*** 1/24(日)主日礼拝 説教概略 ***
黙示録1章17-20節 「恐れることはない」 金在賢神学生
おはようございます。恐れが多い時代ですが、それでも主だけを恐れ、このように、皆様と共に礼拝できることを嬉しく思っています。
さて、皆さんに平安はあるでしょうか。皆様はいかがお過ごしだったのか、時間があれば、ゆっくりと皆さんとともに分かち合い、一緒に祈り合いたいのですが。私は正直、不安が多いです。平安がなかったのは、やはり何かを恐れていたからではないかと思います。
学びに追われ、育児に追われ、教会の奉仕に追われ、さらにコロナ時代において、卒業後どう生きていけば良いのかと不安を覚えます。これが正直な心です。皆さんは何に追われ、何に恐れを感じているでしょうか。恐れることの多いこの時代において、私たちクリスチャンまたは、教会に必要なのは何なのか。そのことを黙示録から学んでいきたいと思います。
一つは、神への恐れ。
二つ目は、(神を恐れる)それゆえに恐れずみことばを伝えていく。
まずは、黙示録が書かれた背景を考えましょう。
現代の私たちも恐れがあるように、黙示録が書かれた当時でも、恐れがあったと思います。当時の恐れは迫害でありました。恐れの中で、教会は弱くなり、力強く宣教するところか、信仰も揺れていたかもしれません。そんな恐れの中でヨハネに、10節「主の日」(主日礼拝)に御声が聞こえてきました。それで、イエス様が現れたのが今日の箇所です。
黙示録 1:17
この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。
教会の試練の中で、ヨハネは迫害に対する恐れを感じたかもしれません。当時の教会も恐れを感じたかも知れません。コロナの影響を受けている私たちのようにですね。そのような状況の中で、ヨハネに現れたのは神であるイエス様です。使徒ヨハネはどれほどイエス様に会いたかったでしょうか。3年間、イエス様と共に過ごし、イエス様からも特に愛された使徒ヨハネなのに(ヨハネ13:23)。ヨハネは死んだ者のように、その足元に倒れ込んでしまいました。なぜ、その足もとに倒れて恐れながら、死者のようになったのでしょうか。一体イエス様はどんなお方で、ヨハネが死者のようになったのか。今私たちはその方に礼拝を捧げているんですが。この質問を持って、読み続けたいと思います。
1.2. 神を恐れる時に現実の恐れから解放される「恐れることはない」
それで、死者のように倒れ込んだヨハネにイエス様は何とおっしゃっているでしょうか。「恐れることはない」右手を置いてこう言われました。「恐れることはない。」第3版では「恐れるな」とありますね。命令形ですので、直訳的だと思いますが、2017訳からはより慰めが与えられるような口調ですね。
「恐れることはない」ここを読みながら、今自分は何を恐れているのか。考えさせられました。皆さんは、何に恐れているのでしょうか。「恐れることはない」と主イエス様の御声を礼拝の中で聞きたいなと思います。続けてイエス様は三つのことをおっしゃいますが、この三つのみことばによって、ヨハネの前に現れたお方がどんなお方なのかが分かります。ヨハネが死者のようになった理由がここにあると思います。
1.3.三つのイエス様の言葉
①「私は初めであり終わりであり」
このような呼び方は天地万物を造られ、歴史の支配者であられる、主であられる神様に対する呼び方です(イザヤ書 41:4, 41:10 )。ここでヨハネの福音書で、よくイエス様が言われる「エゴーエイミ」「わたしはわたしである」という表現が出てきます。真の神としての神聖を表す言葉ですね。それから、イエス様が「私は最初であり、最後である」とおっしゃるのは、イエス様が歴史の支配者であられ、永遠に生きておられる父なる神様と同じ身分であられることを表します。イエス様は恐れるべき神である。礼拝すべき神である。
混乱の時こそ、イエス様がどんなお方なのかを認識することはとても大事だと思います。神を恐れる時、現実の恐れは消えていくと思います。
②18節「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。」
この表現は旧約聖書にある神様に対する表現です(申命記 32:40、ダニエル書4:34)。いつも神様は永遠に生きておられるお方として表しています。
また、「生きている者である。私は死んだが」という表現は、イエス様の復活を意味しています。ここで、イエス様が死と復活をおっしゃったのは、イエス様が生きる命と死について、主権を持っていることが分かります。人間は誰でも死に直面しますね。しかし、私たちが信じているイエス様は永遠に生きておられる神であります。そのことをあらためて心に刻みたいと思います。
③18節「また、死とよみの鍵を持っている」(また死とハデスとのかぎを持っている)」
ここでの「よみ」というのは、ヘブル語では「スオル」で第3版をお持ちの方は「ハデス」とも訳された言葉です。今回は「よみ」と訳がかわりました。お墓を意味したり、死者が行く地獄を意味したりします。また、「かぎ」とはドアを開けたり、閉めたりする権威を意味します。それでイエス様が「死とよみのかぎ」を持っておられるのは、死なせることも、生かすことも、地獄に行かせることも、行かせないこともイエス様が主権を持っておられるお方だということですね。私たちが生きることも死ぬことも、天国に入ることも地獄に入ることも、全てがイエス様の主権の中にあります。
このような主権を持っておられる主イエス様がともにおられ、おっしゃいます「恐れることはない」。「恐れることはない」という言葉を新約聖書で探してみると興味深いことに、現実の恐れとして、描かれています。それがあらしの中での恐れだったり(マタイ14:27)、死に直面する恐れであったりします(マタイ10:28, マルコ 5:36)。逆に恐れるべきお方は神であることを聖書は言っています。私は将来の進路に恐れて、よく死者のようになりますが。私たちは小さな問題の前でよく不安を覚え、すぐ死者のようになるではないかと思いますね。しかし、私たちが真の神の御前にいる時はいかがでしょうか。小さな問題よりも神を本当に恐れているのか。私たちは礼拝の中で、主を恐れているのかと問われます。
黙示録 1:19
それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ(11節)。
神であるイエス様を恐れるヨハネに与えられた使命は自分に与えられた神のみことばを書き記して伝えることでした。2章にある7つの教会への手紙が書かれているように、使徒ヨハネはちゃんと主の命令に従っています。問題を恐れず、主を恐れる時に私たちはちゃんと教会の本質を守り、主の命令に従って、みことばを伝えることができるではないのかと思います。
2.2. 燭台は教会を表す。
黙示録 1:20
あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
イエス様は使徒ヨハネが見た幻の中で、二つのことをまず解釈して下さいます。20節「七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である」。まず、七つの星は、七つの教会の御使いたちだと教えて下さいました。それは二つの解釈がありまして、一つは七つの教会を代表するみつかいという解釈と、七つの教会の指導者という解釈があります。いずれにしても、その共同体の全体を代表する存在を意味するのです。現代の教会の牧師先生とも言えると思います。
続きまして、七つの教会を七つの燭台(灯台)と書いてありますが、これは旧約時代の神殿の聖所の中にあった金の燭台と関連があります。本来、金の燭台は一つでした。一つの金の燭台に七つの枝があって、七つの枝の上に七つのとぼしび皿がありました (出エジプト記25:31-40)。しかし、黙示録に現れた燭台は一個ずつある七つの燭台でした。これは七つの教会がそれぞれ独立した教会であることを意味しています。
ここで、旧約時代と新約時代の教会を考えて見ましょう。旧約時代のイスラエル教会は単一の民族で構成された、ただ一つの教会でした。しかし、新約時代における教会は多様な民族と国と言語を使う多様性を持った教会でありますね。まるで、小アジヤの七つの教会がそれぞれ違う特徴を持っていることと同じですね。(私たちの教会が属している福音自由の個々の教会が、独立している地方教会の自治を認めていることと同じようなものとも言えます。)
2.2. 教会の使命
そしたら、教会をなぜ燭台(灯台)で表現しましたのでしょうか。それは教会がこの世において主のみ言葉、つまり真理を宣べる使命を持っているからです。19節にある主の命令の目的、黙示録の記録の目的は、苦しみや試練の中にいても、どんな状況にいても、本質を失わないためでした。その教会の本質とは、神様に対する真理、イエス様に対する真理、罪の世の裁きと教会の救いについての真理、永遠の御国に対する真理を光を照らす燭台のように教え伝える使命のことを失わないことです。
福音そのものであられる主イエスキリストが教会とともにおられ「恐れることはない」とおっしゃるから、私たちは恐れずに勇気を出して、感謝の喜びを持ってこの世に宣教していくことができますね。教会が宣べて行くこれらの真理は、まるで真っ暗な海の中を照らす灯台のような命の光です。教会が無ければこの世は真っ暗であるしか出来ません。だから、主イエス様は教会を「世の光」だとおっしゃっていました(マタイ5:14)。