*** 4/7(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ1章8-10節「福音の広がり」
人類の歴史の中で、世界の価値観を変えるほどの画期的な発明というものがなされることがあります。聖書の福音がそれによって、より広い世界に届けられるようになったという意味では、やはり「印刷技術の発明」がありますね。
ルネサンスの3大発明の一つにグーテンベルクの活版印刷という技術があります。
当時のクリスチャンたちにとっては、待ちに待った発明だったのではないでしょうか。最初に印刷された書物が聖書であったと言われます。これにより飛躍的に聖書の複製速度が上がり、一気に世界に福音が広まったことでしょう。
そして、現代ではインターネットは非常に大きな発明ですね。これによって世界中の人と簡単に繋がれるようになりました。神のことばもWEBを通して世界中にますます広めやすくなったことは確かでしょう。
そう考えると・・・・聖書の時代に神のことばを伝えていく、信仰を証ししていくことは、これらの技術が一切ない中でのことですから、本当に大変な労力と時間がかかったことでしょう。しかし、今日のみことばを味わうと、そうした技術なしに瞬く間に神のことばが広まって行ったことがわかります。
みことばと信仰
Ⅰテサロニケ1章8節
主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。
8節の終わりに「そのため、私たちは何も言う必要がありません」とパウロが言うほど、「あれよあれよ」という間に広まったようです。その中身を具体的に読み解くと、神のことばが響き渡ったとまず語られています。
「響き渡った」とは「音が響いていく」表現が使われています。
英語の訳ではsoundやring out(ベルが鳴り響く)など。印刷技術もなくインターネットもない時代です。でも、福音の良き音ずれが響き渡るように広がりを見せたのです。
それにとどまらず、神に対するあなたがたの信仰が伝わって行ったのだとわかります。
主のことばだけでなく、神に対する信仰もあらゆる場所に伝わったというのです。それは聖書の教えだけが広まったのではなく、その聖書を信じて歩んでいるキリスト者の姿、そこにある熱意や魅力も伝わったと言えるでしょう。
それはみことばに対して、それに応答する中身の伴った信仰があったということです。
ことばだけが上滑りしてではなく、みことばを信じて歩んでいる人々の証しがともにあったのでインパクトがあったわけです。
みことばに生きるなら
9-10節の最初までを読むと、響き渡らせた張本人たちのことに触れられています。
Ⅰテサロニケ1章9-10節前半
人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。
9節では接続詞があまり訳し出されていませんが実際には「というのは」と最初に補って理解すると意味がわかりやすくなります。そうすると、「というのは、人々自身が私たちのことを知らせてくれているからです。」となります。
そして「人々自身」がとは、テサロニケのクリスチャンの熱心な姿を知った人々であり、彼らがみんなその姿に感銘を受け、何もしなくても彼らが噂を広め、どんどん各地に広げたからのだとパウロは言っているのです。
印刷技術もなく、インターネットもなかった時代ですが、人々の心が動いた時、人々は黙っていられず、どんどん広まって行ったのです。確かに今は色々なツールを用いて伝道ができます。けれども、結局そのツールで最も問われるのは中身なのではないでしょうか?