東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱコリント4:5-7「土の器として」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/01/27

Ⅱコリント4:5-7「土の器として」

*** 1/27(水)祈祷会 説教概略 *** 
Ⅱコリント4:5-7「土の器として」

 私たち自身の力による宣教ではなく、「弱く未熟な私たちのうちに力強く働かれる主に拠り頼んで宣教していく」ということを教えられたいと思っています。


 牧師にとって説教は喜びの奉仕であると同時に、最も悩み葛藤する部分でもあります。特に語っても皆さんの心に届いていない、魂の深いところに入って行かないと感じることが少なからずあります。
 
 以前、ある時にそのことを非常に問われました。一生懸命語っているのだけれども、何か上滑りしていて届いていないように感じる。その中で示されたことは、私自身がみことばに聴いているのか。そのみことばから問われ、教えられ、取り扱われているのかということでした。自身が一番にみことばから語られ、聞いていなければ、語る説教が届かないのは当然です。

 その時からまず自身の心と魂に語られてから語るという格闘が始まりました。そして、自分の弱さをも率直に語り、正直な応答をもって皆さんに語るようになることを通して、聴衆の反応も変わってきたと感じる部分もありました。

先日の南地区牧師会で、ある先生がある研修で聞いた宣教師のお話を分かち合ってくださいました。神様の力でと思っていながら、自分の力押しの宣教をしていたと気づかされる出来事があったという話です。それは弱さを率直に証しする中で、それを聞いた方々から「自分の弱さを主体的に話される牧師に驚いた」と言われた経験だったそうです。

「昔はああだったけど今はこう変えられた!」というサクセスストーリーで終わらず、今もまだその途上にあるという事実を明らかにすることが大切だと気づかされたというのです。 

とてもよく分かるなと思いました。伝道をしていく中で、正論をただ語り続けてしまうことがありました。しかし、人の心は正論では閉ざされることもあります。その時に、こちら側がまず心を開いて隙だらけになる必要があると思わされました。相手に心を開いて欲しいのならば、まず自分が心を開いて分かち合っていく必要があるからです。

まさに頑丈な器、ピカピカな金の器ではなく、もろい土の器になることが求められます。それゆえに、弱さを通して働かれてい主イエス様がよく見えるようになりますよね。


偽善の問題
イエス様が偽善について語られたみことばを少し教えられましょう。 

マタイ23:23 
 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。 

 このマタイの23章では、マタイ5章に登場する「幸いなことよ。~する人は」というシリーズの反対バージョンが語られています。新改訳2017年版では、「わざわいだ偽善の律法学者」というフレーズで繰り返し語られています。
23章の15,23,25,27,29と繰り返されています。

 偽善者には劇場の「演技者」という意味もありまして、本当の自分ではない別の自分を演じるところから来ています。「善人を演じる人」のことです。ではなぜ、そのような偽善がそんなにも「わざわい」なのでしょうか。

 それは人を神様から遠ざけてしまう罪だからです。自分自身、またその周囲の人を神様に近づけるどころか、かえって遠ざけてしまう。そう思うと私たちは偽善を避けて、神の前にも人の前にも、率直に正直に歩ませていただきたいと思いますよね?

 先ほど触れた牧師会で分かち合われたことに、こんな表現がありました。
偽善者は周りを病人にする特に偽善者は子どもをダメにする。子どもをダメにするのは、ほかの罪ではなく、もっぱら偽善だ」と。胸に痛いです。

 私自身も青少年の働きを長年させていただき、本当にこれはその通りだと感じてきました。案外多くのクリスチャンホームで本音と建て前、家での顔と外向きの顔のギャップ、偽りの謙遜、体裁を繕ってしまう文化が深く根付いてしまっています。いわゆる日本特有の「恥の文化」が、私たちの深いところに刷り込まれてしまっているのです。

 教会で自分たちのそうした弱さの現実を分かち合えず、そんなことを話したら引かれてしまったり、さばかれてしまったりする風潮があるならば、偽善者が生まれてくるのもやむを得ないことでしょう。

 イエス様はここで偽善者たちに向かい、あなたがたは目に見える十分の一をささげるなどの行為は欠かさずやっているが、それよりはるかに大事なものをしていないと指摘されました。「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」と言われたのです。十分の一をささげることも大切だが、まさにこれらこそより大切なものであると教えらえたのです。

 正義、あわれみ、誠実は目に見えないものです。それらを大切にするということは神様の前に生きること。裏表なく歩むことでしょう。しかし、私たちはどうしても「良く見せたい」のではないでしょうか。私は自分がそうだなと強く思います。

 やっぱり立派に見られたいちゃんとしていると思われたいのです。しかし、そのことのゆえに、福音が人々の心に深く根差すことの弊害となっているとしたらどうでしょうか?牧師自らが良く見せようと演じる偽善者になっていれば、教会もそうなってしまいます。

教会ではお互いが立派に見えてしまって、自分はダメだと劣等感を感じるケースもあります。もちろん、それはその人自身の課題でもありますが、同時に私たちが「優等生を演じている」ことによって生まれる課題かも知れません。 

 こんな話もありました。日本人は誰かを家に招く際にも「何もございませんが」とまず言う。本当は準備万端に整えて自信たっぷりであっても。ここにプライドがあるのだと言います。そして、何かを褒められた時、本当は「自分は出来ている、やっている」という思いでいっぱいなのに、口では「何もできない者ですが」とも言うのです。

 自分の評判のために完璧な準備をする傾向が日本人にはある。だから家に呼ぶことがだんだんおっくうにもなる。

 よくわかる心理だなと思います。


深いところから変えられていく道
 では、このような深く根付いている価値観について、私たちはどのように変えられていくことができるのでしょうか。

 弱さを認めて、そこに働かれる主の力を信じることです。

Ⅱコリント4:5-7を開きましょう。

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

 以前、丸屋真也先生を修養会にお招きしたとき、「信仰者の成熟」とはどういうことかと話してくださいました。聖書の言う完全とは何か。

 そこで分かち合われたことは、「もうこれで良い」と満足し立ち止まっているクリスチャンは幼いクリスチャンだと言うことでした。そうではなく、真に成熟したクリスチャンとは、常に成長が必要であると受け止めている姿なのだと。

 より聖化されていくプロセスであり、昨日より今日、今日より明日と成長を求めているのならば、それが成熟しているおとなのクリスチャンの姿だと教えられてました。

実に、このような未熟な自分を率直に受け止め、証しし、そこに働かれる主がおられることを告白していく時、そのことによって聞く人々も安心し、自分の荷物を下ろすことができるのではないでしょうか。

完璧を装う歩みをやめましょう。

完璧主義のしばりから解放されましょう。

むしろ、未熟さと欠けだらけな自分を受け入れ、こんな者をも愛し、力強く用いてくださる主の救いのすばらしさを誇りましょう。

そして私たちは必ず変えられていくことができます。主が働かれるからです。








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