東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記18章28節-19章8節「覚えていて欲しい」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/12/16

Ⅱサムエル記18章28節-19章8節「覚えていて欲しい」

*** 12/16(水)祈祷会 説教概略 *** 

 ダビデ軍と謀反を起こした息子アブサロムの軍との戦いは、ダビデ軍の勝利で幕を閉じました。そして、反逆した息子アブサロムはダビデ配下の将軍ヨアブの手によって打ち取られ絶命しました。ダビデは「彼の命だけは守ってくれ」と懇願していましたが、ヨアブはその命令を無視してアブサロムにとどめを刺してしまったのです。

 さて、その知らせがダビデのもとに届けられます。


 わが子を失ったダビデの悲しみ

 
 ヨアブはその嫌な役目を外国人であるクシュ人(エチオピア人)に頼んでいます。祭司ツァドクの子アヒマアツも「自分が報告に行く」と主張しますが、ヨアブは「王子が死んだのだから、今日はやめておけ」と止めます。それでもアヒマアツは強く主張し、ヨアブはしぶしぶ許可を出しました。それでアヒマアツは急いでダビデ王のもとに行き報告したのです。

 アヒマアツはダビデに「主が王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました!」と意気揚々と告げました。
 ところが、王の反応はどうだったのでしょうか?

1829節です。 王は言った。「若者アブサロムは無事か。」 

 「本当に良くやった。ご苦労であった」と労いの声をかけて欲しかったところでしょう。しかし、第一声は「アブサロムは無事か」でした。アヒマアツも動揺したのではないでしょうか。彼はアブサロムの死をヨアブから聞かされていたのですが、答えを濁さざるを得ませんでした。

 29節の続きにこうあります。
アヒマアツは言った。「ヨアブが王の家来であるこのしもべを遣わしたとき、何か大騒ぎが起こるのを見ましたが、私は何があったのか知りません。」

とっさにごまかしています。
そして、このすぐ後にダビデはクシュ人からアブサロムの死を聞かされるのです。そこには本当に悲痛な叫びがあります。  

18:33 王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」  

「馬鹿な子ほどかわいい」と言われますが、ダビデにとっては謀反を起こしたアブサロムであっても愛するわが子であったのです。愚かな行動をしてしまった背景に、自分の父親としての責任も痛感していたことでしょう。彼は号泣して「私が代わりに死ねばよかったのに」と言い続けたと語られています。王である前に、1人の父親としてのダビデの姿です。

このダビデ王の姿は父親としては自然なことです。しかし王としてはどうだったのでしょうか?ダビデ王の様子は、将軍ヨアブや兵士たちに伝わりました。 



 王に覚えていて欲しい者たち

 
19:1 そのようなときに、ヨアブに、「今、王は泣いて、アブサロムのために喪に服しておられる」という知らせがあった。
19:2 その日の勝利は、すべての兵たちの嘆きとなった。その日兵たちは、王が息子のために悲しんでいるということを聞いたからである。 

 命をかけてダビデのために戦った兵士たちです。敵軍の将となった息子の死を悼むばかりの姿は見るに堪えないものであったことでしょう。勝利にも関わらず、この日は「嘆き悲しみの日」になってしまったのです。3節にもこのようにあります。

19:3 兵たちはその日、まるで戦場から逃げて恥じている兵がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。  

ダビデもかわいそうですが、命がけで戦った兵士たちもかわいそうですね。敵側は2万人もの死者が出ていますから、ダビデ軍においても命を失った兵士たちがいたことでしょう。

そうでありながら、勝利に胸を張ることができず、恥じるようにこっそりと帰還しなければならなかったとは、兵士たちも辛かったことでしょう。

ダビデも頭ではこれらのことが分かる人であったことは間違いありません。
それでも、感情面が勝り息子を失った悲しみが怒涛の如くに押し寄せてしまったのではないでしょうか。愛する者を失うとはそれほど大きなことですよね。

それを思うと、まさにこのクリスマスに愛するわが子をくださった神様の犠牲の大きさ、悲しみの深さを改めて思います。しかも神の御子イエス様がアブサロムと違うのは、何一つ悪いことをしていないということです。アブサロムは、ある意味では自らの愚行の故に死罪になるのはやむを得なかった状況です。殺人も犯していますし、神が油注がれた王ダビデ、父親に剣を向けているのですから。

しかし、イエス様は何も罪を犯さず、むしろ愛と正義とやさしさで満ちていました。
弱い人に寄り添い、虐げられている者に寄り添い、自らを呪い攻撃する者のためにさえ祈り、自ら十字架に歩まれました。正しいのに、罪人の濡れ衣を着せられるようにして殺されなければならなかったことは、本当に屈辱的なことです。それを見守る父なる神様の悲しみは想像を絶するものであったと言えます。

私たちはダビデのこの悲しむ様を見て、クリスマスに愛する御子をくださった父なる神様の深いご愛を改めて感謝に覚えたいと思うのです。


 人の自己中心性と神の無償の愛

 
 それにしても、このような状態では、兵士たちは浮かばれません。ダビデの目を覚まさせるのは、やはり冷酷非情であまり人を思いやれない面のあるヨアブでした。
5-6節にこうあります。 

19:5  ヨアブは王の家に来て言った。「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。 
19:6  あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは今日、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないものであることを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったのでしょう。  

痛烈な批判です。ダビデのしている行動が、どれほど多くの者たちを傷つけるのかを歯に衣着せずに伝えています。私たちは感情に支配されると、必要以上に人を傷つけてしまう面があることを彼のことばから再認識させられます。

ダビデの視野は狭くなり、自分の悲しみでいっぱいとなり、命をかけた兵士たちへの感謝も労いもできずにいたのです。それどころか、ダビデが悲しむほどに兵士たちはいたたまれない気持ちになったことでしょう。ヨアブは非情すぎて人間味を感じないところがありますが、彼だからこそこの状況のダビデに厳しい意見を言えたとも言えます。主が彼をして言わせたとも言えるかも知れません。

彼は6節の最後では皮肉たっぷりにこう言います。
もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったのでしょう。

 これは手厳しいですよね。でも、ダビデの悲しみの姿はそう思われても仕方ないものかも知れません。自分の愛する者が一番に生きていて欲しい、そのために知らない他人が大勢犠牲になったとしても・・・。人の自己中心性はそういう面が少なからずあるように思います。

 だから、人には隣人を救えないのです。

 最後はやっぱり自分が可愛い。自分の愛する人に生きて欲しいけれど、他の人に対してはそこまでの愛を注げない私たちの自己中心性です。

しかしながら、神様はその真逆のことをなさいました。
ご自身の何も悪くない御子を犠牲にして、他のすべての人が生きるようにされた。神様の側だけで犠牲を払ってくださって、罪ある私たちは何も犠牲を払わずして、プレゼントとして救いを受けました。この無償の愛は主なる神様のみが持っておられるので、この方の愛を受け取り、教えられ続けて行く必要があるのです。

 
 ヨアブは「このままだと、あなたの家来は皆いなくなります」と告げ、家来を迎えるように促しました。7節でこう言っていますね。

19:7  さあ今、立って外に行き、あなたの家来たちの心に語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれ一人あなたのそばにとどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう。」 

 ダビデはこの進言を聞き入れ、なんとか門の所に座って彼らをねぎらう姿勢を見せることができました。 

 しかし、この将軍ヨアブは、この後ダビデによって解任されてしまいます。これまでダビデは彼を用いてきましたし、7節の助言もダビデは聞き入れました。しかし、やはり「王命を完全に無視した」ことは罰しないわけにはいかなかったと言えますし、彼の人の痛み理解できない人格が大きな課題であったことも関係しているのではないでしょうか。  

 この一連の出来事を見る時、人は皆それぞれに正しいと思うことをしているけれど、完璧な人はおらず、皆それぞれに間違いや弱さを持っていることを示されます。

 少し前の1818節を読みましょう。

18章18節 アブサロムは生きていた間、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」と言っていたからである。彼はその柱に自分の名をつけていた。それはアブサロムの記念碑と呼ばれた。今日もそうである。

 アブサロムの孤独を覚えます。「私を覚えていて欲しい」これが彼の叫びでした。彼の満たされない「歪んだ承認欲求」ゆえに、彼は道を踏み外して行きました。
 彼には3人の息子が生まれたことが記されていましたが(14:27参照)、もしかしたら彼と息子たちの関係も良くなかったのかも知れません。

 人には、何があっても変わらない永遠の愛が必要なのです。

 ヨアブもまた、もう少し愛のある痛みの分かる者であったのなら、ずっと将軍として活躍できたでしょう。そしてダビデのために戦った兵士たちも、やはりダビデに覚えて欲しかったことでしょう。それなしでは命がけで戦ったことが報われません。
 ダビデ自身も神様の変わらぬ愛以外に、息子を失った傷をいやせる道はないでしょう。人の愛は不完全であるため、お互いにすれ違ってしまったのがダビデとアブサロムだとも言えます。

 人の愛の不完全さ、人の正義の偏り・・・こうした様々な欠けを補えるものは主のご愛以外にはありません。

 そして記念碑に名前を刻んでまで「忘れないでほしい」という叫びは、主イエス様を信じるならばもう不要です。イエス様はあなたを忘れません。いつも覚えていてくださり、ともにおられます。

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