東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書22章63-71節 「神の子キリスト」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/12

ルカの福音書22章63-71節 「神の子キリスト」

*** 4/11(日)主日礼拝 ***

ルカ2263-71節 「神の子キリスト」

 私たちと神様との距離が近くなるにつれ「問う者から問われる者へ」と変えられていくのは不思議です。最初は神様に向かって「あなたは本当に神なのか?あなたはいらっしゃるのか?」、「あなたが神ならなぜ、こんな悲惨なことを?」と色々と問いかけます。しかし、神様を知るにつれて、実に神様から自分自身も問われていることに気づき始めます。


 偉そうに問いかけてきた私たちに対して、「そういうあなたは何者か?」「わたしが答えなければならないほどに、あなたはわたしに何かをできたのか?」と神様の問いかけに心を探られて参ります。

 今日の場面も不思議な場面です。イエス様は権力者たちにひどい目に遭わされ尋問されています。ところが、尋問している者たちがかえって「問われている」ように見えて来るのです。イエス様に上から目線で質問して答えさせようとしています。それなのに、イエス様がお答えになることによって、彼ら自身が自らの罪深さを露わにするかたちになっています

 問う者がいつの間にか問われる者に。

 不思議な神様の権威をそこに感じるのです。

 神の子キリストの前に立つ時、誰しもがあなたはわたしを信じるのか?と問われます。この方は愛の方。無償の愛を持ち、求める者・悔い改める者・信じる者を赦し、恵みをもたらされる方。この方を知る者とならせていただきましょう。


1. 思い込みに支配される者たち


 ユダヤ人の大祭司の官邸へ連れて行かれたイエス様はそこで不当な扱いを受けていました。なぜならユダヤ人権力者は、イエス様の存在が疎ましかったからです。自分たちの築いてきた支配体制を脅かす存在と恐れ、妬みと憎しみに囚われていたのです。63-65節
ルカ22章63-65節
さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。また、ほかにも多くの冒瀆のことばをイエスに浴びせた。

 イエス様に目隠しをしてムチで叩き、誰が叩いたか「当ててみろ」と言いました。直訳では「預言してみろ」です。「お前が本物の預言者なら当ててみろ!」ということです。もちろんイエス様にはそんなことは分かっていました。他にも彼らは散々イエス様を侮辱しました。夜明けになってイエス様は大祭司の官邸から最高法院へと引き渡されます。66節にある通りです。

最高法院というのは「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人の最高裁判機関です。70人で構成されていました。この最高法院の者たちは、なんとかしてイエス様を死刑にしようと、その証拠を得ようとしています。それで67節にあるように「おまえがキリストなら、そうだと言え」と尋問しているのです。イエス様を偽預言者、民を扇動する革命首謀者として有罪に仕立て上げたかったのです。ですから、イエス様は彼らの心を見抜いてこう答えています

ルカ22章67後半-68節
しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

このイエス様のおことばの真意をもう少し砕いてみるとこんな感じでしょうか。

わたしが何を語ろうともあなたがたは信じる心を持たないでしょう?わたしがあなたに『本当はどう思うのか?』と尋ねても、あなたは答える気がないでしょう?あなたがたには、わたしと対話する気がない。そうですよね?

と、主は言っておられるのではないでしょうか。

自分は好きな質問をするが、それに対する主の答えを真摯に聞く姿勢が皆無です。

「求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります」との主のおことばにあるように、求める者にはイエス様は惜しみなく教え、また与えてくださいます。 

彼らはイエス様を偽者だ、ペテン師だと決めつけました。先入観の塊ですよね。自分の思い込みをまず一旦横に置いて、この方のおっしゃることが本当かどうか、真剣にまっさらな心で聞いてみよう!という思いがない。

妻は昔、牧師夫人にだけは決してなるまいと固く心に決めていました。当時まだ私も若かったとはいえ、人の心を変えることがいかに難しいことかは知っていました。人生が大きく変わる決断です。ただ、その時に一つだけ彼女に言いました。あなたの今の気持ちは分かった。でも、あなたの思いを一度横に置いて、神様に聞いて欲しいと。神様に祈って、素直な心で神様の声を聞いて欲しいと。

不思議ですよね・・・。あれほど牧師夫人にだけはなるまいと言っていた彼女が、神様に祈り始めると、次から次へと神様から語られ、「こんな私でも神様が召してくださるなら、させていただきます」と思う人へと変えられたのですから。

 皆さんは、自分は「こういう生き方しかできない」とか、逆に「こういう生き方は無理だ」と決めつけることはないでしょうか? 

 サーカスの象は、赤ちゃんの頃から訓練を受けます。足に鎖をつけられ、逃げたり暴れたりすることがないようにします。そうやって成長すると、鎖が杭に固定されていなかったとしても、足に鎖さえあれば逃げたり暴れたりしないそうです。鎖が足についている限り、自分は逃げられないと思い込んでいるからだそうです。 

 私たちの心もこれと似ています。自分が思っているより不自由です。本当は鎖などないのに、まるで鎖につながれているかのように、思い込みの奴隷となっています。自分にはこの仕事はできない。この奉仕はできない。自分は変わることができない。一生信じることができないと。あらかじめ結論を決めているということは、対話をする気がないということですよね? 

 でも、せっかくなのでイエス様と対話しませんか?

 神様はあなたに「あなたはできるよ。わたしがともにあって力を与える!」と語りかけておられます。

 「私には無理です」と耳を塞がないで、あなたの声を聞かせてくださいと耳を開きませんか。「どうせ私は」と決めつける不信仰をそろそろ辞めませんか?心を開いて、まやかしの鎖など外して、素直に主の語りかけを一つ一つ聞いていきませんか。

 そこに「平安と祝福に満ちた将来」があります。エレミヤ33:3を参照しましょう! 



2. イエス様の明確な答え

 
 イエス様は聞く心を持たない彼らに対して、最後に大胆なことばで、ある意味彼らの望みをかなえ、同時にそこに真実を告げています。

 21章25-26節
だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」

 これは詩篇1101節を背景にしていることばです。「救い主の預言」として当時の人々の間で理解されていたものです。父なる神様が御子キリストに対して「あなたは、わたしの右の座についていなさい」とおっしゃるのだという個所です。イエス様がこの箇所をご自分のこととして引用されたのです。それは、イエス様があのダビデ王よりも優れた者であり、キリスト本人であるとおっしゃったということです。本来であれば、これを聞いて「まさか本物の救い主か?」と彼らが少しでも心を開いたら良かったのにと思います。しかし、閉ざされた心。揚げ足を取るために聞いている彼らにあるのは「しめた!」という悪意ばかりです。確認を取るように70節でこう聞き返します。

ルカ22章70節
彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」

この問いかけ。実は「神の子」の前には冠詞がついています。ギリシャ語で冠詞を付ける場合、一般論ではなく固有名詞、あるいは限定・独自性を示します。訳し出すと「あの(預言されていた)神の子なのか」というニュアンスになります。そしてイエス様はよどみなく、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」とお答えになりました。間違いなくイエス様ははっきりとお答えになったのです。だからこそ、彼らは信じれば良かったのですが・・・彼らの目は自分たちの思い込みに支配され曇っていました。

「わたしはそれです」とのイエス様のお答えには深い意味があります。ここはギリシャ語で「エゴー・エイミ」と表現され、直訳的には「わたしはある」とも訳せるものです。これは出エジプト記でモーセが神様に対して、あなたの名をなんと紹介したらよいのか?と聞いた時の神様の答えでした。「わたしはある」という者である(存在そのものだ)と神様は答えられたのです。イエス様はご自身のことを同じように、あなたがたが言うとおり「わたしはある」というものだとおっしゃったのでは?よく知られている神の「名乗り」を使われ、イエス様はハッキリとお答えになったのです。このイエス様のことばを聞いた権力者たちは、71節でこう言っています。

ルカ22章71節
そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

このことばは興味深いですね。
彼らはイエス様から自白を引き出したと息巻きました。

しかし、客観的に見てみると、ここまで聞いたことで、さばかれる立場に自ら身を置いたのは、尋問している最高法院の人々なのだとわかります。

イエス様の口から直接「神の子」だと聞き、しかも「わたしはある」という神ご自身の名乗りをそのままなさった。それを聞いたのです。

まさに、これ以上証言など必要ないのです。
逆に、ここまで聞いた上ゆえに神様から問われる立場になったでしょう。

「あなたはわたしの愛する子の答えを聞いたのに、なぜ信じなかったのか?」と。

大祭司や最高法院の権力者たちは、イエス様を尋問することによって、自分たちが信じるのか、信じないのか問われる立場になったのです。

 この世界には神様を信じられないという方々も多くいらっしゃいます。

 そして「神よ、あなたはいるのか?イエスよ、あなたが本当に神の子、救い主なのか?」との問いを発したことがあるかも知れません。私もそうでした。

 しかし、神様はもう答えていらっしゃるのです。

 全世界でベストセラー、聖書を通して、信じる者たちの証しを通して「わたしはいる。わたしがそれである」と答えておられます。ぜひこのお方と「対話」をしてみてください。そしてその声に聞いていただければと切に願います。



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