東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ1章8-10節「福音の広がり」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/07

Ⅰテサロニケ1章8-10節「福音の広がり」

*** 4/7(水)祈祷会 説教概略  ***

Ⅰテサロニケ1章8-10節「福音の広がり」


 人類の歴史の中で、世界の価値観を変えるほどの画期的な発明というものがなされることがあります。聖書の福音がそれによって、より広い世界に届けられるようになったという意味では、やはり「印刷技術の発明」がありますね。


 ルネサンスの3大発明の一つにグーテンベルクの活版印刷という技術があります。
当時のクリスチャンたちにとっては、待ちに待った発明だったのではないでしょうか。最初に印刷された書物が聖書であったと言われます。これにより飛躍的に聖書の複製速度が上がり、一気に世界に福音が広まったことでしょう。

 そして、現代ではインターネットは非常に大きな発明ですね。これによって世界中の人と簡単に繋がれるようになりました。神のことばもWEBを通して世界中にますます広めやすくなったことは確かでしょう。

 そう考えると・・・・聖書の時代に神のことばを伝えていく、信仰を証ししていくことは、これらの技術が一切ない中でのことですから、本当に大変な労力と時間がかかったことでしょう。しかし、今日のみことばを味わうと、そうした技術なしに瞬く間に神のことばが広まって行ったことがわかります。

みことばと信仰

 
Ⅰテサロニケ1章8節
主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。 

 8節の終わりに「そのため、私たちは何も言う必要がありません」とパウロが言うほど、「あれよあれよ」という間に広まったようです。その中身を具体的に読み解くと、神のことばが響き渡ったとまず語られています。

「響き渡った」とは「音が響いていく」表現が使われています。
英語の訳ではsoundring out(ベルが鳴り響く)など。印刷技術もなくインターネットもない時代です。でも、福音の良き音ずれが響き渡るように広がりを見せたのです。

それにとどまらず、神に対するあなたがたの信仰が伝わって行ったのだとわかります。
主のことばだけでなく、神に対する信仰もあらゆる場所に伝わったというのです。それは聖書の教えだけが広まったのではなく、その聖書を信じて歩んでいるキリスト者の姿、そこにある熱意や魅力も伝わったと言えるでしょう。

それはみことばに対して、それに応答する中身の伴った信仰があったということです。
ことばだけが上滑りしてではなく、みことばを信じて歩んでいる人々の証しがともにあったのでインパクトがあったわけです。

私たちの教会の理念にもあります。HPや週報の表紙に掲載されています。あるいは礼拝が始まる時にもスクリーンにありますが・・・「みことばに生き、祈りと賛美に満ち、子どもからお年寄りまで家庭的な交わりを形成し、キリストの愛に根ざして宣教する教会」 最初に「みことばに生きる」ということが語られています。「みことばを読み」でもなく、「みことばを学び」でもなく、「みことばに生きる」としています。それはみことばを聴くだけの者にならず、みことばを読んでお終いではなく、みことばを信じて心に受け入れ、みことばに従って歩んで行くことを大事にしているのだということです。どんなに聖書知識があっても、生活が聖書とかけ離れているなら、何の意味があるでしょうか。聖書の愛にいくら感動していても、その愛を受け入れ、その愛に自分も生かされていないならば、絵に描いた餅ですよね。少なくとも私が牧師として招聘されてからこの方「みことばに生きる」ということはひたすらに大事にしてきたことです。

 なので、祈祷会でもJYLCでも青年会でもメッセージを聞き、学びをした後には、それぞれがみことばを聞いてどう感じたのか、何を教えられ、何を決心したのか。それを一言でもいいから告白し、分かち合って歩んで行くことを続けてきました。

日曜日だけで終わらず、平日の歩みの中でみことばを思い巡らし、みことばによって主のお心を思い起こし、みことばに励まされ、みことばによって慰められ歩んで行く。こうして神様のみことばが、上辺だけのもので終わらず、一人一人の血となり肉となっていく時(できれば、DNAにまでなる時)、人々は聖書のことばに本当に力があることを体験し、知ることができます。感銘を受けるのです。みことばこそが私たちが拠り頼むべき究極最高の権威です。

ですから、ここでもテサロニケの兄姉たちが御霊に導かれてみことばに生きたので、マケドニア・アカイア地域にラッパが鳴り響くがごとくに彼らのその知らせとみことばに生きる信仰の姿が広まって行ったのです。


みことばに生きるなら

 
9-10節の最初までを読むと、響き渡らせた張本人たちのことに触れられています。

Ⅰテサロニケ1章9-10節前半
人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。

9節では接続詞があまり訳し出されていませんが実際には「というのは」と最初に補って理解すると意味がわかりやすくなります。そうすると、「というのは、人々自身が私たちのことを知らせてくれているからです。」となります。

そして「人々自身」がとは、テサロニケのクリスチャンの熱心な姿を知った人々であり、彼らがみんなその姿に感銘を受け、何もしなくても彼らが噂を広め、どんどん各地に広げたからのだとパウロは言っているのです。

印刷技術もなく、インターネットもなかった時代ですが、人々の心が動いた時、人々は黙っていられず、どんどん広まって行ったのです。確かに今は色々なツールを用いて伝道ができます。けれども、結局そのツールで最も問われるのは中身なのではないでしょうか?

「口コミ」ってありますけれど、実際には口コミが一番です。

 信頼する友達から「教会いいよ、慰められるよ」「本音で話せるし、祈ってもらえるよ」と語られることが大きい。インターネットがどんなに高速で、どんなに綺麗な映像を配信しても、そこで語られているメッセージ、そこで歌われる賛美、そこで祈られる祈り、人々の表情。それらが良いものでなければ、何の魅力も伝わらないことでしょう。

 この当時、テサロニケの兄姉が、パウロたちをどのように受け入れたのか。そして、どのようにして偶像礼拝の罪から立ち返ったのか。どのようにして生けるまことの神に仕えるようになったのか。それらが人々の口を通して伝えられていきました。そして、最後は御子の再臨を待ち望む希望ある姿が人々の心に響き渡って行ったのです。特にここはギリシャですから偶像礼拝が非常に盛んな地域でした。ご存じのように「ギリシャ神話オリンポスの神々」の総本山です。そんな町の中で、偶像礼拝を後にして、こうして彼らがイエス・キリストに立ち返ったということは、とてもインパクトがあったことでしょう。

 しかし、イエス・キリストの救いの恵みには、オリンポス12神が束になってもかなうはずもありませんでした。造られた命なき偶像が、創造主でいのちを与える側である神の御子イエス様と比べうるはずもありません。

10節後半 この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

 イエス様の死と復活が、最後の審判における罪へのさばきを無効にしてくださいます。

 このお方があまりにも素晴らしいので、私たちがみことばに生きて、キリスト中心にいつでも歩むなら、高等技術などなくても、いいものは人の姿を通して広まって行くのです。

 私たち自身が互いに愛し合い、みことばを味わい楽しみ、感動し感銘を受け、喜びをもって歩んで行くならば、その知らせはどんどん伝わっていきます。

 そこをしっかり押さえた上で、出版物もネットも主の栄光のために用いましょう。





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