東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: クリスマスメッセージ ルカ2章1-12節「イエス様を心に」

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見よ。わたしは新しいことをする。(イザヤ書43章19節)

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2020/12/23

クリスマスメッセージ ルカ2章1-12節「イエス様を心に」

*** 12/23(水)祈祷会 クリスマスメッセージ概略 ***

 皆さんは自分の誕生日を家族や大切な人から忘れられたことがあるでしょうか?
 自分の誕生日を忘れられるということは、やっぱり悲しいですよね。しかし、このクリスマスはイエス様のご誕生をお祝いする時なのに、しばしば主役のイエス様が忘れられてしまうことがあるのは、やはりとても悲しいことです。


 とはいえ、キリスト者であっても、年末ゆえに毎日の慌ただしさの中で、年賀状、大掃除、新年の準備でついつい忙しくて忘れ去られてしまうことがあり得ます。クリスマスを教会で過ごしていても、奉仕で心が忙しくなってということもあります。

 そのようにして、イエス様が私たちの心の中心、生活の中心におられないとただの「疲れる季節」になってしまうかも知れません。

そう思うと神様はなぜこの季節を選ばれたのかと思わされます。皆が忙しく走りまわる「師走」と言われる季節にクリスマスを置かれたのはなぜなのでしょう?もしかすると、私たちが一番忙しく心を失う時だからこそかも知れません。

そこに神様の摂理があるように思うのです。その忙しい時節に主は問いかけられます。「あなたはわたしを愛するか」と。「わたし以外のことで心がいっぱいになってはいないか?」と主は問いかけておられるように思います。


 イエス様降誕の背景

 時のローマ皇帝アウグストゥスの勅令が下りました。自分の生まれ故郷に戻って、住民登録をせよという勅令です。イエス様を身ごもったマリアも例外ではありませんでした。身重のからだで婚約者のヨセフと共に住民登録のためベツレヘムに向かったのです。住民登録は国が納税額を把握するためのものでした。

4節 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

5節 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。

 このナザレという町からベツレヘムまでの道のりは、およそ120km。電車も車もない時代です。身重の体でこの距離を移動することは大変だったでしょう。徒歩、あるいはロバに乗って移動したのでしょうか。長い旅を終え、ようやくベツレヘムについた時、マリアは既に臨月を迎えていました。

6節、7節にこうあります。

6ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、

7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 

 宿屋ではなく家畜小屋にある飼葉桶に生まれたイエス様でした。
 さて、このクリスマスに関して、2つのグループについてお話しします。


 目の前のクリスマスを受け入れなかった人々


 あるクリスマス賛美曲に「多くの人たちが待ち続けていた すばらしい知らせが届く」との歌詞があります。確かに待ち望んでいた人もいるのです。シメオンやアンナのように!

 しかし、本当にみんなが待ち望んでいただろうか?と疑問だなと思います。案外多くの人が自分の目の前こと、自分自身のことに心を奪われて、待ち望んでなどいなかったという現実があるのだと思うのです。

 例えば、その一人はマタイ2章で登場するヘロデ王でした。彼は「ユダヤ人の王として生まれた方がいる」と東方の博士たちから知らされ、非常に動揺し、自分の立場が危うくなるのではないかと、赤子のイエス様を殺そうと思ったわけです。

 自分の罪を赦し救ってくださるお方なのに、この方を殺して自ら救いから遠ざかろうとしてしまう愚かさです。待ち望むどころか除こうとしたのです。

 そして宿屋の主人もまたその一人ではないかと思います。はるか120kmの距離を旅し、ヘトヘトでベツレヘムに着いたヨセフとマリアでした。ところが、宿屋には「彼らのいる場所がなかった」と語られています。

 満室だったとは記されておらず、まだ空きがあった可能性も否定できません。そして仮に満室だったとしても、もう生まれそうな妊婦さんです。120km旅してきた夫妻です。自分の家の一室を提供するなり、なんとか出来たであろうと思うのです。

 しかし、この主人は救い主のための部屋を提供しませんでした
 ヨセフとマリアは仕方なく、宿屋ではなく家畜小屋に寝泊まりすることになりました。もし宿屋の主人がもう少しだけ救い主の預言に心を配ることができれば、求める心があれば、部屋を用意しておいたのではないでしょうか。あのシメオンが待ち望んでいて、赤子のイエス様が来た時にすぐにそれと分かったように。

最終的に、ヨセフとマリアが身を置く事を許されたのは、粗末な家畜小屋でした。飼葉桶は、家畜の餌を入れる桶ですね。そのような、粗末な貧しさの中にイエス様はお生まれになったのです。

これらの降誕の出来事は、私たち人間の心を映し出しているように思えるのです。私たちの心は忙しさでいっぱいになっています。自分勝手な思いでいっぱいになっています。この世の富や名声、競争で、心の部屋が満室になっていて、イエス・キリストのいる場所がなくなっているのではないでしょうか。 

皆さんは、しっかりとこのイエス様の部屋を用意されているでしょうか。この宿屋の主人はひどい人だと思う方がいらっしゃるかも知れません。子どもが生まれそうなのだから、助けてあげればと良いのにと。

しかし、私たちなら本当に助けるでしょうか。自分のことばかりで心がいっぱいになっている私たちが、本当にそのようにできるでしょうか。 イザヤ書にこのような言葉があります。 イザヤ53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 当時の人々も、このイエス・キリストの誕生に本当の意味では関心を払わなかったのです。おのおの自分勝手な道を歩んでいたからです。


 目の前のクリスマスを受け入れた人々

さて、そういう中でも救い主の誕生に真っ先にかけつけたのは、羊飼いです。8-12節。

8節 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

9節 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

10節 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

11節 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12節 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 

 羊飼いに最初にこの事実が告げられたことは、驚きですし、非常に意味があることでした。彼らは、当時の社会で最も身分の低い、虐げられた弱い立場の人であったからです。すべての人のための救いなのだと気づかされます。

 一方、彼らには「求める心」がありました。身分も財産もありません。地位も名誉もありません。でも天使の声に従って救い主の元にかけつける心、救いを待ち望む心、主を求める素直な心があったのです。一番大切な心です。そしてその意味では、東方の博士たちもまた、わざわざ外国から救い主を探して歩いてきたのですから、求め受け入れた人々でしょう。

 この救いの知らせを受けることができるのは、イエス様を求める者に他なりません。しかし、私たちの心に、キリストの居場所はあるでしょうか。羊飼いたちのように、自分の仕事をそこに置いて、まず救い主イエス様のもとに行く。疑わず素直な心で信じて主を求めること。宿屋の主人のようにならず、イエス様のための部屋を用意しましょう。一番良い部屋に!20

20節 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 

 みことばに従い、イエス様を求める者はこの羊飼いたちのようになります。みことばが真実だと体験し励まされ強められます!救い主を心に持つので、神様をあがめ賛美して歩む者となります。

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