東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記19章24-40節「与えられているものに感謝し、謙虚に生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/01/20

Ⅱサムエル記19章24-40節「与えられているものに感謝し、謙虚に生きる」

 *** 1/20(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱサムエル記19章24-40節「与えられているものに感謝し、謙虚に生きる」

 二人の人物とダビデのやり取りから「与えられているものに感謝し謙虚に生きる」というテーマで教えられます。

 2430節は、サウル王の孫、ダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテとダビデ王のやり取りが語られています。


メフィボシェテ

24節 サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげも剃らず、衣服も洗っていなかった。 

 彼は身だしなみを整えることすらせず、ダビデ王を迎えました。みことばによると、メフィボシェテは、ダビデがエルサレムから逃げた日から、この帰還の日まで、自分の足の手入れもせず、髭もそらず衣服も洗っていなかったようです。

ダビデ王の安否が心配で、それどころではなかったという事でしょう。

 さらに、ダビデ王がなぜ、私のところに来なかったのかと尋ねると、彼はこう答えています。26-27節前半にかけて。

26節 彼は言った。「わが君、王様。家来が私をたぶらかしたのです。このしもべは『ろばに鞍を置き、それに乗って、王と一緒に行こう』と言ったのです。しもべは足の萎えた者ですから。 

27節前半  彼がこのしもべのことを王様に中傷したのです。 

 自分は足が不自由で行こうにも行けなかった。それをいいことに、しもべのツィバは私を出し抜いてあなた様に中傷したのですと説明しています。

 そして、少なくともダビデはツィバの言うことを信じて、メフィボシェテはけしからんと思ってしまったようです。もちろんダビデは神様ではありませんから、どちらが本当のことを言っているのか、非常に戸惑ったことでしょう。

 ただ、みことばを素直に読んでいくならば、メフィボシェテのことばの方が信頼できるものであるように思えます。

 先ほど読んだ24節のみことばは、メフィボシェテの言い分ではなく、客観的事実として聖書が語っていますよね。

また、27節後半から28節のところを御覧ください。 

27節後半 しかし、王様は神の使いのような方ですから、お気に召すようにしてください。

28節 私の父の家の者はみな、王様から見れば、死刑に当たる者にすぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王様に訴える権利があるでしょう。」 

 メフィボシェテの非常に謙虚な姿勢が見えてきます。

 サウル王家の人間である彼は、ダビデ王家から見れば王位を争った敵でさえありました。ダビデは親友ヨナタンとの約束(契約)のゆえに、その息子であるメフィボシェテにあわれみを示していたのです。

 メフィボシェテはその事実を真摯に受け止め、自分たちは本来死刑に当たる者。そのような私を王の食卓に招いてくださったと言うのです(9:10-11参照)。

それだけでも感謝!

これ以上の権利を重ねて訴える資格などありません。

と彼は言っているのです。

 しもべのツィバが日和見主義者のシムイと一緒に行動し、ダビデの機嫌を伺うかのように迎えている姿を見ても、メフィボシェテは一貫して自分を低くし、その言い分は真実であるように思われるのです。

 それはおそらくダビデも感じたのでしょう。ただ、ツィバが調子の良い男だとしても、ダビデが彼によって恩を受けたのは確かです。そこで29節のように言いました。 

29節 王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分のことをまだ語るのか。私は決めている。あなたとツィバとで地所を分けるのだ。」 

 苦肉の策として、ツィバとメフィボシェテで地所を半分ずつに分けて対応することにしたのです。これで理解してくれと言わんばかりです。これに対して30節。

30節 メフィボシェテは王に言った。「王様が無事に王宮に帰られた後なら、彼が全部取ってもかまいません。」 

 メフィボシェテは、ダビデ王が無事であることこそ自分の喜び、土地を全部取られても構いませんとまで言っています。

 これらを見てもメフィボシェテにはダビデを裏切る思いなどなかったのでしょう。しかし、ツィバのたぶらかしによって、メフィボシェテはダビデに疑われ、受けられる地所も半分にされたのです。

私たちももしかしたら、メフィボシェテのような目に遭うことがあるかも知れません。足元を見られ、弱いところをつかれ、裏切られ損をすることがあるかも知れないのです。

でも、メフィボシェテの取った対応から教えられます。それはとても謙虚なもので主の目にかなうものであったのではないでしょうか。

本来自分たちは滅ぼされても仕方ない存在なのだ。だが生かされ、ダビデ王の食卓に与れる恵みをいただき、王の近くに過ごすことが許されている。それだけで十分感謝。という謙虚さです。それはないものを見て妬むのではなく、与えられた恵みに満足し、感謝して生きる姿です。

受けて当たり前との立場に立てば不満でしょう。しかし殺されても仕方がないという立場を受け止めるなら、メフィボシェテは恵みを豊かに受けていることになります。土地も半分を失ったと考えるのか、殺されるはずだったのに命を守られ、土地まで受けられたと考えるのか。

どこに立つかで見える景色が変わりますね。

ないところを見るなら、与えられている恵みが見えなくなります。それはなんともったいないことでしょうか?

 その意味では、受けるに値しない自分を知る者は、なんと幸いなことでしょうか。

 

バルジライ

3140節で、もう一人の人物の記録があります。バルジライです。

31節 一方、ギルアデ人バルジライはロゲリムから下って来た。そして、ヨルダン川で王を見送るために、王とともにヨルダン川まで進んで来た。
32節 このバルジライは、たいへん年をとっていて八十歳であった。彼は王がマハナイムにいる間、王を養っていた。非常に裕福な人だったからである。  

彼はギルアデ人。つまり外国人で1727-29節のところに登場した人でした。

彼こそは何の見返りもなく、ただ困っているダビデを快く助け、養ってくれた人でした。そしてその彼はダビデを見送るために、80歳という高齢で体に弱さを抱えながら、ヨルダン川までわざわざ来てくれたのでした。

ダビデはこの人への恩と感謝のため、一緒にエルサレムに来ないかと誘います。今度はダビデがバルジライを養おうと提案したのです。しかし、バルジライはこう答えます。34-35

34 バルジライは王に言った。「王様とともにエルサレムへ上って行っても、私はあと何年生きられるでしょう。 

35 私は今、八十歳です。私に善し悪しが分かるでしょうか。しもべは食べる物も飲む物も味わうことができません。歌う男や女の声を聞くことさえできません。どうして、この上、しもべが王様の重荷になれるでしょう。 

ダビデは彼に養ってもらった恩があり、彼をエルサレムに迎え死ぬまで面倒見ようとしたのです。しかし、バルジライはその申し出を慎んで断ります。彼は自分のありのままの現実を謙虚に受け止めていたからです。

自分が行けば、王様の重荷になってしまうので、それには及びませんと断ります。彼は自分の年齢を謙虚に受け止め、王様のお役に立つよりも王様にご面倒をおかけすることになると考えたのです。

そして36節でも、そのような報酬を受ける資格などないと彼は謙虚に言います。それはダビデ王の窮地を助けるということが、特別な報酬を受ける行為ではなく、その民として当然のことをしたのだと受け止めていたからでしょう。

ルカ17:10にイエス様のおことばがあります。

ルカ 17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

主は隣人を愛せ、困っている人、弱い人を助けよと命じています。そしてそれら全部を全うしたとしても、それは主のご命令をなしただけなのです。「しもべ」として当然のことをしたまででだと答えるべきだと主は言われます。

私たちは自分のわざを誇りたくなります。これだけのことをなした、そしてその報酬を受けて当然だ、ほめられ感謝されるべきだと。しかし、なすべきことをみことばから教えてくださり、気づかせてくださったのは神様です。それらができるようにと、財産や健康や自由を与えておられるのも神様です。手伝ってくれる仲間、従ってくれる部下・後輩のおかげでもあります。

そう思う時、させていただいた恵みを覚えるならば、何を誇ることがあるのでしょうか。

バルジライは自分の現実を正しく受け止め、自分は故郷で先祖の墓に入りたいと伝えます。そして、その代わりに彼の息子と考えられるキムハムを紹介しました。ダビデはその申し出を受け入れ、38節のように答えています。

38 王は言った。「キムハムは私と一緒に渡って行けばよい。私は、あなたが良いと思うことを彼にしよう。あなたが私にしてほしいことは何でも、あなたにしてあげよう。」

 ダビデがバルジライとその家族に対して、その恩に報いたことは第一列王記2:7からも分かります。そこでは、ダビデの遺言の一部があり、息子ソロモンに受け継ぐこととして、バルジライの家族のことが語られています。

 メフィボシェテ、バルジライ。それぞれ自分の弱さを率直に受け入れていました。受けて当然だと考えず、受けるに値しない者に良くしていただいてありがたいとの姿勢でした。

 そこに立つ時に、自分の思うべき限度を超えて思いあがることから守られます。

 そして謙虚に主のしもべとして忠実に歩む時、人からではなく主からの報いを豊かにいただけます。 


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