのために、宿営の周囲に広げておいた。 

 海からうずらが大量に風で運ばれて来て、イスラエル人の宿営の周辺に落ちてきました。東西南北1日分の距離の範囲で、地面から高さ約2キュビト=約90センチの高さに積まれている。凄まじい量です。一番少なく集めた者でも10ホメル。それは約2300Lほど。神様のお言葉通り、食べても食べてもなくならない程の大量の肉。鼻から出て来て吐き気をもよおすには十分すぎる量です。実現しました。


3. 私たちの通った道  ~主の手は短くなかった!~


このみことばを思い巡らすと、私たちはこの教会の会堂建設を思い出します。無理なんじゃないか?そういう思いが何度も私たちを襲いました。土地を買うので精一杯。青空礼拝か?テントか?プレハブか?そんな冗談も半分本当にそうなるのでは?と。主はすべてを備えてくださいましたよね。コロナのタイミングより一年早く与えてくださったのも今思うと本当に守られたなと思います。その当時の事を私が書いた記録を少しご紹介します。
 3月に入り、いよいよ完成間近です。4月頭には残金支払いと引き渡しが迫っていました。しかし、まだ献金の必要が満たされていないのです。310日の礼拝の時点で献金が約120万円足りないのです。焦りがありました。心配してくださる方もあり、万が一の時にどうするか・・・そんな話もあれこれ考えました。けれども主は、この者に示されました。これは人のわざによるのではなく、主の手によるものだということです。
 それで私は祈りました。『主よ、あなたは偉大な方。全能なる神様です。万が一にも献金が満たされず、あなたのその御名が力ないものと思われないようにしてください。あなたの御名が恥を見ることがないように。かえって、信じなかった私たちが不信仰を恥じ入る結果となりますように』と。今まで以上に真剣に、ただ主を信じて祈ることを教えられました。主は祈りを聞いておられました。多くの兄姉の祈りを聞いておられました。なんとそれから約1週間後の時点で目標額を40万ほど上回る献金を主は与えてくださいました。期限までに献金で5,000万円という目標が満たされるのか、誰もが疑いました。しかし、主は真実な方でした。恥じ入るのは私たちのほうでした。けれども喜び叫びながら不信仰を恥じることができたのです。」 

 実にこの後も、ピアノの搬出・搬入、引越し等、課題が多くありましたが、神様は驚くべき方法ですべて先回りしてクリアできるよう備えておられたのです。何度も道がふさがれそうになりながら、不思議と主が道を開かれ、必要なものを全部与えてくださいました。主の手は短くない。私たちが短いと思いこんでいるだけなのです。 

イザヤ書59章1-2節を開きましょう。
59:1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。59:2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。   

ここにあるように、主の手が短いのでもなく、神様の耳が遠くて聞こえないのではありません。むしろ神様を信じようとしない、私たちの不信仰という「罪」が、仕切りを作ってしまい神様の顔を隠してしまっているのです。神様は近くにおられる。でも、私たちが求めない、信じないので、遠くに感じているのです。
 
 神様はあなたを覚えています。あなたを知ってくださっています。あなたに何がどれだけ必要なのか知っておられます。神様の手は長く、必要なところに必ず届きます。今にわかる、だから信じて祈り求めよと言われます。 

 最愛の御子イエス様を私たちに与えてくださったお方です。その子を犠牲にささげ、救いの架け橋とされた方です。それほどに私たちを愛してくださったのです。そうであるならば、あなたに必要な一切を与えてくださらないわけがありません。神様は御腕を伸ばして必要な物をお与えになります。時にかなって美しいみわざであなたを守られます。

 最後にご一緒に開きましょう。
エレ 32:17 『ああ、神、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。

 神様に不可能はありません。信じない者にならず、信じる者になりましょう。

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