24節 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25節 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
きっとマリア一人ではこの重荷を担えませんでした。でも、神様はふさわしい夫ヨセフを導き、彼が盾となってマリアを守り支えたのです。
この奇跡的なイエス様の誕生には、人類の救いのために重要な点がありました。
まず、イエス様はマリアのお腹で育ち、人間の赤ちゃんとして生まれたということです。私たちと同じように肉体を持ち、赤ん坊の姿にて人の手によって育てられました。オムツを変えていただく必要もあったでしょう。お腹もすくし体調も崩す有限な「まことの人間」です。全知全能の方が人の手でお世話されなければ「今日を生きられない赤ん坊」にまでなられたとは、なんという「へりくだり」「謙遜」でしょうか。弟子の足まで洗われたイエス様の姿を思います。だから、私たちの痛みや苦しみがわかり、私たちの弱さに同情できるお方なのです。
でも、貧しい家の赤ん坊として生まれました。馬小屋で生まれました。だから、当時の社会で最も身分の低かった羊飼いたちがイエス様のもとに駆け付けられました。また、外国人である東宝の博士たちも赤ん坊イエス様を訪れました。どんな身分の人も、どんな国の人も、臆病な人でも、無防備な赤ちゃんとして来られたイエス様にお会いできたのです。
あなたを招くため、強く立派な王ではなく、弱さの中貧しさの中、小さな赤ちゃんとして来られました。あなたを救いに招いておられるのです。
一方で人間の血の繋がりによって宿られたのではなく、聖霊によって宿られたために、人間が受け継いできた罪の性質を持たれませんでした。聖霊による処女降誕とは、なんとなく雰囲気が素敵だからではなく、罪の性質を帯びていないという重要な一面があったのです。
罪のない聖なる方だから、私たちを罪の重荷で動けない者たちの重荷を代わりに担うことがおできになったのです。
ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
この方だからこそ、人を救うことがおできになるのです。神のご性質と人の性質を持つイエス・キリストだからこそ、「神と人とを結び合わせる架け橋」となられることが可能でした。十字架は神と人とを結び合わせる架け橋なのです。
21節の後半にこうあります。「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
救いは、ある所からある所へ「救出する」「移す」という一面を持ちます。
泥沼にはまっている人を、そこから確かな陸地へと「救い出す」、燃え盛る火事の現場から消防士が逃げ遅れた人を「救い出す」。そのような場面でも使われますよね?
窮地の状態、死に瀕している状態から「救い出す」時に使われるわけです。
聖書は「罪の結果は死である」と語ります。その死には二種類の意味があって、罪のゆえに肉体の死が入りましたが、それだけでなく「霊的な死」に至るという意味もあります。こちらの方がより深刻ですが、霊的な死とは「神様との交わりが絶交状態になっていること」を意味するのです。神様との愛の交わりがなく、心が満たされません。そして、その行きつく先は「滅び」です。罪の解決を得ないままでいるならば、人は死後に永遠の刑罰に引き渡されてしまいます。
しかし、神様は誰が死ぬことも滅びることも望まないお方です。悪者と呼ばれる者さえ滅びることを望まないと聖書にはあります。それほどあわれみ深い方が、私たちを救うために来られたのがクリスマスです。イエス様を心にお迎えし、罪とその結果である死からの救いにあずかりましょう。
23節 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
私は初めて教会に通うようになった時、こんな心配がありました。自分はぐうたらだからきっと聖書も毎日読めないし、教会もさぼってしまうだろう。立派になんて生きられない。
でも、先輩クリスチャンが言ってくれました。「そうじゃないよ。立派にできない僕らだからイエス様が必要なんだよ。聖書を毎日読めなくても、教会に行けないことがあっても、イエス様は変わらず愛しているんだよ。見捨てずともにおられるんだよ。」
ヨハ 14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
ヘブ13:5主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
インマヌエルであるイエス様はどんな時もともにおられる方です。神様に祈る時に「ともにいてください」と祈る場合がありますが、そんな祈りすら不要なほどです。そう祈った時には、もう隣であなたをハグしておられるからです!
そして、今日もう一つ覚えたいことは、インマヌエルであるイエス様を信じる私たちも、お互いに見捨てない交わりを築きたいということです。それは救いの恵みをみんなでより深く味わっていく方法だと私は信じます。
ひとりぼっちの人がいない教会、苦しい時、辛い時にそれを分かち合うことができ、祈り合う群を目指したいと思います。
昨日はチャペルコンサートでしたが、色々と準備の段階からいつもと異なる大変さがありました。コロナ下でのことですから、実施すべきか中止すべきから悩みました。工夫も必要でした。制限も多くありました。それでも企画された兄姉が中心となって、頭を悩ませながら労してくださいました。無事に祝福の内におえられ本当に感謝でした。
終わってから、企画されたリーダーから「色々と至らない部分があったと思います。申し訳ないです。」と皆さんに一言ありました。しかし、誰がやっても至らないものです。私たちは人間ですから。そのように言わせてしまうことに申し訳ないと思いました。
私たちは一人ではなくみんなでやるのです。一人では考えが至らない部分を、他の人が知恵を出し気にかけてカバーすべきです。一人では手が届かないところを、出来る人が手を伸ばせばいいのです。他の人の足りない部分を責めるのではなく、その弱さを自分の弱さとして受け止め合うとき、まさに主イエス様が私たちに寄り添ってくれた姿にならう弟子となれるのではないでしょうか??
2019年に西武ライオンズが苦しい中でもパリーグで連覇した時の辻監督のコメントに感動したのを覚えています。この年、西武ライオンズは投手陣が良くなかったのです。防御率はリーグで最下位。でも、その中で監督がキャッチャーに前年から求めていたことがあります。それは、『自分の要求と逆のコースにボールが来て打たれても、自分の責任だと受け止めてくれるキャッチャー』になってほしいということでした。キャッチャーはその打者の弱点などを抑えていて、そこに投げさせる。でも、調子が悪いとピッチャーは思うようにそこに投げられないことがあります。それで打たれてしまうことがあるのです。キャッチャーは正しいことをした。しかしピッチャーの疲労やメンタルや能力の問題で、そうできないことがある。それをピッチャーのせいにしないで、その弱さを自分の責任として受け止めていくキャッチャーこそ、チームを引っ張る真のキャッチャーなんだと言うのです。
そんな風に指導しているんだと感心しました。
教会でも同じことが言えるなと思うのです。思うようにできなかった所を責めるのではなく、そこをみんなでどう補えるかをいつも考えていけるチームでありたいと思うのです。
イエス様は、私たちがいい時だけともにおられる方ではないのですよね?
私たちが「こんなんじゃ見捨てられても仕方がないな、いい加減イエス様だって呆れますよね?」と自己嫌悪する時、そんな時にも「あなたが必要だよ、あなたが大事だよ」とすぐ隣でともにいてくださるから「インマヌエル」なのです。
私たちはその「インマヌエルなる主の弟子」です。この方の名前に泥を塗るような愛のない関りになりたくないですよね。相手の弱さを私の弱さとして引き受け、補い合う中に、神様の愛を表していきたいのです。今年のクリスマスはそういう意味で、今まで以上に困難で、さばき合う危険もある時であり、判断のひとつひとつが難しいクリスマス。でも、だからこそ、神の愛を今まで以上に現し合うべきクリスマスではないでしょうか?
新しい方々も、そんなチームの一員にくわって欲しいと思っています。この世に行けば、さばき合い責め合い、擦り付け合うことはいくらでもあるでしょう。でも、お互いに対して責任を持ち合い、愛し合う交わりは多くはないのです。