東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネの福音書20章19-21節「今こそ平安のうちに歩もう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/01/06

ヨハネの福音書20章19-21節「今こそ平安のうちに歩もう」

*** 1/6(水)祈祷会 説教概略 ***

 再び緊急事態宣言が出されます。やむ無しという反面、経済的な課題はより深刻になるだろうと思われます。また、果たして効果のほどは?と疑問な部分も少なくありません。
 普段から気をつけて歩んでいる方からすると、学校も普段通りにあるそうですし、イベントも中止にするわけでもない。一体何が変わるのかという意見もあるようです。気をつけている人はずっと気をつけているので、これ以上何を?という面もあります。

 結局これこそ最善手というものを誰も提案できないのが現状なのだと思わされます。人間の無力さを感じます。


使命を持って人と関わっていく恵み

 ですから、私たちは主の前にへりくだり、全知全能のお方からひとつひとつ教えられながら歩むべきではないでしょうか。その中で神様によって心を強められ、倒れないようにしたいと思います。

 数日前に知人と電話で話しましたが、教会も行けておらず、人との接触の機会が減っているとのことでした。 当教会のオンライン動画で礼拝していらっしゃるものの、やはり交わりを持てていないので弱さを覚えています。

 私たちが思っている以上に、何かの使命感や責任感、やりがいを持って人と触れ合い、関わるということが、実は他の人を支えるだけでなく自分の霊肉の健康にとって非常に意義深いことだったのだと気づかされるのです。

 箴 17:22 喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。

 私たちの心と体はつながっています。元々人は心や魂と肉体を分けられる存在ではなく、両方あって統合体として一人の人間なのです。
 
 そして使徒20章35節にある「受けるより与える方が幸いである」との主のおことばは、まさに自分自身の心も体も守られていく上で大切な教えであると改めて教えられますね。与えると減るように見えて、実に与える歩みをすることが自分の心を強く豊かにし、神様からの報いをいただく恵みの機会ともなります。

 今日は特に多くのみことばから神様のご愛を受け取りたいと願います。
 このような時こそみことば漬けになって、地に足をつけて落ち着いて歩みたいのです。


騒がない、慌てない

 

ヨハネ14章1節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 ここにあるように私たちは神を信じ心を穏やかに保ちたい。心を騒がせても良いことは一つもありません。

 箴 9:13愚かな女は騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。とあり、騒がしくする者たちが愚か者の象徴であるかのようにみことばは教えています。あるいは箴言21章5節には後半にすべて慌てる者は損失を招くだけだ。とありますように、動揺し慌てる者は神様の良いみわざに貢献することを難しくしてしまうどころか、かえって損失を招きます。慌てず、騒がず、落ち着いて主にある平安のうちに、賢い判断をなす者とならせていただきたいのです。

 大変な時こそ、感情的・衝動的に動かず、まずは深呼吸をして神様にじっくり祈りましょう。神様との交わりをまず楽しみ味わいましょう。

 そして祈りのうちに主なる神様のみこころを求めていくのです。


いのちの泉から飲む

 Ⅰサムエル3:10にあるように「お話しください。しもべは聞いております」と祈りましょう。実は祈りは神様に私たちの願いをただ話すことではなく、より本質的には神様のみこころを知るための恵みのわざなのです。聞いていますのでお語りくださいと!

 そして、私たちは年の初めにイエス様を見つめ続けることを教えられました。なぜなら、イエス様こそ、信仰の創始者であり完成者でいらっしゃるからです。イエス様を見つめるならば、信仰とは何かをいつでも学ばせていただけます。そして、その結果、心から元気が失われることなく、疲れ果てずに歩めるのです。

 中国奥地への宣教に献身したハドソン・テーラーは、その信仰の秘訣は、イエス様といういのちの泉から飲むことだと明言しています。

ヨハネの福音書 4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

 イエス様の泉は枯れることを知りません。湧き続けているのです。ただ、私たちがよその方がおいしそうだとそこから離れてしまうと、気づかないうちに弱ります。この世のもので満たそうとすると渇きます。主の泉は枯れることなく永遠に湧きますから、そこからいつもいのちをいただきましょう。

 しばしば私も説教する際に自分が枯渇しているなと感じることがあります。もうネタがないな。たとえ話も毎度同じだなとか。でも、その時に思い出すことばがあります。それはお世話になった先生が教えてくださったことです。

 それはみことばには無限の恵みがあり、そこから語り続ける限りは枯渇することないのですということ。

 ことばから離れて自分で語ろうとするから枯渇するのだということでした。


恐れから平安へ!

 ヨハネの福音書20章19-21節を味わいましょう。

19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 
20節 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21節 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 これはイエス様が十字架で殺され、弟子たちの心が打ちひしがれ、お先真っ暗となっていた時のことです。その時弟子たちの心を支配していたのは何でしょうか?

 19節を読むとわかります。弟子たちの心を支配していたのは「恐れ」でした。ユダヤ人たちからの迫害や攻撃を恐れて戸を閉め頑丈にカギがかけられていました。私たちもコロナウイルスについてしっかりと気をつけるべきでえすが、必要以上に恐れてしまうと心にカギをかけて閉じこもってしまいます。心を閉ざしてしまうと危険です。ただ恐怖心は往々にして心の引きこもりを起こさせるものです。

 恐れると人と関われなくなります。恐れると人をさばきます。恐れると勇気をもってチャレンジしなくなります。恐怖に縛られるとと何もしなくなってしまい結果弱ります。

箴言14:4 牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。

 飼葉桶が汚れて欲しくないなら、飼育が面倒なら牛を飼わないのが一番です。でも牛を飼わなければ、牛によって与えられる収穫も失われます

 何が言いたいのかと言いますと・・・失敗を恐れて何もしないでいるならケガもしにくいけれど、何も良いものを得られないということです。

 恐れに支配されカギをかけて閉じこもっていた弟子たちのところに、復活の主が来られました。「復活の主」であることが大切で、もはや死に勝利されて永遠のいのちを証明された主イエス様だということです。

 その復活の主イエス様が弟子たちの真ん中に立ち言われました。「平安があなたがたにあるように」と。

 20節にはこうあります。「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」 復活の主イエス様を見て喜んだのです!先ほどまでの恐れに支配され怯えていた弟子たちとは大違いです。この方を私たちの真ん中にお招きするならば、もはや死も恐れる必要がありません。圧倒的な勝利をもたらされた主イエス様が今も生きておられるのです。

 気をつけるべきは気をつけましょう。しっかり対策しましょう。しかし、恐怖に支配されてはいけません。コロナウイルスに支配されてはいけません。私たちを治める方は主なる神様おひとりです。主信じて心を騒がせない、慌てない!落ち着いて主にあって楽しいこともし、お店には行けなくても美味しい物を食べて、毎日の主にある恵みを満喫しましょう。

 趣味もぜひ持っていただき、この世界に主が与えてくださった良き物をさらに豊かに味わいましょう。それが何かしらの形で主に用いられていきます!

 

20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 主は良いご計画をもって今のこの時代に私たちを平安のうちに遣わしておられるのです。

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