東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル人への手紙12章1-7節「イエスを見つめて」

聖書

見よ。わたしは新しいことをする。(イザヤ書43章19節)

最新情報

【最新情報】What's New!?
☆1/16 イベントページを更新。
☆1/14 ユース制作動画「魔滅の祈り」を特別に限定公開

2021/01/04

ヘブル人への手紙12章1-7節「イエスを見つめて」

*** 1/3(日)新年礼拝 説教概略 ***

 新年おめでとうございます。いきなりですが、昨日ふと気づいたことがあります。最近私、やや長風呂になったのです。新年早々どうでもいい話ですいません。以前はあまり長湯ができなかったのです。冬場でもシャワーで済ますこともあったぐらいです。でも、最近熱いお風呂にじっくり浸かる良さが分かるようになりました。大人の仲間入りですね。

 なぜ、こんな話をするかと言いますと・・・


 新しい年を迎える、つまり年を経るということは、今まで知りえなかった新しい恵みを味わえるようになるということだと嬉しく思うからです。「若い時は良かった」と懐かしむ表現がありますが、そうでもないと思います。若い時には見えなかったもの、わからなかった恵みが年々増し加わっているのではないでしょうか。ですから、私たちはこの2021年が終わる頃には様々な知識や体験を人生に新たに加えることができるはずです。そう思うと年を取るということには恵みが豊かにあると言えるでしょう。

 若い時とは味わい方が変わったものとして、最近では紅白歌合戦もありました。若い頃は流行りの歌を楽しむことがメインでしたが、最近は歌手がどのような思いで歌っているのか、何を伝えようとしているのかに関心があります。

 その視点で見ると、人々を励まそうと思ってエールの気持ちで歌う歌手と、自分のことで精一杯の歌手との差に気づかされます。特にトリを飾ったミーシャさんは少し前に胸骨を骨折なさっていたのに全身全霊で歌われていて、司会者たちも感動の涙を流していました。困難な時代に、自分のことばかりになりがちですが、やはり人に寄り添い人を思う姿勢を持つ人は人を励ますことができますね。教会、キリスト者もそうでありたいものです。

 そんな事を黙想している中、ロイド・ジョーンズの著書を通して、改めて問われました。彼はこう言うのです。使徒たちが第一に伝えようとしたことは人生や生活原則ではなく、ひとりのお方なのだ。つまりイエス・キリストであると。そしてこう言うのです「あなたは一年前よりもずっと多くのことを知っている。だが、キリストをより良く知っているだろうか?」と。ちょっとドキっとしました。

 昨年2020年を365日かけて歩み、確かにコロナウイルスのことには大変詳しくなりました。対処法についてだいぶ学びました。その恐ろしさについて深く学びました。インターネットの使い方もだいぶ新しく学びました。

 しかし、イエス様についてはどうだろうかと。

 年を経ることが主イエス様を以前よりも知る者になるための時間とできるならば、私たちの人生はもっと豊かになるでしょう。そのことによってキリストに似た者へと変えられていくからです。

 この新しい年が終わる頃には、2021年はイエス様をより深く知る年であったと感謝して終わりたい。そこを目指した今日を歩んでいきたいのです。

今日のテーマは「主イエス様を見つめて歩む幸い」です。新しい年に、ぜひ皆さんも新しい一歩をキリストにあって踏み出して欲しいと思います。


イエス様を見つめてよう

 今日のカギとなるみことばは2節にあります。

2節  信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

 いつでもイエス様を見つめ続けましょうと語られます。3節前半でもこのように語られています。

3節  あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。 

 罪人の反抗を耐え忍ばれた方とはイエス様です。いつでもイエス様のことを考えて生きよと。なぜ「そうせよ」とみことばは語るのでしょう?

 3節の後半に答えがあります。

あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 イエス様がさみしいからじゃありません。あなたの心が疲れ果ててしまわないようにとの神様のメッセージです。イザヤ書4030にはこうあります。「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。」 若いから大丈夫!ということはありません。

 誰でも疲れて力尽きることがあります。いや、若いからこそ弱いとも言えるかもしれません。誰でもつまずき倒れてしまうことがあるのです。

 特にコロナ問題は最初の予想よりもずっと長引き、収まるところを知りません。オンラインでの会議やイベントにも慣れて来た一方で、もう疲れて来たという印象です。長い時間画面を見続けているので眼精疲労、肩こり、腰痛など肉体的にもしんどい面がありますね。

でも、ずっと本来見続けるべきは画面ではなくイエス様です。眼精疲労にも肩こりにもならないでしょうね!むしろ癒される。じゃあ、イエス様をもう少しじっくりと見つめると何が見えてくるでしょうか?今日の個所2節を改めて味わいます。

2節  信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい

 ここでは「キリスト」と言わず「イエス」と呼んでいますよね。実は聖書を読む時に、キリストと呼ぶ時とイエスと呼ぶ時と意識的に区別していることに気づきます。イエスとは人間としての呼び名ですから、その場合、人間となられたお姿により強調点があります。ですからここでは、私たちと同じように人となり弱さを担われたイエス様から目を離さないで!という意図があります。そしてここでは、イエス様を「信仰の創始者、完成者」と呼んでいますよね。神様は信仰される側ですよね?しかし、信仰される側の方が、信仰する側の人間となられたのです。それで、イエス様は父なる神様に対する信仰のあり方を私たちに示してくださいました。祈り方も教えてくださいました。それが「主の祈り」です。父なる神様を信じる者の代表としてのイエス様を見つめる時、信仰とは何かがよく見えて来ます

 完成者とあるように、他の人間の信仰は不完全ですがイエス様の信仰は完全だからです!事実、主イエス様は人となられて父なる神に信頼して歩む模範を示されました。

 イエス様の公生涯の初めには、悪魔の誘惑を受けました。しかしイエス様は奇跡を用いず、みことばへの信頼によって悪魔の誘惑を退けました。生涯を通してご自身の保身のために奇跡を用いたことはありません。人集めのために奇跡をなさってもいません。それゆえ私たちはイエス様の姿に倣うことができるのです。

 小さな船で渡航中、嵐に見舞われました。その時弟子は右往左往しましたが、イエス様は舟の船尾でぐっすり眠っていました。父なる神への信頼によって少しも慌てることなく身をゆだねていたのです。


人々の救いという喜びを見ておられたイエス様

 そしてここに、イエス様がどのように苦しみを耐えられたかも語られています。

 2節後半です。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 

 イエス様は非常に強い苦しみを通られました。ゲツセマネの園では、十字架の目前に控えて「苦しみのあまり死ぬほどです」「この苦しみを取り除いてください」と父なる神様に懇願したほどです。この苦しみから逃れてしまえば、人の救いは失われます。実現しないことになります。それをわかっていらっしゃっても尚、できるなら取り除いて欲しいほどの苦しみであったのです。でも、主イエス様は祈りの格闘の後に、「父よあなたのみこころをなさってください」との祈りにたどり着きました。

 主イエス様は苦しみが目の前にある時に、どのように歩まれたのでしょう。イエス様を見つめましょう。イエス様を見つめると、イエス様が見ていた景色が見えて来ます。

 この2節からイエス様は「辱め」という苦痛とともに「喜び」を見ておられたことが分かります。その喜びとは何でしょう?

 「人々の救い」という喜びです。

 旧約時代を生きた昔の人々の救い、イエス様と同時代の人々の救い、そして未来に救われる私たちをも主は見つめておられた。死の苦しみと私たちの笑顔を比べた時、イエス様に迷いはなくなりました。その救われる姿を喜びのうちに見ておられたから、辱めをものともしなかったのです。十字架の苦しみを耐え忍ばれたのです。

 かつて、南米のエクアドルのジャングルに5人の宣教師が福音を知らせるために行きました。そのジャングルにはアウカ族という部族がおり、彼らは外界の人は自分たちを食い殺す存在だと信じ切っていました。そのため、この宣教師たち5人をみな殺しにしてしまったのです。衝撃的な出来事でした。

 ところが、驚くべきことがその後に待っていました。殺された宣教師の1人の奥さんにエリサベス・エリオットという方がいました。他にも殺された宣教師のお姉さんがいました。彼女たちは協力して再びアウカ族に宣教し、なんと彼らは徐々に救われていくのです。

 実は殺された宣教師たちは、殺される最後の瞬間まで無抵抗だったそうです。その事実がアウカ族の心を打ったのです。そして殺された人の奥さんやお姉さんが、自分たちに復讐するどころか、愛をもって赦し福音を告げている姿に心を打たれたのです。壮絶な命がけの宣教の事実です。

 彼らはなぜこの困難を救いの機会とできたのでしょう。主イエス様から目を離さなかったからです。主が見ておられた救いの景色を彼らも見ていたからです。だから保身や復讐に囚われるのではなく、アウカ族の救いという神のみこころに喜びのうちに歩んだのです。

 実にこの宣教師たちの姿が多くの者の心に火を灯しました。多くのクリスチャンに影響を与えました。ある人々は彼らの本物の信仰を知って、自分の生き方を振り返り恥じ、悔い改めました。ある人々は彼らの宣教者としての姿に心打たれ自ら献身していきました。

ヨハ12:24にこうあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」  

 一粒の麦から本当に多くの実りが生まれたのです。そのすべての始まりは主イエス・キリストの十字架です。そこから多くの実りが世界に広がりました。

 私たちは苦しみばかりを見つめがちです。しかし、主を見つめるとそこには救いの喜びがあることに気づきます。試練さえも神の愛の塊であると気づきます。イエス様はこの5-7節で語られていることを熟知されていたことでしょう。

5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」 7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

 この新しい年、様々な戦いがあるでしょう。でも、私たちはそれでくじけてはならないと主は言われます。試練をただの苦しみとして見ないで、主の愛をそこに見るように。その先にある救いの喜びを見るようにと語られます。試練にある神の恵みをあまりにも小さく見積もってしまう不信仰な私たちです。

 しかし、主イエス様はそこにある救いの大きさを知っておられたので、苦難の道を喜びへの道として完走されたのです。私たちにその信仰を示されました。旧約の信仰者はまだ見ぬキリストをみことばによって信じて、信仰の歩みを完走した証人です。私たちにはその証しも与えられ、その信仰の完成者イエス様をも見つめることが出来ます。

1節 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 主イエス様から離れずについていきましょう。主が肩を貸してくださり、時にはおぶってくださるのですから、必ず私たちは完走することができます!主イエス様を見つめ続け、この一年を歩みましょう。

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *