前回とはだいぶ内容は違うようですが、一都三県に再び緊急事態宣言が出されようとしています。願望では年末年始までに感染者数を減らしたかったはずですが、かえって拡大してしまっている状況です。やむを得ないと言えるかも知れません。
「勝負の3週間」とのことばもありましたが、何を勝負したのかわからないままでした。とにもかくにも、やるべきことはもう決まっていまして、常にそれを続けてきた人にとっては今回の緊急事態宣言は「今までと変わらない」という印象かも知れません。
これらのニュースを見ながら、コロナウイルスの問題が始まってから1年が経とうとしているのに、人に一体何ができたのだろうかと改めて考えさせられています。
人はいったい何ものなのか
コロナウイルスについて色々なことが分かり、対策の仕方も学び、オンラインでの様々なやり方も少しは学びました。
でも、コロナウイルスの感染状況は初期よりずっと拡大し、収まるところを知りません。
ある時はうがい薬が効果的であると発表され、買い占めもあったようですがその後静かになってしまったのはあまり実際的ではなかったからでしょう。お茶、紅茶がコロナウイルスを99%死滅させるという実験結果も発表されましたが、人体に摂取した時に持続的にどれほどの効果を発揮するのかはさっぱり分からず、結果消えていった情報でした。
ワクチン接種は2月下旬から始めるとのことでしたが、遺伝子組み換えで作られたと言われるワクチンの安全性について、治験がまるで追いついていないのではないでしょうか。
ネットで見かけたアンケートによれば、ワクチンをすぐに受けたいと答えた人は回答者の15%程度。「しばらく様子を見てから」「あまり受けたくない」といった回答の人が80%以上でした。副作用はもとより、5年後10年後にどんな後遺症が発生するのか誰も分かりません。
どこを見ても何一つ決定的な方法が未だ手に入っていない現状です。人の英知を結集しても、なお解明までずっと時間がかかる現実です。それどころかコロナは突然変異を繰り返し型を新しく変え、より強力になっているものもあります。
人とはこの世界においてこんなにも小さな存在なのだなと改めて思い知るのです。
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
(詩篇8:4)
小さなウイルスにここまで世界中が振り回されてしまっています。
それどころかウイルス自体によらず、ウイルスに対する恐怖心等から批判し合い、あるいは人を食い物にし、互いに傷つけ合っています。
意図的に感染を広げる者、感染を軽んじて派手に遊び拡大させてしまう者、マスク等を転売する者、給付金詐欺、自粛警察、感染者や濃厚接触者へのいじめ、医療従事者への偏見、etc・・・
「コロナウイルスに負ける」とは、気をつけていても感染してしまったということではないように思います。
まさにこのような差別や自己中心、愛のない態度が表面化して、それによって多くの人が深く傷を負っているということではないでしょうか。
コロナ下で謙虚さを学ぶ
ディボーションの本(ロイド・ジョンズ著『一日一言』)を味わう中でこう言ったことばがありました。
「人間は科学理論によっては決して真理の知識に達することができない。」
神の啓示によって示していただかなければ真理にたどり着けない。それは言い換えると神様の助けを借りずに真理に到達することはできないということ。「自分の推理力に信頼するのをやめなくてはならない」とも語られていました。
ついつい大したこともない「自分の推理力」になぜか根拠なき自信を持ってしまうことがあるな・・・と反省です。
謙虚さを学ばなければならないと思います。
人が未知のものと出会う時、例えば、経験したことのないような災害や病気や理解不能な惨事、それらに出会う時に人は自らの小ささ、愚かさ、無知を改めて学び、謙虚にこの世界にあるものから教えてもらおう、造り主なる方に教えていただこうと求める必要があるのだと思います。
非常に真面目で信仰熱心で、その当時もっとも正しかった人とされるヨブという人物が旧約聖書に登場します。このヨブは多くの財産、雇人、子どもたちを失い、自らも原因不明の病に侵され、もがき苦しみます。
彼の奥さんは「あなたはこんなになってもなお、自分の誠実さを保とうとしているの?神を呪って死になさいよ!」とまで言いますが、ヨブはなおも神を信じ「幸いを神から受けるように、わざわいも受けるべきではないか」ととても立派なことを言います。
ヨブを見舞うために来た友人たちは、私たちがしばしばやってしまう「原因探し」をします。ヨブのこういうところが悪かったではないか?と・・・。案の定、ヨブはかえって傷つくばかりです。私たちも気をつけないといけません。
まさに彼らは・・・
「自分の推理力」を信じて、かえって神の摂理を見えなくしてしまった
のです。
「神に教えていただこう」という謙虚な姿勢
38章になってようやく神様が語り始めます。
「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:2)
そこから神様からの質問攻めです。もし良かったら38章以下を読んでみてください。
そして、神様からの質問にいくつ「YES」と答えられるだろうかと考えてみてください。
神との知恵比べです。
いくつか抜粋してみます。
あなたは生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してあるべき場所を指し示して、これに地の縁をつかませ、悪しき者をそこから振り落としたことがあるか。
地の広さを見極めたことがあるか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
光の住む所への道はどこか。闇のあるその場所はどこか。
あなたは雪の倉に入ったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。
あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
あなたは十二宮をその時にかなって、引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。
烏に餌を備えるのはだれか。烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようときに
あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。あなたはこれらがはらんでいる月を、数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。
あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみを付けるのか。
あなたはこれを、いなごのように飛び跳ねさせることができるのか。
経験したこともない、見たこともない、知らない・・・そんなことだらけです。
私たちは身の周りのことすら、自分の住む地球のこともさっぱり分かっていないのです。
謙虚に学び、謙虚に受け止め、謙虚に助け合っていかなければなりません。
ヨブは神様から問われ、自分が無知であるのに知っているかのように思い込む高慢な者であったことに気づき自らを恥じて言いました。
あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ42:3)
私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。(ヨブ42:5-6)
神にゆだね、落ち着いて今できることをする
人はどんなに賢くなり、どんなに技術を身に着けても、わずか100年ほどで生涯を終える小さな存在です。熱が数度上がったら身動きできなくなるほど「か弱い存在」です。
それなのに思い上がり万能感を抱いて生きています。
「ぞうさん」の作詞家で知られる詩人まどみちおさんは、私たち人間は自分で人間になろうと強く念じて人間になったのでさえないと指摘します。気が付いたら人間であって、生かされているのだと。自分の存在の出所さえ分からない人という存在を意識させられます。
今こそ、謙虚に神様を恐れかしこみ、今日という日を生かされている恵みに感謝して歩んでいけたらと思います。同時に「神にゆだねる」ということを学び、自分に出来ることはしっかりとなしつつ、焦らず騒がず歩んでいけたらと願います。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリ 1:25)
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ヨハ14:1)