*** 1/20(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅱサムエル記19章24-40節「与えられているものに感謝し、謙虚に生きる」
二人の人物とダビデのやり取りから「与えられているものに感謝し謙虚に生きる」というテーマで教えられます。
24~30節は、サウル王の孫、ダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテとダビデ王のやり取りが語られています。
メフィボシェテ
ダビデ王の安否が心配で、それどころではなかったという事でしょう。
さらに、ダビデ王がなぜ、私のところに来なかったのかと尋ねると、彼はこう答えています。26-27節前半にかけて。
27節後半 しかし、王様は神の使いのような方ですから、お気に召すようにしてください。
28節
私の父の家の者はみな、王様から見れば、死刑に当たる者にすぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王様に訴える権利があるでしょう。」
メフィボシェテの非常に謙虚な姿勢が見えてきます。
サウル王家の人間である彼は、ダビデ王家から見れば王位を争った敵でさえありました。ダビデは親友ヨナタンとの約束(契約)のゆえに、その息子であるメフィボシェテにあわれみを示していたのです。
メフィボシェテはその事実を真摯に受け止め、自分たちは本来死刑に当たる者。そのような私を王の食卓に招いてくださったと言うのです(9:10-11参照)。
それだけでも感謝!
これ以上の権利を重ねて訴える資格などありません。
と彼は言っているのです。
しもべのツィバが日和見主義者のシムイと一緒に行動し、ダビデの機嫌を伺うかのように迎えている姿を見ても、メフィボシェテは一貫して自分を低くし、その言い分は真実であるように思われるのです。
それはおそらくダビデも感じたのでしょう。ただ、ツィバが調子の良い男だとしても、ダビデが彼によって恩を受けたのは確かです。そこで29節のように言いました。
29節 王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分のことをまだ語るのか。私は決めている。あなたとツィバとで地所を分けるのだ。」
苦肉の策として、ツィバとメフィボシェテで地所を半分ずつに分けて対応することにしたのです。これで理解してくれと言わんばかりです。これに対して30節。
バルジライ
31節 一方、ギルアデ人バルジライはロゲリムから下って来た。そして、ヨルダン川で王を見送るために、王とともにヨルダン川まで進んで来た。
32節 このバルジライは、たいへん年をとっていて八十歳であった。彼は王がマハナイムにいる間、王を養っていた。非常に裕福な人だったからである。
彼はギルアデ人。つまり外国人で17章27-29節のところに登場した人でした。
彼こそは何の見返りもなく、ただ困っているダビデを快く助け、養ってくれた人でした。そしてその彼はダビデを見送るために、80歳という高齢で体に弱さを抱えながら、ヨルダン川までわざわざ来てくれたのでした。
ダビデはこの人への恩と感謝のため、一緒にエルサレムに来ないかと誘います。今度はダビデがバルジライを養おうと提案したのです。しかし、バルジライはこう答えます。34-35節
主は隣人を愛せ、困っている人、弱い人を助けよと命じています。そしてそれら全部を全うしたとしても、それは主のご命令をなしただけなのです。「しもべ」として当然のことをしたまででだと答えるべきだと主は言われます。
私たちは自分のわざを誇りたくなります。これだけのことをなした、そしてその報酬を受けて当然だ、ほめられ感謝されるべきだと。しかし、なすべきことをみことばから教えてくださり、気づかせてくださったのは神様です。それらができるようにと、財産や健康や自由を与えておられるのも神様です。手伝ってくれる仲間、従ってくれる部下・後輩のおかげでもあります。
そう思う時、させていただいた恵みを覚えるならば、何を誇ることがあるのでしょうか。
バルジライは自分の現実を正しく受け止め、自分は故郷で先祖の墓に入りたいと伝えます。そして、その代わりに彼の息子と考えられるキムハムを紹介しました。ダビデはその申し出を受け入れ、38節のように答えています。
メフィボシェテ、バルジライ。それぞれ自分の弱さを率直に受け入れていました。受けて当然だと考えず、受けるに値しない者に良くしていただいてありがたいとの姿勢でした。
そこに立つ時に、自分の思うべき限度を超えて思いあがることから守られます。
そして謙虚に主のしもべとして忠実に歩む時、人からではなく主からの報いを豊かにいただけます。