*** 4/4(日)イースター礼拝説教概略 ***
使徒4章8-14節「復活の主と出会い、変えられる」
ある教会で小さな子が死への恐怖があって、毎日怯えていました。ところが、教会に集っていた年配の婦人が牧師さんと笑顔で話しているのを聞いたそうです。
「年を取るって素敵なことですね。神様とお会いできる日が近いたんですから」と。
その子はそれに感動し、そんなおばあちゃんのようになりたいと願い、イエス様を信じて死を恐れなくなりました。
こんな話も伺ったことがあります。ご高齢のご婦人がお引越しをなさったそうです。そして、なぜかお引越しされたばかりなのにニコニコしながら「私はもう一回だけお引越しがあるわ」と言いました。「はて?また引っ越すんですか?」と思ったら「天国へのお引越し」という意味だったそうです。死への恐怖心など微塵もない。神様のもとへお引越しを楽しみに待つ姿でした。感銘を受けます。
教会では、子どもたち、若者たちが年配の皆さんをよく見ています。だから、思春期の難しい時期の中高生がおじいちゃん、おばあちゃん世代の兄姉を見て、将来〇〇さんのようになりたい!と言うのです。今どきの中高生がそう言ってくれるなんて、嬉しいじゃないですか。年配の方々が嬉しそうに教会に来ている姿、イエス様を信じて安心している姿に「未来の希望」をもらっているのです。それが教会のすばらしさです。
ところが、こうした皆さんは最初からこのような人だったわけではありません。イエス・キリストと出会い、その復活の力を知ったからこそ、天国へのお引越し、イエス様に会える日を楽しみに待つという考えを心から持てるように変えられたのです。
それはイエス・キリストの愛弟子においても同じでした。
普通の人が変えられた
キリストの弟子たちは、とても臆病な普通の人の集まりでした。13節のところにこうあります。
使徒の働き4章13節
彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。
彼らはここにあるように、ごくごく普通の平凡な一般人です。私たちと同じ普通の人です。実際、イエス様が逮捕された時には、ほとんどの弟子が逃げてしまいました。一番弟子のペテロも「お前もイエスの弟子だな!」と言われると怖くなって3度も否定しました。イエス様が十字架で死なれた後、弟子たちは逮捕を恐れドアにカギをかけて閉じこもり、ガタガタ震えていたのです。
ところがある出来事を境に大きく変えられていきます。
それがキリストの十字架の死と復活という出来事です。
それで、権力者たちは弟子たちに驚いたのです。あまりにも堂々と確信を持って平安の内にキリストについて語っていたからです。
実は今日の場面、普通の会話の場面ではありません。なんと弟子たちは逮捕され、権力者に圧力をかけられ、尋問をされていたのです。彼らが足の不自由な人をいやし、キリストの復活を宣べ伝えていたからです。
これに大反対する者、それを好ましく思わない者たちが弟子を捕らえたのです。それこそ弟子のペテロらの返答次第では、拷問や投獄が待っていました。普通ならば恐れおびえ、真実を言えなくなる状況です。それなのに弟子たちは死をも恐れず、大胆に語りました。その姿に人々は唖然としました。普通の弱々しい無学な人たちのはずなのに!!
なんて力強い!なんて輝き、魅力的なんだ!そんな風に思ったのではないでしょうか?
この変わりようは何でしょう??
イエス様の弟子たちは偉い人たちの前にこんな風に反論さえしています。9-10節です。
使徒の働き4章9-10節
9 私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、
10 皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
この人が癒されたのは、あなたがたが殺したキリストの力ですよ!死から復活したイエス・キリストの御名によってなされたのです!と言ぅたのです。
この方には罪の結果である死を打ち破る力がある!神の子なのですから!と。
さらにペテロは12節で
使徒の働き4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
彼らを責めている人々の中には、神は信じるけど、キリストの復活は信じないよ!死者の復活も信じないよ!信じる者が天国に行けるなんて信じないよ!という人々がいました。
彼らからしたら「キリストが死から復活した」という話がそもそも赦せない!
死から復活したキリストとの出会い
実は、私も最初は死からよみがえったという部分はすぐには信じがたかったのです。
色々説明は受けました。
①復活のキリストと会った人々が500人以上いる、
②遺体や骨が見つからず、墓はからっぽ、
③ローマの精鋭部隊が墓を守っていたので、弟子が盗み出すことは不可能、
④仮死状態だったのではと主張する人もいるけれど、死から3日目であり得ない
・・・などです。
ただ、そうした理由よりも、ある時私が最も納得できたことがあります。
それは、弟子たちの劇的な変化でした。
私はウソによっては人は本当の意味で変わることはないと思います。
ウソは人を良い方には変えない。しかし、真理は人を変える力があると信じるのです。
あんなに臆病で弱々しく、自分勝手だった弟子たち(誰が一番偉いか!と議論していた彼ら)が、まるで生まれ変わったかのように命がけで、人々の救いのためにキリストの死と復活を宣教するようになったのです。
なぜでしょうか?
死からよみがえったキリストに出会ったからです!
キリストが本当の神の御子で、人を変える力があったからです。
ウソのために人はこんなに変われません。弟子たちはキリストの復活を譲らなかった。黙れと言われても本当だから黙れないと言って伝えたのです。迫害され、殺されても譲らなかったのです。
死を覚悟してまで「キリストは復活した!死を滅ぼしてよみがえらえたのだ!」と彼らが言い続けたのは、それが真実だったからではないでしょうか?
一言「ごめんなさいウソでした」と言えば、殺されないで済んだのです。
でも、しなかったのは本当だったからです。
よみがえったイエス様と語り合い、死をも打ち破る救いがあることを確信したからこそ、伝えずにはいられなかったのです。黙ることができなかったのです。
イエス・キリストを信じならば、誰でも新しくされます。
弟子たちは私たちと同じごく普通の人間でした。しかし、この世の力も、死の恐怖からも解放され、堂々と喜びにあふれて、心に平安を抱いてキリストにある救いを宣教するようになったのです。自分のことばかり考えていた自己中心の罪に支配されていた弟子たちが、この罪の赦しを受け、罪から解放されて人々への愛に生きるようにされていきました。
田原米子さんの証し
彼女は高校生の時、新宿駅で電車に身投げ自殺を図りました。
一命はとりとめましたが指が三本しか残りませんでした。・・・両足と左腕を切断、残った右手にわずか指3本のみが残されたということでした。
彼女は包帯でグルグル巻きの状態で、毎日その痛みに悩まされベッドの上でも死ぬことばかり考えていました。痛みで眠れないために処方された睡眠薬がありましたが、彼女はそれを隠してためておき、自死に使おうと考えていたそうです。
ただ、毎週金曜に宣教師とクリスチャン青年が訪れ、聖書の話をしてくれたとのこと。
けれど、少しも興味が持てなかったそうです。
「本当に神がいるなら、なぜ私を死なせてくれなかったの!こんな体でどうやって生きろと言うの!」と思ったのです。
毎晩、枕に顔を押し付けて泣き叫んでいました。しかしなぜか宣教師と青年が気にかかりました。何を言われても穏やかで怒らず、約束は必ず守ってくれました。見たことがないような笑顔が印象的でした。そうした中で少しずつ気持ちに変化が起こりました。
3か月後、彼らが置いていったメッセージテープを彼女は聞きました。
まさに「キリストの愛と十字架」の話でした。
「キリストが十字架にかかられたのは、あなたを救うために、あなたの身代わりとなられたからです。御自分のいのちさえも投げ打ってキリストは、あなたを愛しておられるのです。」そして3日目にキリストがよみがえられたという復活まで語られました。
なぜか涙があふれました。こんな体だけど、愛されているなら生きてみようと。神の愛にかけてみようと思ったのです。そして、この夜、初めて穏やかに眠りにつくことができたそうです。
翌朝、目覚めるとまるで景色が違って見えました。
そして、一つの聖書のことばが彼女の胸を打ちました。
Ⅱコリント5章17節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
この方はこの後、見舞いに来ていたクリスチャン青年ご結婚され、二人のお子さんも与えられました。TVや映画でも紹介され、小中高の学校で講演し、人々に「生きるすばらしさ」を伝える人になりました。
死を考える子に「死んではいけない」ではなく「生きるすばらしさ」を伝えたいと!
そして、指三本しか残っていないのに、以前の健康な体に戻りたいと一度も思わなかったそうです。体の健康よりも、心の健康がずっと大切だと知った。「たとえ両足片手がなくても、イエス様の新しいいのちに生きることのすばらしさ比べられるものはありません」と彼女は言います。
本物と出会ったから変えられました。死んで終わりの方ではなく死を打ち破り生きておられるキリストです!この方を心に迎え、平安を持ってぜひ歩んでいただきたいと願います。
※イースター礼拝の動画はもうしばらくご視聴できます。
教会花壇より(2021年4月6日)